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Call me / Call you

作者: 木漏れ日

 ジリリリリッ……。ジリリリリッ……。

 一ヶ月ほど前から鳴り響いている耳鳴りの中に電話の呼び鈴が混じっていることに気が付いたのは、つい最近のことだった。耳鳴りはずっと鳴り響いているわけではない。例えばしんとした授業中に、突然耳鳴りがしたかと思ったら、次の時間にはさっぱり鳴らなくなっている。家でゴロゴロしている時に鳴り始めたと思ったら、トイレから戻った時には既に耳鳴りはしなくなっている。

 何か耳に異常が起きているのではないかと思い、私は親に相談して耳鼻科に連れて行ってもらった。耳鼻科は最寄り駅に隣接したビルの五階にあった。ビルの五階には様々な店が並んでいて、耳鼻科はその様々な店の一つだった。隣には薬局があり、中を覗くとマスクをした人が不機嫌そうに自分の名前が呼ばれるのを待っていた。

 受付を済ました私たちは待合室に並んで座っていた。学生服の人もいたが、席を埋めていたのはもっぱらお年寄りの人達だった。聞こえるものとすれば本のページをめくる音ぐらいで、とても無機質な空間だった。

 自分の名前が呼ばれて、親を待合室に残して私は診察室へ入っていった。歯医者で見るような大きい椅子に座らされて、耳鼻科医の先生が私にいくつかの質問を投げかけてきた。

「耳の奥は痛い?」

「いえ、特に……」

「耳鳴りがするのはいつ頃から?」

「……一ヶ月前ぐらいからです」

「最近ヘッドフォンとかイヤホンを付けて音楽を聴いてたりしてた?」

「行き帰りの電車の中でたまに聴くぐらいです」

「痒みはある?」

「痒みはないと……思います」

 じゃあ少し耳の中を見るよと言って、私の座っている椅子が助手によって回転し、何やら筒のようなものを耳の穴に入れてから耳鼻科医の先生は耳の奥を見始めた。

 両耳とも見てもらったが、耳鼻科医の先生によると特になんの異常も見られないそうだ。耳鳴りの原因として多いのは細かい毛が耳の奥に入ってしまうことらしいのだが、それも確認されなかったらしい。

「一ヶ月前と言うと、ちょうど九月ごろか。君は高校二年生だったっけ?」

「はい……」

「もしかしたらストレスが原因なのかもしれない。季節の変わり目は、ストレスによって聴覚が過敏になって、耳鳴りを起こしちゃう人が少なからずいるんだよね。現状耳の中に異常は見られないから、季節の変化に慣れたり、学校生活が落ち着いたら治ると思う。それでも耳鳴りが酷いってときは、またおいで」

 耳鼻科医の先生はマスク越しでも伝わるような笑顔を見せて、私の診察に使った器具を銀色のトレイに乗せた。

 ストレスが原因の耳鳴り、そんなものもあるのか。

 帰りの車の中で、私はウトウトとしていた。シートベルトに顔の左半分を預けて、私は重い目蓋をゆっくりと閉じた。

 その時だった。例の耳鳴りが、突発的に耳を襲った。

 母に耳鳴りが起きていることを言おうか迷った。もし言えば、母はさらに他の病院へ診せにいくと言い出すだろう。それは私の望むところではなかった。忙しい学生生活の午後をストレス性の耳鳴りの診察のために使うのは余りにももったいない気がしたからだ。

 そういうことで、私は黙っていることにした。いつも通りなら、この車が家に着くまでには耳鳴りも治ることだろう。今度こそ寝るぞと思い、なるべく何も考えないように頭を空っぽにした。

 ジリリリリッ……。ジリリリリッ……。

 耳鳴りに紛れて、電話の音がする。最初は幻聴かと思ったが、電話の音は次第に明確になっていき、ついには耳鳴りをかき消してまで私の耳に鳴り響いた。

 目蓋の裏にポウッと、緑色をした公衆電話が浮かび上がった。電話ボックスのようにガラス壁に囲まれてはおらず、電話だけがポツンと不自然に立っていた。ぼんやりとしたものではなく、まるで触れられそうなほど輪郭がしっかししている公衆電話、音はそこから流れてきているように感じた。

