平良苗美の何気ない一日
「苗美、起きないと遅刻するわよ」
小学三年生の平良苗美の朝は母親の一言から始まる。実際はまだ余裕のある時間なのだが、声をかけてから十分はしないと娘が起きてこないことをよく知っている母親は、多少から大量まで日々異なるうんざりした気持ちを声に込めて娘を起こす。集団登校するほかの子に迷惑がかからないように。本日は夫に作った朝食が、夫の腹痛のために無駄になってしまったことも相まって平時より機嫌の悪い声だったのだが、まだ半分ほど夢の中にいる苗美にはわからなかった。
「うーん……」
どうとでも取れるような曖昧な返事のようなものをして苗美は寝返りを打った。起きた方がいいのはわかっているつもりだが、暑くもなく寒くもない快適な空間でじっと寝転がっていることは苗美にとってとても幸せなことだった。
「いい加減起きなさい!」
いつものように覚醒を先延ばしにしていた苗美が母親の機嫌があまりよろしくないことに気がついたのは、まさにこの瞬間であった。「ごめんなさい」とすぐに起き上がって部屋を出て、リビングでいつものイスに座る。
「おはよう」
「おはよう、おねえちゃん」
年の離れた中学二年生の姉に朝の挨拶をする。苗美は姉が好きだ。全然怒らないしお菓子は譲ってくれるし買ってきてもくれる。宿題も手伝ってくれる。苗美は姉を頭がいいと思っているが、姉の成績は中の中辺りで母親からはもっとしっかりしなさいとため息をつかれている。苗美はそのことを知らなかった。
「早く食べなさい」
目の前に音を立てて茶碗が置かれた。つづいて父親のために作られた冷めているハムエッグと、豆腐とわかめの温かい味噌汁が置かれた。
姉の方にはハムエッグの代わりに塩鮭が置かれた。
姉の「いただきます」の後に苗美は母親の背中に意見した。
「わたし、パンがいい」
「贅沢言ってないで食べなさい」
苗美は返事をせず口を尖らせた。朝はジャムをかけたトーストが彼女の正義だった。今日は苺ジャムの気分だったのに。しかしなにを言っても無駄なことを理解しているので黙って醤油をハムエッグにかけた。黄身がしっかり半熟になっているのは父親の好みであり苗美の好みでもある。白身と共に口に入れ、つやのある白米も口に運んだ。飲み込んで鼻から息をふうっと吐いていると姉と目が合った。
姉の雰囲気からなにかを伝えようとしているのがなんとなくわかったが、それがなんなのかわかるのに少々の時間を要した。
苗美は「あっ」と思わず声を出し、慌てて口を手で覆った。そろりと恐れるように母親を見る。じろりと見られていたらどうしようかと思ったが、まだ背中を向けていたので苗美はほっとした。
「いただきます」
ご飯の前にはこれを言わないと。苗美は改めて胸に誓った。口うるさいお母さんにああだこうだ言われるのはできるだけ避けたい。
良く言えば子供らしい、悪く言えば小物らしい決意をした苗美を、姉が微笑ましいものを見る目で見つめていた。苗美はお礼の意味を込めて笑いかけた。
しかし残念なことに、姉は苗美をなんとしても助けたかった、というわけではない。いただきますを言ってないことに気がついてちゃんと言えればそれはそれでいいとは思っていたものの、そのまま気がつかずに怒られるのもそれはそれでいいと思っていた。姉は成績こそ母親の求める水準に達していないが、それ以外の部分ではおおむね合格点を出されている。姿勢の良さ、料理の腕、箸の持ち方魚の食べ方、ハンカチも忘れない。反抗的な思いを抱いていた時期もあったが、最終的に残ったのは感謝の気持ちだった。母のやり方は間違っていないと姉は信じている。母の言うことを聞いていれば人間として高いレベルになれると信じている。そのためには怒られることも必要だ。
