19、世界はこれを…と呼ぶらしいです
感情が爆発してしまって、オルクスくんの顔を見ているのが苦しくなって、私はあのまま走り出して寮の部屋に戻って、それから夕食も食べずに寝台に突っ伏していた。
そういう態度を取るのがよくないことで周りに心配かけてしまうのだとわかっていても、いっぱいいっぱいになってもう無理だった。
さすがにお風呂には入りなさいということで、リリーとディーネさんたちに引っ張られていってひん剥かれて体を無理やり洗われてしまったけれど、それ以外は本気で寝台の上にいた。
涙は出ないけれど元気もなくて、何もする気になれなくて、でもモヤモヤしすぎて眠れないまま転がっているのを、しばらく同室のみんなは放っておいてくれた。
でも、そろそろ消灯時間という頃、ディーネさんが小さな箱を持ってきた。
「今日のコレットは、悪い子ねえ。そんな悪い子には、悪いチョコレートをあげちゃう」
「チョコレート?」
「うん。本当に悪いチョコレートだから、先生に見つかっちゃだめよ」
ディーネさんはいたずらっぽく笑って、小さなチョコレートの箱を私に押し付けてきた。それから、そっと部屋の隅に視線を向ける。
「リリーと仲良く食べてらっしゃいよ。いつもみたいに、屋根の上で」
ディーネさんの視線の先には、部屋の隅で不貞腐れているリリーがいた。事情を説明せずにこんな状態になっているから、きっと困らせてしまっているのだろう。
「屋根の上って……知ってたの?」
「うん。二人がコソコソ部屋を出ていくの、何回も見てたから。仲良しだな、内緒話かぁって。だから、今夜もリリーと内緒話をしてらっしゃい。この悪いチョコレートを食べながらね」
そう言ってディーネさんはパチンとウインクする。ルームメイトたちもうんうんと頷いている。
リリーとの秘密を知られていたのもびっくりだけれど、それをみんなが黙認してくれているというのにも驚いた。女の子は、仲がいいとおもっている子の秘密を嫌うものだ。嫌がらないまでも、自分たちにも共有してほしがる。
同室のみんながそれをせず、今の今まで黙って見守っていてくれたこと、そして私のことを心配してくれているのがわかって、胸の奥がじんとした。
でも、これが私がヒロインであるがゆえに付与された友情だったらどうしようと思ってしまって、またモヤモヤが湧いてきた。
「ほらほら。いつもの時間より少し早いけど、いってらっしゃい」
「……ありがとう」
ディーネさんに促され、私はリリーと一緒に部屋を出た。リリーは怒っているのか不機嫌なのか、むっすりしてはいるけれど、一緒には来てくれる。
いつもみたいに窓枠に足を引っ掛けてひょいと外に出れば、そこはちょうど他の場所より屋根の傾斜が少なく、座りやすい。私が腰を下ろすと、リリーも黙って隣に座った。
「……女子、めんどい」
少しの間、何と話し出せばいいかわからず黙っていると、うんざりといったようにリリーが言った。
「何かあったなら、何があったのかちゃんと話して。落ち込んでるのに何も言わなくて、察してくれと言わんばかりの態度を取るのはどうかと思う。何かあって落ち込んでんのは仕方ないけど、友達に心配させるのはわかるだろ? こっちのこと友達だと思ってるなら、何も言わずに心配だけさせんな。話したくないなら話さなければいい。聞いてほしいなら、そう言え。でも、何の説明もなくあんなふうに振る舞われると、正直こっちだって参るからな」
二人きりになって勢いづいたのか、リリーは流れるように胸のうちを吐露した。それらひとつひとつが正しくて、耳が痛くて、それほど彼女を心配させてしまったのだとわかる。
本当に、リリーの言うとおりだ。こんなふうに落ち込んで見せたら、周りが心配するのは当然わかっていたはずなのに。心配してもらえるのをいいことに、私はわがままな振る舞いをしてしまっていた。リリーが怒るのも当たり前だ。
「ごめんなさい。……自分でも混乱してて、何をどう説明していいかわからなかったの」