 どうするべきか悩んだ。頭の中に受話器の幻覚と幻聴を抱くなんて、私は重度の病にかかっているのではないかと思った。受話器を取ればこの音は鳴り止むのだろうか。頭を割るような呼び鈴の音は非常に耐え難い。口を開けたら、呼び鈴の音が外に漏れ出てきそうなほどだった。少し迷いながらも、私は真っ暗な部屋の中でライトのボタンを押すように、目蓋の裏に浮かび上がる公衆電話に手を取ってみた。

「もしもし……?」

 もちろん、この声も頭の中で起こっていることだ。隣で運転している母にはこの声は届いていない。

 受話器の向こうでは雑音が聞こえた。しばらく受話器を耳に当てていると、警察の番組で聞くような、加工された音声が聞こえてきた。

「お前は、また逃げた。見て見ぬ振りをした」

 突然の言いがかりに思わず顔をしかめた。

「……あなたは誰なの? どうしてそんなことを言うの?」

「お前は私を見捨てた。お前がそのことを認めるまで、電話は止まない」

 何のことかと聞き返そうとした時、電話がプツンと切れてしまった。すると暗闇の中に寂しく浮かぶ緑色の受話器は消えて、耳鳴りはいつの間にか聞こえなくなっていた。

「ほら、着いたよ。そんな寝方してると、顔に跡がついちゃうわよ」

 母の声でハッと目が覚めた。いつの間にか寝ていたらしく、フロントガラスの向こう側には毎朝見るコンクリートの壁が広がっていた。

 お前は、また逃げた。

 見て見ぬ振りをした。

 私を見捨てた。

 受話器の向こうから投げかけられた言葉が胸にのしかかる。その重さに耐えながら、少しよろけた足取りで私は車内から出た。


     ●


 脳内の受話器から投げかけられた言葉は、一週間後の月曜日まで後を引いていた。あれからも何度も耳鳴りと共に電話が鳴り響いて、受話器を取っては「お前は逃げた」という旨の言葉を言われてすぐさま電話は切れることの繰り返しだった。心に深く突き刺さった言葉の剣は、日に何度も電話が鳴り響くせいで中々抜けなかった。無理に抜こうとすると余計に頭にそのことがちらついて、私は憂鬱な気分の数日間を過ごした。

 朝食を済ましてから身嗜みを整えて、必要な教科書やノートですっかり重くなったバッグを肩にかけて玄関のドアを開けた。十月の後半ともなって、スカートから吹き込んでくる風がいよいよ冷たくなってきた。お日様を遮っている雲はどこまでも広がっており、街は雲に押し潰されそうな圧迫感に包まれていた。おかげでもう何日も、日光に当たった記憶がない。

 学校へ向かう足取りは重かった。バス停までの道のりで、仮病を使って今日は休もうとさえ考えた。一人娘である私に親はとても甘い。チョコレートなんか鼻で笑えるほど、私は過保護に育てられている実感がある。

 バスに乗って一眠りすると、最寄り駅に着いた。ここから三十分ほど電車に揺られれば私の通う学校に着く。後ろの人に迷惑にならないよう素早く改札を済ませて、ホームの階段を早足で降りた。

 ホームには私と同じように、制服姿の学生がたくさんあった。その合間合間に紛れて、真っ暗だったり焦げ茶色だったりするスーツ姿のサラリーマンが紛れている。その中に彼女の姿がないことを確認して、人目を避けるように一号車の方へと向かった。

 四号車は彼女が乗っていた号車だ。もし彼女が乗ってきたら、私は必ず見つかってしまうだろう。なにせ、中学時代に一年ほど見ておらず、髪型も変わった私の後ろ姿を見ただけで私だと当てたほどなのだ。