姉は大人になりたいお年頃だ。小学生の妹相手にお姉さんぶりたいのもある。まだまだ子供なのだが、気分はすっかり教育者なのだ。
そんな姉の心の内など露知らず、苗美は姉を感謝して、昨日よりも好きになる。お腹がいっぱいになり、朝にお米を食べるのもたまにはいいかもなどと幸せな気分になった。
「ごちそうさま」
「顔を洗って着替えてきてね」
「うん」
苗美は朝起きるまではうだうだして遅い。けれども一度動き出してしまえばそれなりの速度で出かける準備を整えることができる。それに、歯を磨いて顔を洗い、好きな服に着替えたら姉に髪をとかしてもらえるので、なるべく早く終わらせるのが彼女の日課だった。
「おねえちゃん」
「もう終わったの?」
さっさと終わらせ、リビングを覗くようにして姉を呼ぶと、友人とやり取りするためにいじっていたスマートフォンをテーブルに置いた。
「今日はね、後ろでちょっとだけ結んで!」
「ちょっと待っててね」
姉の返事に満足した苗美は素早く部屋を移動して三面鏡のドレッサーを見るようにして座った。ごきげんな自分が見えてさらに笑みが深まった。
「まだー?」
苗美は足をぱたぱたさせながら催促した。返事はない。だが聞こえるように大きな声を出したから姉が急いでくれるのはわかっていた。
「そんなに急かさないでよ」
やってきた姉がため息をついて笑った。そんなところも姉の好きなところだった。
「だって早くやってほしいんだもん」
「わかったからじっとして」
姉の手が苗美の髪に触れる。指先でつままれて、そのまま毛先まですーっと流れた。このときの頭が少し引っ張られる感覚があると苗美は目を閉じて大人しくなる。姉はもう一度つまみ、砂の城を壊さないような慎重さをもって妹の髪を形作っていった。最後に苗美お気に入りのリボンを結んであげた。
「はい、できたよ」
姉のいつもの合図――両肩を叩くと、苗美が目を開けた。正面から、顔を右に向け、左に向けて鏡を見る。思い通りの髪型になっていることに嬉しくなって、自分の口の端が上がっていくのがわかった。鏡に映った自分の唇は三日月になっていた。ぴょんとイスから降り、スカートを少々浮かせながらふり返った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
苗美がリボンを触りながら満足している様子を姉は微笑みながら見ていた。そしてぽつりと言った。
「お嬢様には、まだまだかなあ」
「むっ! そんなことないもん!」
かかとを上げて下から見上げる妹を見下ろしながら、子供だなあ、と姉は心の内でつぶやいた。
「そういうとこだよ」姉は苗美の頭を押さえつけた。苗美のかかとが床についた。「髪型がお嬢様になっても、ふるまいが子供じゃ子供だよ」
「お嬢様っ!? この髪型はお嬢様なの!?」
予想から外れた妹の反応に姉の目が少し見開く。同じことを何回か言ってるのにハーフアップをお嬢様結びと認識しない苗美の頭をポンポンと叩いた。
「そうだよー。中身もお嬢様になれるように頑張れー」
「もうなってるし!」
「そうだね。じゃあ、私も用意があるから」
とりあえずは肯定した姉が去っていく。適当にあしらわれたことが苗美にはわかっていた。
鏡を見る。怒った顔が映っていたが、前髪を指で流すと気分は簡単に収まっていった。リボンを手で触って笑顔。
お気に入りの歌を口ずさみながら自分の部屋に入る。宿題を忘れてないことを確認してランドセルを背負う。
「行ってきまーす」
庭で洗濯物を干している母親と、自分の部屋で支度をしている姉にそれぞれ声をかけて、苗美は玄関を出た。靴はピンクのスニーカー。最近少しきつくなってきたからこれを口実に新しいのを買ってもらえるかな、と次に買ってもらう靴をどんなのにしようと考えながら登校班の集合場所まで小走りで向かった。