「オルクスと何かあったのか? あいつも相当落ち込んでたよ。しかも、夜に食堂でネプトに絡まれてた」
「そんな……」
「何か、講義のあと無理やりコレットを連れて行ったとかなんとか」
「それは違うの」
まさか私がその場にいなかったせいでそんなやりとりがあったなんて。私がそこにいればすぐに訂正できたのに……と思うけれど、その二人の諍いすらシナリオ通りなのかと考えて、憂鬱な気持ちになった。
「今日、研究サロンのときに攻略キャラ四人にがっちり四方を固められてね、講義が終わっても囲まれたままだったから、オルクスくんが助けてくれたの」
「なるほど。それでネプトはオルクスに因縁つけたんだな。それは理解できたけど……そこからなぜあの落ち込みようにつながる?」
リリーの疑問はもっともで、客観的に見れば私がなぜ落ち込む必要があるのか誰もわからないだろう。私も別に、今日のやりとり自体にモヤモヤしているわけではないのだ。
モヤモヤしているとしたら、自分の置かれた状況についてだ。
「あのさ……攻略キャラたちが私に興味持つのも、私を取り囲むのも、オルクスくんが私に構うのも、私がヒロインだからなんだなって思ったら、めちゃくちゃモヤモヤして……何か、全部嫌になったの」
自分の気持ちを言葉に出してみると、それは実にシンプルだった。
私は、私でいることが嫌になったのだ。
だって、これから誰かに優しくされても、特別扱いされても、それは私がヒロインだからだなと思ってしまう。何か大変なことが起きても、困った事態に陥っても、これはシナリオ上必要なことだから仕方がないと考えなければいけないだろう。
それが、嫌なのだ。
特に、他人から向けられる感情がヒロインという役割に所以するものだと感じるのは、本当に嫌だった。
「それってつまり、自分が人間扱いされてないみたいで嫌ってこと?」
私の言葉を聞いてしばらく考えてから、リリーはそう尋ねてきた。身も蓋もない言い方だけれど、その解釈で間違っていないと感じたから、私は頷いた。
「なるほどな。でもそれって、逆にコレットが周りのやつらを人間扱いしてないんじゃないか? みんな、シナリオに縛られて自由に考えて行動する力もないって感じてるってことだろ? じゃあ、自分の存在は何だ?」
「リリーは、違うよ……だって、前世の記憶持ちだし、こういう突っ込んだ話もできるし」
「じゃあディーネさんは? さっきコレットにチョコくれたのも、ディーネさんがヒロインに親切にするポジションのキャラだからって思ってる?」
「それは……」
鋭い指摘に、私はすぐに言葉を返せなかった。そんなふうに言われると、私のほうが非情な考え方をしていたのだとわかる。
「ここは確かに、『マジラカ』とよく似た世界だ。神様か何かが、模して作ったんだと思う。でも、だからって、自分以外のキャラすべてをモブやNPCだと思うのは傲慢じゃないか? コレットは自分をモブだと思っていたとき、誰かの意思で動かされてるような感覚はあったか? なかっただろ? みんな、この世界に存在してるみんなそうだよ。みんな、心があって、意思があって、自分で考えて動いてるはずだ」
「そう、だね」
リリーに言われて、自分の目がいかに曇っていたか気づかされた。きっと自分が新ヒロインだということを受け止めきれずにいたことと、異性からの特別扱いに慣れなかったことで混乱していたのだ。
これが前世でモテモテの美女とかだったのなら、この程度のことでうろたえることなどなかっただろう。でも、私は前世で平々凡々な人間だった。だからやっぱり、異性から注目されたり特別扱いされることに慣れそうにはない。
「やっぱり、『マジラカ』が元になってるんだから、何らかの大きな流れはあるだろうよ。でもそれはシナリオとは呼ばない、運命って呼ぶと思うけどな」
「……チョコ食べようか」
興が乗ったらしいリリーがうまいこと言ったみたいな空気を出したので、私はスルーしてディーネさんにもらったチョコレートを食べることにした。
凝った箱に入ったチョコレートは一粒ずつ銀紙で包まれてきて、それ自体もきれいな形をしていた。