 点字ブロックの外側を歩く。ここを歩いていると、彼女が並んでいる人混みの列から飛び出してきて、私を線路へ突き落とすシーンが頭をよぎる。そのシーンの後に、彼女自身も線路へ降りてくるシーンも想像出来る。動揺している私に向かって、彼女は寂しそうな顔をこちらに向けて、私と彼女は仲良くひき肉になる。そんなシーンを、ホームを歩くたびに想像した。

 列の後ろに並ぶと同時に、電車がけたたましいブレーキ音を響かせて停車した。ドアが開いて、せき止められていたダムの水のように多くの人が一斉に飛び出てきた。彼らが降りてできた隙間を埋めるように、私を含む多くの学生が電車に乗り込んだ。一号車なので、四号車に比べると空いている。もっとも、もう数ヶ月も四号車には乗っていないので、詳しいことは分からないのだが。

 運転手のすぐ後ろの角に寄っかかって、私はまた眠ろうと思った。眠っている間は何も考えなくていい。胸にのしかかる重みも忘れられる。

 そう思ったのも束の間、あの耳鳴りがまた私を襲ってきた。そして暫くするとあの時と同じように、耳鳴りの裏に電話の呼び鈴の音がしていることが分かった。

 ジリリリリッ……。ジリリリリッ……。

 次第に呼び鈴の音は大きくなっていき、耳鳴りをかき消し始める。目蓋の裏にはいつの間にか緑色の公衆電話が浮かんでいた。あまりにうるさいこの音に耐え切れなくなった私は、恐る恐る空想上の手を伸ばして受話器を取った。

「……またあなたなの?」

「逃げたね」

 相変わらず機械を通したような声だった。それでも、その裏にひしひしと恨みや怒りといった感情が掴み取れる。

「あなたは誰なの? ねぇ、答えてよ……」

 ひとしきり沈黙した後、電話のなしは答えた。

「あなたが捨てたものを数えてごらん。この馬鹿」

 電話はプツンと切れて、プープーという音が耳に響く。もう誰も聞いていない受話器に向かって「だって、仕方ないじゃない……」と声を漏らし、私は眠りに落ちていった。


     ●


 藤咲紗奈とは小学生以来の友達だった。もともと内気な私は、誰に話しかけることも出来ないままオロオロとしていた。そんな時に声をかけてくれたのが紗奈だった。

「名前なんて言うの? ふーん、千恵ちゃんって言うんだ。私は紗奈。このあといっしょにあそぼ!」

 私と紗奈は磁石のS極とN極のように正反対の二人だったが、不思議と互いに互いのことが気に入り、いつもくっついて行動していた。紗奈には大勢の友達がいたが、私には紗奈とあと二人ぐらいしか友達と呼べるものがおらず、その二人も学校という一人ぼっちに厳しい場所から自分を守るための相互利用の関係にあった。つまり、誰かの家に行って遊んだり、逆に家に呼んだりして遊ぶ普通の友達の関係というのを、私は紗奈以外に持っていなかったのだ。

 片や教室の隅で本を読む子供。片や教室の中心で男子とも混じって遊ぶ子供。そんな二人が仲良く行動している姿は、とても不思議に映っただろう。

 小学校高学年にもなると、いじめというものが本格的に始まる。五年生までは何とかやり過ごしてきたが、六年生では運悪く私に白羽の矢が立ち、格好の的となった。流石に殴ったり、蹴ったりといった体に傷を作るようないじめはされなかったが、物を隠したり、私の見ていない間に机に鉛筆で暴言を書き込んだりと、とにかく陰湿ないじめが続いた。

 そんないじめに嫌気が差して、私は学校を休むようになった。元々小説が好きだった私は、そのようないじめの世界があることをあらかじめ知っていた。深く傷ついたこともあっただろうが、どうしてそんなことをしてまで笑いを取ろうとするのか理由が分からず、幼稚な彼らから距離を置きたいという理由もあったのかもしれない。おそらくこの時、お母さんの過保護な面の芽が生まれたのだろう。