六年生の班長とその弟である二年生がすでに待っていた。学年が違うし別に友達でもないので軽く会釈する程度で会話はない。数分して五年生の背の高い女子が来たが、やはり会話をすることなく出発した。この班にとって集団登校はあまりうれしいものではなかった。お互いが無関心なので苗美にはありがたかった。
「おはよー」
がやがやと声が散乱する三年二組の教室に入ってランドセルを置いた苗美は、いつものように田中由佳に話しかけた。
「おはよう」
由佳が読んでいた本から目を離して苗美に挨拶を返した。
「なにを読んでたの?」
由佳が周りをうかがうように見て、口を手で覆った。内緒話がしたいというポーズだった。
苗美が耳を近づける。由佳も近づいていき、苗美の耳の周りに由佳の温かい手が当たった。くすぐるような声が聞こえた。
「あのね、占いの本で関根くんとの相性を調べてたの」
それだけ言うと由佳が離れていく感覚がしたので、苗美も腰をかがめた状態からまっすぐに伸ばして、友達を正面に見た。なんとか抑えようとしているものの、にやつきをこらえきれない感じが見て取れた。
「……どうだったの?」
「ここ! 見てみて!」
得意気に指でホールドしてあったページを由佳が開いて指差した。
牡牛座の女の子とさそり座の男の子の組み合わせは今週急接近しちゃうかも!? 勇気を出してたくさん話しかけてみて! ラッキーアイテムは新しい消しゴムだよ。好きな人の名前を書いて、自分磨きのためにたくさん勉強したら幸せになること間違いなし!
「ついにあたしの時代が来た」
ついひと月ほど前にも同じようなことを言って結局進展していないことに苗美はすぐに気がついたが、そんなことを突っ込んだりはしない。そんなことをぶっこんでしまえばたちまち友人の機嫌が悪くなったり、「今度こそは」といった演説が始まって面倒なことになる。ここは軽く受け流しておくのが正解だといままでの経験が訴えかけていた。
「おお~、よかったね」
「先に彼氏ができたらいろいろアドバイスしてあげる」
「うん、よろしくね」
「ああ、でも」由佳が丸めた手をあごに当てた。「苗美にはまだそういう話は早いか……」
「そ、そんなことないし」
「好きな人は?」
「……まだ」
苗美は占い好きの友人の影響もあって、運命の赤い糸や消しゴムに好きな人の名前を書いて誰にも気づかれずに使い切れれば両想いになれる、などのおまじないを素直に素敵と思える少女に成長した。ただ、いまのところおまじないを使いたいと思うような相手に出会えていない。
「まあ焦る必要はないし、それに苗美はそのままでいいんじゃない? なんかまだ早いって感じがするし」
「どういう意味?」
「……身長が足りない!」
「絶対ウソっ! 子ども扱いしてるだけでしょ!」
「勢いでごまかせなかったか……。腕を上げたね」
「バカにして……。いつか見返してやるんだから。由佳より背が高くなって見下ろしてやる」
「ははっ、楽しみにしてるよ」座っていた由佳が立って、苗美の頭をポンポンと叩いた。「ちっちゃいねえ、私の胸までしかないじゃん」
「巨人」
由佳が男子や仲の悪い女子から叩かれる陰口を苗美が声にした。苗美の頭のてっぺんが由佳によって下へ下へ抑え込まれる。苗美は押しつぶされそうになるのを必死にこらえた。由佳と目が合った。目が座っていた。
「縮めてあげようか?」
「自分が縮めばいいじゃん」
苗美にかかっていた力が急激に弱まった。
「……縮みたい」
「……ごめんね」
チャイムが鳴って、先生が入室してきた。
