皇紀、ドライブ Ⅲ
「俺が子どもの頃に病気ばっかりしてたのは、前に話したよな」
「はい、聞きました。今からだと想像もつきませんが」
「俺もそう思うよ。だけどな、病気ばっかりしてたから、免疫力が高まった、ということもあるんだと思うぞ」
「そうなんですか」
「ああ、スポーツで身体を鍛えるのと同じよな。だから今でも過剰反応のようなものはある」
「過剰反応?」
「うん、ちょっとカゼをひいても、40度くらいの熱がでるんだよ」
「大丈夫なんですか?」
「全然へいき」
「アハハハ」
「そういうわけで、子どもの頃は入院ばかりしていたんだけど、ある時、静馬くんという高校生と一緒になったんだ。ちょ
うど皇紀と同じ小学5年生だったよな」
「へえー」
「その静馬くんはものすごく頭のいい人で、俺にいろいろなことを教えてくれた。その時に、ニーチェの話も聞いたんだ」
「そうだったんですね」
俺たちは外堀通りから新宿通りに入っていた。
「本当にいろいろなことを知ってる人だったんだけど、特にニーチェに心酔していて、ニーチェの言葉を暗誦してたんだ。
ドイツ語でもな。俺は毎日のように、それを聞かせてもらってた」
「ドイツ語ですかぁ」
「当時、高校まで行く人って、いまよりもずっと少なかったんだよ。だから行く人はエリートよな。中でも、静馬くんが通
ってた高校は優秀な高校だったからなぁ」
俺は、静馬くんとの短い日々を皇紀に話してやった。
チョウさんのエロ本の話は、大爆笑だった。
車は青梅街道に入った。もう家は近い。
俺は高層ビル群の中で車を停め、外に出て、ベンチに座って皇紀と話し続けた。
「ニーチェが何で偉大なのかと言うと、近代で人間がダメになることを予見し、その解決法を示唆したからなんだよ」
「すいません、全然分かりません」
「中世までは神が中心だった。そこから人間中心の近代に移った、という話はしたよな」
「はい、覚えています」
「それと、映画『十戒』を見せた時に、人間は常に自分の上の存在が必要だ、という話をしたよな」
「ああ! そう繋がっているんですね」
「そうだ。人間は近代以降、宗教、神を喪ってしまい、自分の上の存在がなくなってしまったんだ。そのことを逸早く気付
き、警鐘を鳴らした人々がいる。当時のインテリたちだな」
土曜日で出勤していた人なのか、近くのベンチで若い女性がスマホを見ていた。
「ニーチェがその中でも圧倒的なのは、非常に具体的に近代の崩壊原因を述べたことにある」
「どう言ったんですか?」
「有名な言葉だよ。「神は死んだ(Gott ist tot)」という言葉だ。ゴット・イスト・トート、というな」
「何か怖いですね」
「そうだな。そしてニーチェは、その神が死んだ前提で、思想を語りだすんだ」
ベンチの女性が、こちらをチラチラと見ていた。
まあ、普通の話じゃないし、話してる相手は小学生だからなぁ。
「そのニーチェは、実は大変敬虔なキリスト教者だったんだよ」
「え、そうなんですか」
「うん。父親が牧師だったんだよな。だから小さい頃からキリスト教への深い信仰があった。それを捨てたわけだ。そして
そのことは、ニーチェを生涯苦しめ続けた」
「はぁー」
ベンチの女性が近づいてくる。俺は話を止めた。
「あのぅ」
「はい」
「先ほどからすごいお話が聞こえてきて、よろしければ一緒に聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。面白いかどうかは知りませんけど」
皇紀がきょとんとしている。
「いいえ、非常に興味深いお話でした。是非お願いします」
俺と皇紀は少し移動し、女性が座るスペースを空けた。
「「神は死んだ」というのは、『ツァラトゥストラかく語りき』という著作の中に出てくる。この本は、山の中で思索を重
ねたツァラトゥストラが、人の町に降りて宗教道徳をメッタ切りにする、というな」
「どんな宗教の道徳も、「神は死んだ」という事実の前では基盤を喪ってしまうんだ」
「ああ、それは前に聞いた、人間のすべての善悪や価値が宗教によって規定されていた、ということなんですね」
「その通りだ」
女性が驚いた顔で皇紀を見る。
「それが人間中心の思想になった近代の大混乱を示していることは分かるよな」
「はい」
「ニーチェはその大混乱を予見し、それを乗り越える道を示した。それが「超人」ということだ」
俺は「永劫回帰」や「超人」について話す。
「つまり、自分のすべての喜びも悲しみも、全部を受け入れ、愛せ、ということが永劫回帰なわけだ」
「ああ、「運命への愛」アモール・ファーティですね!」
「そうだよな」
女性は目を丸くして皇紀を見る。
その後も俺は皇紀にニーチェの様々な言葉を説明し、1時間ほども喋っていた。
「今日はこのくらいにしようか。またいろいろ話してやろう」
「お願いします」
女性はぐったりとなっていた。
「すいません、今日はこれで帰ります」
「あ、はい。本当にありがとうございました」
「それでは」
「さよなら」
俺と皇紀はフェラーリに乗り込む。
エンジンをかけ、しばらく暖気してから走りだした。
女性はその間、ずっと俺たちを見ていて、走り出すときに、スマホで写真を撮ったようだ。
家に着いた。
「タカさん、今日は本当にありがとうございました」
「おう、また行こうな」
「是非!」
皇紀は階段を駆け上がった。
姉弟だよなぁ