 そうして家に篭っている時、学校からのプリントを率先して届けてくれたのは紗奈だった。彼女の善意によって、いじめによって分断されかけた私と紗奈の関係は続いた。

 プリントを受け取るのはいつもお母さんだった。私としても面と向かって紗奈に話しかけるのには気が引けて、いつもお母さんにプリントを貰っていたのだ。そのせいか、紗奈は家に帰った後、私に毎回電話をかけた。

「千恵ちゃん。実はというとね、千恵ちゃんをいじめてた奴ら、社会科の山室先生にこっぴどく叱られたんだって。ほんとはうちがぶっ飛ばしてやりたかったんだけど、先越されちゃった」

 紗奈が元気そうな声で私に話しかける。いざ顔を合わせてしまったら、彼女の説得で学校に引き戻される気がした。いじめられていた人物が戻ってきたクラスが気まずい雰囲気に包まれることは知っていた。そして、その雰囲気に耐えられなくなって結局学校には来なくなるのだ。

「紗奈ちゃんは大丈夫なの……? 私と関わってたりしたから、いじめられたりとかしなかった?」

「うち? うちは大丈夫だよ! いじめてた奴らと少し気まずい雰囲気になったけど、私はとにかく、大丈夫だった! それよりね、今日クラスで図工の授業があったんだけど……」

 紗奈は私と学校を繋ぐ唯一の架け橋だった。結局その後も私が小学校に足を運ぶことはなかったが、紗奈の話を聞いているだけで孤独の寂しさはじんわりと和らいだ。

 私の通っていた小学校は小中一貫だったため、関係を一新するためにも私は中学受験をすることになった。九月の頭にそのことを匂わすようなことをうっかり電話で話してしまうと、紗奈は「うちもその学校を受ける」と言い出した。

 それからの紗奈の頑張りは凄まじかった。中の下くらいだった紗奈の成績は瞬く間に上昇し、あっという間に独学で勉強を進めていた私に追いついた。卒業式当日、紗奈は卒業証書を私の母に渡した。成績表は、その項目の殆どが二重丸で埋まっていた。

 紗奈と私は同じ中学校を受験し、そして辛くも合格した。

 中学生として初の登校日、私は後ろから声をかけられて、振り向くとそこには紗奈の姿があった。

「やっと、千恵ちゃんの顔見れた」

 紗奈は涙を浮かべ、それを手で拭ってから私の隣を歩き始めた。

「あいも変わらず美人だなぁ、千恵ちゃん」

 中学時代は、とても幸福な時間だったと思う。相変わらず入った部活も性格も、挙げ句の果てには得意科目まで正反対な二人だったが、テスト前になったら一緒に勉強して、いじめなどとは無縁の生活を送った。

 それが今はどうだろうか。

 高校にある紗奈の席に、彼女の姿はない。

 同じ高校に入った私たちは、一年生の時に同じクラスになった。中学校でも、見知らぬ世界に足を踏み入れてもなんとかやってこれたのだ。だから高校だって、きっと大丈夫なはずだ。

 今思うと、この時慢心していた自分を殴ってやりたい。中学と高校はまた空気が異なり、違う世界なのだということを私は理解していなかった。

 高校生としての生活が軌道に乗り始めた時、彼女へのいじめが始まった。

 心の中で私が私に質問をしてくる。

『いじめの被害に遭っている人物に親しくしたらどうなるだろうか?』

 私はその答えを知っていた。

 その時から、いついかなる時も消えることのない罪の意識が私の胸に芽吹いた。その芽は数ヶ月の時を経てすくすくと成長し、いまでは私の心を縛り上げている。

 お前は、また逃げた。

 お前は、私を見捨てた。

 お前は、見て見ぬ振りをした。

 電話の主の名前を、私はずっと前から知っている。


     ●


 教室に入って一番最初に目につくのは紗奈の席だ。もはや誰も使うことのない席は、クラスの真ん中にポツンと置いてある。一年生の時はクラスの中心人物と遊んでいたような人物が、二年生になってからの一学期で再起不能になるほど叩きのめされるなんて、誰が想像ついただろうか。