授業を受け、合間合間の休み時間は由佳とおしゃべりをし、給食を食べ、五時間目。急遽自習になった。歓喜に沸く教室の中、苗美も態度こそ控えめだったが心のなかでは踊りたいぐらいだった。
「このプリントを授業の終わりに提出すること」
先生が各列の一番前の席の生徒にプリントを渡してそれを生徒たちが一枚ずつ取って後ろに回していく。そして、先生が出ていった。
するとどうなるか。
苗美のクラスメイトは本人も含めてどこにでもいるような小学生だ。真面目な子からなにかと問題を起こす子供もいる。そして人間は原則として楽をしたがるものであり、大人でさえそうなのだから年齢が一桁の幼子たちでは言うまでもない。
「よっしゃ! つづきやろーぜ!」
「ねえねえこないだテレビでさあ」
不真面目な子供たちが配られたプリントなどそっちのけで遊びだした。苗美が目をやると男の子たちは苗美にはよくわからないカードゲームを始めようとし、女の子たちは各々のイスをリーダー的な子の席周りに集めてすでに談笑を始めていた。
そのまま自分とは離れた席の由佳を見る。教科書とプリントを交互に見ながら問題にすでに取り掛かっていた。
由佳は真面目な性格をしていて、頭がよくなりたいと意欲を持って勉強ができる子である。急な小テストが来ると胸がバクバクする苗美と違って平常心で挑めるタイプの優等生だ。苗美は由佳のそんなところをかっこいいと思っているが伝えたことはない。
苗美にとって勉強とはやらないと怒られるからやるものであり、できることならやりたくないものであり、楽しい時間を潰してしまう悪いものであり、たまに必死になって頑張ってみても元から真面目な子には勝てないものである。
苗美は表向きは真面目な方の子供で通っているが、実のところは意欲もなくだらだらやっているだけで反抗する勇気もない子供なのだ。
そんな少女なので与えられたプリントに目を通すが全然やる気が出ない。後で由佳に写させてもらえばいいやと内心思っている。真面目な由佳も友達には甘いことを知っていた。
さすがに自力でまったくやってないのはまずいと思える良識は持ち合わせているので、やや難しめの問題ぐらいまでは解いておいた。難しいのはやろうとすらしてないが、わからなかったという体で由佳を頼ろうと心に決めていた。
要領がいいのか卑怯者か、どっちとも取れそうな苗美の足になにかが当たった。消しゴムが転がってきたようだ。拾い上げる。長方形型のよくある消しゴムで、角の一部が使われただけのまだ真新しいものだった。
「ありがとう」
左側からする声の主を見る。津本慎太郎がぎこちない笑みを浮かべながら手を差し出していた。
キョージュ。それが彼のあだ名だ。この学年で一番成績がよく、おそらく一番メガネが似合うと苗美が思っている男子。苗美は彼が大声を出しているのを見たことがない。自習の時間、課題もこなさずに騒いでいる男子よりずっと好感が持てるけど、体温がなさそうで、ちょっと怖い。勝手な苦手意識を抱いていた。
「……平良さん?」
なかなか帰ってこない消しゴムを催促されている。苗美はそう感じた。きっと早く勉強に戻りたいのだろう。苗美は覗き込むように慎太郎の机の上を見た。消しカスが乗ったプリントは文字でぴっしり埋まっているように見えた。
「あの」
苗美は慎太郎の声には応えずに消しゴムのカバーを外した。なにも書かれていない。反対側も確かめるが真っ白だった。
「なにをしてるの?」
「好きな子の名前が書いてないかなって」
言いながらカバーを戻して自分の机に置いた。
慎太郎を見ると、顔に怒りの色がかすかに出ているように感じた。それを見て苗美はおっと思った。体温が三十度ぐらいはあるのかもしれない。
慎太郎がため息をついた。「そんなの信じてるのは平良さんみたいな一部の女子だけだよ」
「へえ、意外。キョージュも占いとか知ってたんだ」
