虎と龍 Ⅱ
「どうだったよ、映画は」
柳はまだボウッとしている。
「よく分からないけど、美しい映画だったと思います」
「「美しい」と感じれば、それでいいんだよ」
「お前も美しいけどな!」
「あ、くどいてくれてるんですか?」
「バカを言うな」
俺は笑って言う。柳が少し元気を取り戻した。
「本当に美しいものは、悲しいんだよ」
「そうなんですね」
「まあ、悲しいから美しい、とも言えるんだけどな」
「でも、ただ悲惨、ということもあるんじゃないですか」
「悲惨、というのは、巨大な悲しみだ。だから後から誰かが必ず何とかしようとする。つまり、悲しみが美を産む、ということなんだな」
「なるほど」
「すべての「美」は、悲しみが根底にある。だから、楽しいだけのものが美を生み出すことはねぇんだよ」
「難しいですね」
「お前、そうやってうっちゃってると、いつまでも「美」をものにできねぇぞ!」
「アハハハ」
「お前の家は素晴らしい家だ。正巳さんも菊子さんもそりゃ立派な方々だし、御堂も澪さんも素晴らしい。だからお前たちは悲しみを感ずる間もなかなかねぇだろう」
「そうかもしれませんね」
「幸せだからこそ、弱点にもなる。人生というのは深いんだぞ」
「はぁー」
「そして、世界は泥である《 E fango e il mondo. 》。ジャコモ・レオパルディの詩集『カンティ』の中の言葉だよ」
「人間が人間でなければ、この世界には何の価値もねぇ。世界が泥であることに気付いた人間が、何かをやるんだよな」
「石神さんって、スゴイ人ですよね」
「どうだ! スゴイだろう!」
柳が笑う。
「それでも、君は生まれたのだ。清澄な日のために…《 Doch du, du bist zum klaren Tag geboren. 》」
「フリードリッヒ・ヘルダーリンの『エンペドクレスの死』の中の言葉だ。これもいいだろう!」
「ステキです」
「うん。この世は泥なわけだけど、俺たちはその中に生まれた。それは「清澄」を実現するためなんだよ。ドッホ・ドゥ、ドゥ・ビスト・ツム・クラーレン・タグ・ゲボーレン、というなぁ」
「石神さんはスゴイです」
「お前なぁ、それはもういいよ。もっと褒め称えられねぇのか?」
「語彙が少なくて」
「だからお前はダメなんだよ。ロマンティシズムがねぇ」
「またそれですかぁ」
「いいか、小3の双子だってなぁ。こないだもルーが「タカさんって、動物で言ったらライオンだよね!」って言うんだぞ。なんでだって聞くと「だって百獣の王だもん!」ってなぁ」
「アハハハ!」
「それでハーは「タカさんって、お寿司で言ったら大トロだよね!」って。なんでだって聞くと「一番高くて美味しいから!」ってなぁ。答えが分かってたって面白いよ」
柳は大笑いし
「負けました」
と言う。
ひとしきり笑い、ため息をつく。
「私は全然ダメですねぇ」
「お前、勉強はできるのかもしれねぇが、本を読んでねぇだろう」
「確かにそうですね。受験勉強ばかりで、余裕がありません」
「ばかやろー。読書っていうのは余裕があるからやるんじゃねぇ。人間に必須だから読むんだよ」
「そうなんですか」
俺は柳のこめかみをぐりぐりする。
いたい、いたいと言う。
「うちの子どもたちは全員、双子も含めて、相当な読書をしてるぞ?」
「そうなんですか!」
「双子なんて、カントの『純粋理性批判』なんかも読んだしなぁ」
「?」
俺はカントの話をしてやる。
「私は石神さんの隣には、到底立てませんねぇ」
「ばかやろう」
俺はまたぐりぐりする。
柳は痛がりながら喜ぶ。
「できねぇ、と言うのはいいけどな。なら諦めることだ。人間はそれでもいいんだよ。でも後で泣いたりするな、ということだ」
「……」
「お前、本当はドラゴンなんだろ?」
「母から聞きました」
「ちっちゃい龍だよなぁ。トカゲか?」
「もう!」
「今日の映画に、ちゃんと答えはあったろう」
「!」
「俺は待ってるぞ」
「ほんとですか!」
「まあ、あんまり待つと死んじゃうけどな」
「いやです!」
俺たちは笑った。
「まあ、待つっていうのは冗談だけどな」
「えぇー! 冗談なんですか?」
「お前が勝手に来るのはそれでいいんだよ。それはお前の人生だ」
「がんばります!」
「俺の「嫁」って言ってる女もいるからなぁ」
「えぇー!」
「明日会わせてやるよ」
「ほんとですか!」
「ああ。じゃあ、今日はもう寝ろ」
「はい」
「おい、俺の部屋に入ってくるなよな!」
「鍵は閉めないでください」
「このやろー!」
俺たちは三階に上がり、それぞれの部屋へ入った。
ガチャリ。
「アァッー!」
柳が叫び、亜紀ちゃんが何事かと顔を出した。