 最初のうち、いじめに至る原因は分からなかったが、男絡みによる同クラスの女子からの嫉妬というのが段々と明らかになってきた。もっとも、紗奈から誰かに告白をして、成立したからというわけではない。紗奈のことをこの学校の男子の誰かが勝手に好きになり、その男子のことを好きだった私のクラスの女帝が嫉妬し、引き連れている部下を使っていじめ始めたというのが大まかな流れだった。

 女帝の手腕は凄まじかった。神経のように張り巡らされた情報網を駆使して紗奈の弱みや欠点を暴き出し、時にはありもしない噂を流して、時には部下を使って紗奈を取り囲み、あたかも仲良くそうに振る舞いながら鋭い言葉で紗奈を責めた。恐らく今までもこうやって、気に入らないものを排除してきたのだろう。彼女の顔には苦心のようなものは微塵も感じ取れず、ただ機械のように彼女を追い詰めていった。

 彼女の魔の手は当然、仲が良かった私にまで迫ってきた。

「千恵ちゃんってさぁ、紗奈ちゃんと仲がいいんだよねー」

 屈託のない笑顔で彼女は話しかけてくる。

「うん。そうだけど、何か……?」

「もしこれからアイツと仲良くしたり、庇うようなことしたら、次はお前だから」

 私は彼女の顔を見た。そこには先ほどの笑顔は消え失せており、底の見えない真っ暗な目が私のことを捉えていた。彼女は何も言わずに立ち去っていき、すぐさま表情を変えて他のグループに混ざっていった。

 私はしばらく下を向いて、自分の机の面を凝視していた。そしてはっと紗奈の席の方へ向くと、既に紗奈は女帝とその部下に取り囲まれていた。

 ある日数少ない友人の一人と会話した時、ふと彼女についての話になった。女帝を陰で嫌っているその友達はーー隠れてないと消されてしまうので仕方ないがーー女帝と中学が一緒だったらしかった。

「彼女はね、ああやって色んな人を潰してきた。残念だけど、千恵も穏便な学校生活を送りたかったら、紗奈ちゃんにこれ以上関わるのはやめておいたほうがいいよ」

 彼女の目には諦めが透けて見えた。そこには恐怖の色もあり、言っていることが嘘ではないことが一瞬にして読み取れた。

 ある日、紗奈が話しかけてきた。あれは化学講義室へ向かう途中だったと思う。

「千恵ちゃん……一緒に講義室へ行かない?」

 久しぶりに彼女の顔を正面で捉えた。驚くほどやつれていて、目からは生気が失われていた。

 違うんだ。私も私の友達も、女帝とその部下以外のクラスメイト全員も、アイツに脅されているだけなんだ。

 思わず言葉を返そうとしたその時、紗奈のずっと後ろの廊下で、女帝がじっとこちらを睨みつけているのを見つけてしまった。

 足の震えが止まらなくなった。背中から冷や汗が出てきて、呼吸はいつの間にか荒くなっていた。

『もしこれからアイツと仲良くしたり、庇うようなことしたら、次はお前だから』

 私は紗奈に言葉を返すこともなく、彼女に背を向けて走り去った。

 その次の日から、彼女は学校から姿を消した。

 紗奈のいなくなったクラスは金魚のいない空っぽの水槽のように思えた。ある日、私は焦点の合わない目で、女帝の顔をちらりと見た。満足そうな、勝ち誇った顔をして、彼女は達成感に満ち溢れていた。私と紗奈を繋ぐ鎖は、こうしていとも簡単に千切られた。

 ……いや、違う。千切られたんじゃない。

 私が、私から、千切ったんだ。

 人間関係が第三者によって崩されることなんてよくあることだ。しかし、最終的に関係を切るか切らないかは、やはり本人の手に委ねられているのだ。

 私はその事実から、ずっと逃げていた。

 自分から鎖を断ち切ったことを、認めたくなかったのだ。

 教室の隅から紗奈の席を眺める。彼女の机は今や女帝の椅子代わりになっている。もはや最初からそこには誰も座っていなかったかのように振る舞う彼女は、人間の形をした別の何かにしか見えなかった。

