緑子、移籍。
旅行から帰った翌日。
俺は響子の部屋に行った。
丁度昼食を終えた頃だ。
「タカトラー!」
響子が抱き付いてきた。
俺は響子の身体をペチペチと触りながら、六花に様子を聞く。
まあ、夕べ電話で聞いていたのだが、響子の前で俺が心配していることを示さなければならない。
「問題が一つありました」
え、夕べは無いと聞いていたが。
「石神先生がいらっしゃいませんでいた」
こいつ、こんなジョークが言えるようになったか。
響子は、そうなのそうなの、と必死で訴えて来る。
六花はニコニコして見ていた。
「愛が足りません!」
誰だ、この台詞を教えたのは。
俺は響子を抱きかかえ、いつも通り俺の部屋へ連れて行った。
途中で看護師たちが指さして笑っている。
これもいつものことだ。
響子を膝に乗せて仕事をしていると、緑子から電話が入った。
「おう、久振り!」
「今週、また遊びに行ってもいいかな?」
「ああ、別に構わないぞ」
響子が俺の頭に抱き付いてきた。
「たかとらー」
甘い声を出す。
「ねえ、あんた今どこにいるの!」
「病院の俺の部屋だが」
「何よ、今の声は」
「ああ、なんでもねぇよ」
響子がスマホを充てている口元で「チュッ」とやる。
「あんた、今何やってんのよ!」
「いや、抱えてる子どもが悪戯してるんだよ!」
「へぇー、さぞオッパイの大きな子どもなんでしょ!」
緑子は胸が大きくないことを気にしていた。
「今度説明する! じゃあ土曜の午後に待ってるからな!」
緑子が何か叫んでいたが、俺は通話を切った。
響子はニコニコして俺を見ている。
ふと窓を見ると、部下たちが笑いを堪えていた。
あいつらぁ。
土曜日の1時に緑子が来た。
またでかい鞄を持ってきているので、泊まるつもりだろう。
まあ、俺もそのつもりではいたが。
子どもたちは大歓迎で、皇紀まで前回もらった写真を大事にしてると嬉しそうに言った。
緑子はまたリボンだののお土産を持ってきてくれ、皇紀には派手なネクタイをくれた。
「今日はごめんね。石神と大事な話があるから、また後でね」
俺は緑子の荷物を部屋に運んだ後、地下の音響室に案内する。
俺はコーヒーを煎れて、緑子のソファの前の小さなテーブルに置く。
「どうしたんだよ、今日は」
「その前に、言うべきことがあるんじゃないの?」
緑子はソファで腕組みをしながら言った。
「ああ、あの電話の時か」
俺は響子のことについて、障りがない程度のことを話した。
「ちょっと特殊な子でな。俺がしょっちゅう見てないといけないんだ」
「ふーん」
「あの日も、俺に急に抱きついてきて、悪戯してたんだよ」
「相手が女だと分かって?」
「そうだろうな」
「またあんたに惚れた女なの」
「惚れたって、相手は9歳だぞ」
「立って歩ければ、あんたに寄って来る女は幾らでもいるわよ!」
無茶を言うな。
「まあ、いいわ。今日はちょっと相談があったのよ」
緑子は話し始めた。
今、緑子が属している劇団は日本でもトップクラスのものだ。
研究生として所属するだけでも、俳優としてのステータスになる。
そこで緑子は長年中堅以上の存在で在り続けている。
大した実力だ。
定期公演でも必ず準主役か重要な役処。たまに主役も張っている。
数年前からテレビドラマへも出演し、CMも数本出ている。
更に、声優としても活躍中で、海外の大御所俳優の日本語吹き替えなどの仕事も増えた。
そして最近、大手芸能事務所から、移籍の話を受けた、ということだった。
今回の相談は、そのことだ。
「それで、石神はどう思う?」
「あ?」
「あんたに相談に来たのよ!」
さすが舞台俳優。でかい声が出る。
「そんなもの、俺は分からないよ」
「もーう! 真面目に考えてよ」
「お前が決めてやるしかねぇだろう」
「……」
「お前、俺にそう言って欲しかったんじゃねぇのか?」
「……」
「だって。だって、どうしていいか分かんないのよ」
「そうだろうな」
「あんたは昔から冷たいのよ!」
「そうだったな」
「そうよ! あの時だって」
二十年近く前、俺たちは新宿でずぶ濡れになっていた。