「知ろうとしなくても平良さんが田中さんと占いのことをよく話してるじゃないか」
「盗み聞きはよくないよ」
「聞こえるんだよ。聞きたくなくてもね。……もう満足した?」
少し疲れたように言われた言葉を、苗美は頭のなかで反芻した。満足? いったいどういうことだろう。
「……してない」
「そう言われてもなあ」
深い息を吐いた慎太郎を見て、あっ、そういうことかもしれないと苗美は思った。頭がすっきりする感覚がした。
「まだまだ付き合ってもらおうかな」
苗美は悪戯坊主のように笑った。苗美はもうすでに難しい問題以外の問いには答えている。あとは由佳が終わるのを待つだけだ。要するに暇なのである。
苗美が慎太郎に消しゴムをなかなか返さないのは特に理由があったわけではなく、ただなんとなく返さなかっただけである。『もう満足した?』と聞かれなければそのまま返していた。暇つぶししようと思っていたわけでもなかった。
でも慎太郎の台詞で退屈な時間をやり過ごす方法を思いついてしまった。彼とおしゃべりをすればいいのだ。どうやら彼は満足するまで自分に付き合ってくれるつもりらしいし、由佳が最後までプリントをやり終えるまでの間、消しゴムは返さないことに決めた。それに、話をすれば仲良くなれるかもしれない。
「キョージュってさ、好きな子いないの?」
慎太郎は平然と答えた。「いないよ。いたとしても平良さんには話さない」
「えっ」苗美は言葉を詰まらせて、言った。「なんで?」
「なんでって……」慎太郎がバツの悪そうに頬を指でこすった。「内緒にしてって言っても、だれかに話しそうだから」
「えー、キョージュってわたしのことをそんなふうに思ってたの?」
慎太郎は少々ためらう様子を見せてから観念したような顔になった。「……まあ、そうだね」
冗談めかして尋ねた苗美は、腹の当たりが急に重くなるような衝撃を受けた。すぐに他人の陰口をたたいたり、うわさ話に興味深く耳を傾けたりしている子ならそう思われても仕方ないかもしれないけど、自分はそんな子ではない。むしろ距離を置いているぐらいなのに、どうして彼はこんな勘違いをしているのか。そんなに仲良くないとはいえ、あまりにも的外れな見解に、苗美はどんどん腹が立ってきた。
「ひどい。そんなふうに思ってたなんて。キョージュって思ったほど頭よくないんだね」
「平良さんよりはずっといいと思うけどね」
「むっ、言ったな」苗美は慎太郎に人差し指を向けた。「口から出てくるクビってな~んだ?」
慎太郎はきょとんとしたが、たいして間も開けずに答えた。「あくび」
「赤ちゃんでもないのにおんぶされるのが好きなものは?」
「ランドセル」
「江藤さんが笑顔になるとなんになる!?」
「……お父さん?」
数日前に由佳となぞなぞを出し合って答えられなかった問題を簡単に解かれてしまった苗美は、弾が尽きたので黙ってしまった。
慎太郎がお返しとばかりに笑った。「鳥が木に五羽止まっています。猟師が一羽を銃で撃ち落としました。木に残っているのは何羽でしょう」
「バカにしてるの? 四羽だよ」
慎太郎が口元を手で押さえた。「ははっ、ひっかかった。ゼロだよ。近くで仲間が撃たれたのにそこに留まってるはずないでしょ」
まんまと騙された苗美は口元を引き締めて慎太郎を睨んだ。勝負はついた、と言わんばかりに慎太郎が手を差し出した。消しゴムを催促されている。だが、まだ苗美は負けた気になっていなかった。
「それはおかしいよ」
「どうして?」
「近くにいた鳥が撃たれたのは、周りの鳥たちにとっては予想してなかったはずでしょ? びっくりして動けなくなるんじゃない?」