 再び耳鳴りがした。まるでタイミングを見計らっていたように鳴り響く耳鳴りの奥に、私は呼び鈴の音を再び見出した。

 もう逃げたりはしない。

 深く息を吸い込んで、目蓋をゆっくりと降ろした。目を閉じると、周りの喧騒がより一層際立った。たびたび起こる笑い声と、教室の中に響く女帝の声。やがてそれらがすうっと消えていき、目蓋の裏に緑色の公衆電話が現れた。

 ジリリリリッ……。ジリリリリッ……。

 暗闇の中で私の心にけたたましい音を投げかけてくるその公衆電話に向かって手を伸ばし、受話器をそっと耳に当てた。

「もしもし?」

 返答は返ってこなかった。いつも電話の奥で聞こえていた雑音はいつの間にか消えており、代わりに鼻をすするような音が鼓膜を震わせた。

「私はもう、逃げない。あなたが誰か、やっと分かったのよ……」

 鼻をすするような音が止み、受話器からは何も聞こえなくなる。

「あなたは紗奈じゃない。それはもう分かった。人の心の中に勝手に電話をかけるなんて誰も出来ないもの」

「あなたは、私が切り捨てた昔の私、紗奈と仲が良かった頃の"千恵ちゃん"」

「……やっと気づいたのね、この馬鹿」

 化学講義室へ向かう途中で紗奈に話しかけられたあの日、いや、それよりもっと前の、あの女帝に脅された日かもしれない。心の中では平成を保とうとしながらも、私というクラスでのキャラクターは二人に分裂しかけていた。

 紗奈と仲の良い私。

 そして、この学校で生き残るために、あの女帝から身を守るために紗奈と縁を切った私。

 この二人は最初のうちこそ互いに拮抗していたが、紗奈を排除する動きが活発的になってから後者の私は心の中でだんだんと幅を利かせるようになった。私は紗奈と仲の良い私を心の隅っこに封じ込めることで、学校での生活と、心の平穏を保とうとしたのだ。

「あんたは、本当に馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だっ!」

 あの時見捨てた"千恵ちゃん"から、このクラスで息を潜めている私に、罵詈雑言が飛び出してくる。紗奈を見捨てた私に、言い返すことなど出来なかった。

「紗奈ちゃんはいつだってあんたの事を考えてくれてた。小学校の時だって、紗奈ちゃんにもたくさんの友達がいたのに、その友達と遊ぶ時間を削ってまで紗奈ちゃんはあんたに電話をしてくれたんだよ? なのに、どうして……」

 紗奈と電話越しに話した記憶が一斉に蘇ってきた。後ろに流れていく景色のように、紗奈の声が頭の中に響いては、過ぎ去っていく。


『クラスの男子がさ、流行りのサッカーアニメの真似して校庭でクルクル回ってんの。え? 千恵ちゃんもあのアニメ見たことあるの? あんなの真似したら、絶対に怪我しちゃうよねー』


『千恵ちゃんにおすすめしてもらった本を読んでみたんだけど、すごく面白かった! 小説って、なんだか頭の良い人が読むイメージだったから今まで触れてこなかったんだけど、文章だけであんなに表現出来るなんて、ほんとに私と同じ生き物なのかなーって思っちゃった。また、おすすめの本があったら教えてね』


『えっ、千恵ちゃん中学受験するの? ……なるほど、そうだよね。アイツらと一緒だと流石に気まずいしね。でも、そっか、〇〇中学かぁ……あの学校、けっこう頭いい学じゃなかったっけ? うーん、今からでも間に合うかなぁ』