「ん……!」
口に入れて噛むと、中からほろ苦い液体が出てきて、それがチョコレートの甘さと合わさって絶妙な美味しさになる。
「ボンボンだ!」
「これは確かに、悪いチョコレートだね。ディーネさん、ちょっと悪だ」
「絶対、とっておきのをくれたんだよね。……ディーネさんの優しさに感謝しなきゃ」
私とリリーは一粒一粒、しっかり味わってそのチョコレートを食べた。前世では私もリリーも立派な大人で、ボンボンの中のお酒よりも強いものをたくさん飲んでいたけれど、この体でのアルコールの摂取は初めてで、ひと箱食べ終える頃にはすっかりほろ酔いになっていた。
酔ってくると、人は言いにくいことも言えてしまえるようになる。余計なことまで言ってしまう。
「でさ、ぶっちゃけオルクスのことはどうなの? どうしてもだめ?」
ほんのりと頬を赤らめたリリーは、いつも以上に目をジト目にして尋ねてきた。
「だめじゃないよ。オルクスくんがだめなところなんて、あるわけがない。ただ……付き合うってなると、わかんない。恋愛エンドを迎えるって、ようは両思いになるってことでしょ? 私とオルクスくんが付き合う……やっぱり解釈違いだな」
「オルクスが自分のことを確実に好きって前提で話を進めるのがすげぇって思うけど、まあ、あいつはあんたを好きだろうな。でも、解釈違いって何だ? まだあいつの好意を疑ってる? 好きになる要素も理由もたっぷりで、何なら相性いいと思うんだけど。オルクスにとっては、あんたは初めてできた友達で、初めてちゃんと見てくれた存在なんだろうよ」
じっと真剣な目で見つめられ、私は何と答えればいいだろうかと考えた。
前世では、こんなふうに恋に悩んだことなんてほとんどなかったから、自分の気持ちすらわかっていないというのが現実だ。
「何ていうかね、私にとってオルクスくんはずっと推しで、推しはガチ恋の対象じゃないって考えてたタイプだから、推しと恋愛するっていうのがよくわかんないんだよね……」
前世、推しを愛でることは信仰に近かったように思う。オルクスくんのことを考え、オルクスくんのグッズを買い、オルクスくんの幸せを願うことが私にとっての推し活だったから、そこに自分という不純物が入り込む余地はなかったのだ。
でも、彼と恋愛するということは、自身の存在抜きに考えることはできない。……自己投影型で乙女ゲームをプレイしていたわけではないから、妄想が追いつかないというのが本音かもしれない。
「まだあくまであいつを推しというんだな。じゃ、あいつが他の女子とくっつくってなっても平気? コレットがオルクスの特別じゃなくなって、他の女と手をつないで、チューして、それよりもっとすごいことして、コレットのことが大事じゃなくなっても平気? 『推しの幸せが私の幸せ』って本気で笑顔で言える?」
「えっ……」
リリーが言ったことを想像してみて、胸がズキンと痛んだ。
誰かがオルクスくんのことを好きになって、オルクスくんもその子のことを好きになれたら、それはすごく幸せなことのはずなのに。
ずっと、前世ではオルクスくんの幸せを願ってきた。転生して同じ世界に生まれ変わったとわかったときは、オルクスくんを幸せにするために何でもしようと決意していた。
でも、オルクスくんが他の誰かを選ぶかもしれないと思ったら、胸が痛くてたまらない。何なら泣きそうだ。オルクスくんの前では笑えるように頑張るけれど、絶対にリリーたちの前では泣いてしまうに違いない。
そしてきっと、私はつらくなってオルクスくんの友達ではいられなくなると思う。
オタクは妄想力がたくましいから、耐えられなくなって学院を去るところまで脳内再生余裕でした。
「……無理。絶対に嫌」
「そうだろ? 世界はそれを恋と呼ぶんだぜ」
「うぅ……」
「認めろよ。認めたら楽になるだろ」
ニヤニヤしながらリリーに言われて、私は頷くしかなかった。
私は、オルクスくんのことが好きだ。
ずっと推しだったから、いつから好きだったのかはわからないけれど。