『今は千恵ちゃんと電話越しにしか話せないけど、もし同じ中学校に合格できたらさ、絶対にその顔見せてもらうからね! 約束だよ、やーくーそーくー!』


『千恵ちゃん、私も受かったよ! いやぁ、最初は全然受かる気しなかったけど、人ってやればできるもんなんだね。それより、約束忘れてないよね? もう数ヶ月も千恵ちゃんの顔見てないけど、後ろ姿だけで私には分かっちゃうんだから。逃げようたってそうはいかないからね!』

 

『千恵ちゃん、今日顔見た時びっくりしちゃった。あんなに大人っぽかっかなぁって。それと、懐かしくてなんだか涙が出てきちゃった。ごめんね、色んな人がいる前で少し涙ぐんじゃって。ほんと、千恵ちゃんに比べたら私なんてまだまだ子供っぽいよ。私も千恵ちゃんのこと少しは見習わなきゃだね』


 罪の意識が足元から這い上ってきて、胸が苦しくなった。頬にはいつの間にか涙が伝っている。息がつまり、少しだけ嗚咽を漏らした。

「……今からでも、間に合うかな? 調子のいいやつだって、思われないかな?」

 私は"千恵ちゃん"に聞いてみた。ほんの少し間を置いた後、"千恵ちゃん"はため息まぎれに優しく語りかけてきた。

「そんなこと、やってみなきゃ分からないじゃない。早く行けよ、この馬鹿」

 

 目蓋をゆっくりと開けた。耳鳴りはしていない。もちろん、あの公衆電話の呼び鈴の音も聞こえなくなっていた。席を立ち、教室を出て保健室に向かった。普段から活発ではなく顔色も良い方ではないためか、体温計で測ったあと早退の許可はあっさりと出た。

 荷物をまとめて教室を出ようとした時、私は後ろから話しかけられた。

「早退? どこ行くつもりなの?」

 そこに立っていたのはこのクラスを牛耳る例の女帝だった。珍しいことに、いつも周りにいる部下を引き連れてはいなかった。

 彼女の目は、いつも黒い。底の見えない真っ暗な目で、目を合わせた相手を怯ませる。その目は相手の行動の真意を全て見透かされているような印象を与える。この時も、虫の知らせで何か不都合なことが起こると察知したのだろう。彼女の顔からは明確に不機嫌であることが読み取れた。

 でもここで怯んでちゃ、同じことの繰り返しだ。

「体調が悪いの。じゃあね、〇〇さん」

 私は彼女に背を向けて、校門に向かって歩いた。下駄箱を出ると優しい午後の日差しが私を包み込んだ。校門を抜けると同時に私は駅まで走った。改札を抜けてホームに降り、いつもの癖で一号車の方へ行こうとした自分を抑えて四号車に乗り込んだ。

 家の最寄駅で降りて、急いでバスに乗った。この時間帯だからか、バスに乗っているのはご老体の夫婦と、同じように仮病を使った根暗そうな男子生徒しかいなかった。

 家について玄関を開け、親の心配も無視してリビングにある電話の前に立った。半ば薄れかけていた紗奈の家の電話番号は、私の指が記憶していた。

 受話器を耳に当てて、呼び鈴の音を聞きながら待った。その時間は途方もないほど長い時間に思えて、辺り一体に電話の音が染み渡っているようにさえ感じた。

 プルルルルッ……。プルルルルッ……。

 紗奈の親は共働きだ。だから、この時間帯に電話を出れるのは彼女しかいない。

 呼び鈴の音が途切れて、少し間を置いた後懐かしい紗奈の声が聞こえてきた。

「……もしもし?」

 今度は私が紗奈と学校とを、外の世界とを繋ぐ架け橋になるんだ。例えもう、紗奈との鎖が完全に途切れてしまっていたとしても、私には電話をかける義務があるんだ。かけなくちゃならないんだ。

 彼女のか細い声に狼狽える。でも、こんなところで止まっているわけにはいかない。震える体を抑えながら、女体の黒い瞳を振り切って、私は彼女の名前を呼んだ。

 今度は私が、電話をかける番なんだ。

 

 

 

 

 

 

公募で惜しかったものです。

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