虚を突かれながらも感心したような表情になった慎太郎が、顎に手を当てて目線を落としながら答えた。苗美にはよく見えなかったが、なんとなく微笑んでいるように見えた。「うーん、それはどうかな? 学校の裏の公園にさ、たくさん鳩がいるでしょ? その鳩たちって不意に石を投げられたりすると一斉に飛んでいくんだ。だから、銃声がして、しかも仲間が撃たれたのなら、逃げ出すと思う」
「……それは公園の鳩の話でしょ? 問題に出てきた鳥がそうだとは限らないよ」
「そんなこと言ったら問題が出せないよ」
「わたしの出した問題は答えがそれしかないよね、ってものばかりだった。ちゃんとそういう問題を出さないと卑怯じゃないの?」
よーし言ってやった。
自分が屁理屈を言っているのは苗美にもわかったいた。簡単に負けを認めるのは悔しいので思いついたことを喋っていただけだったのだが、予想外に相手を追い詰めることができた。クラスメイトの出す話し声や物音が自分への声援に聞こえた。
「残念だけどね平良さん、平良さんが出した問題には、答えが何個かあるものがあったよ。ランドセルのやつね。あれさ、リュックでもいいと思うんだ」
「それと女の子……とかね」声に苗美がふり返ると由佳が自分を見下ろしていた。目が合うと由佳がはにかみ、苗美の頭をポンッと叩いた。反対の手にはプリントを持っている。「ちゃんとやってるの? ずいぶん楽しそうだけど」
「やったよ」ある程度は、という言葉を苗美は飲み込んで、叩かれた頭に手を当てた。「リュックはわかるけど、どうして女の子もおんぶされるのが好きなの? わたし、おんぶされるの好きじゃない」
「はあ」由佳がため息をついてかぶりをふった。それから憐憫にも似た目つきになった。「なんでわからないかな。好きな男の子に背負われるのは女の子にとっての幸せみたいなものでしょ?」
「そうかなあ」
「苗美もいずれわかるわよ」由佳が苗美の机から慎太郎の消しゴムを拾い上げた。苗美が取り返そうと彼女の服を掴んだが、由佳は気にも留めずに持ち主の手に消しゴムを置いた。「はい」
「ありがとう田中さん」
「どういたしまして。早くやらないと時間来ちゃうよ」
遊んでいる生徒の落書きが描かれた黒板の上の時計を見た慎太郎が「ほんとだ」とプリントにガリガリ書き込み始めた。
「ねえ由佳ぁ」
苗美のねだるような声に由佳が「なに?」と反応した。
「プリント見して」
「やったんじゃなかったの?」
「わかんないとこがある」
「私も。あっキョージュ、そこなんだけど」
自分の要求に応えずわからない問題を教えてもらう友人を、苗美は腕をたらんと机にたらすように伸ばし、その腕に耳を乗せてみていた。
由佳の背中が丸まり、慎太郎に顔が近づく。由佳が手入れが大変と言いながらも毎日しっかりケアしている長い髪の毛を耳にかけた。二人の距離が縮まったためか、声が小さくなって苗美には聴き取れなくなった。
……まだかな。
退屈になった苗美はこのまま寝てしまおうかと考えた。でも寝たらプリントの書き込みが少々寂しいことになる。それはなんとなく怖かった。
由佳の体が邪魔でよく見えないが、慎太郎は由佳の解けなかった問題を解くことができるようだった。淀みなく説明をしているように見える。時々、由佳の「なるほど」「そっか」といった返事が聞こえるので間違いないだろう。
由佳の背中でずっと隠れていた慎太郎の顔がちらりと見えた。苗美は少し目を見開いた。
笑ってる。
人間が笑うことに不思議はない。それくらい苗美にもわかる。でも勉強しながら笑うというのは、苗美にとってとても不思議なことだった。
……どうして笑ってるんだろう。そういえば、隣の席になってから何日か経つけど、キョージュってあんまり笑わないよね。変わってる。変わった子でもさすがに勉強しながら笑ったりしないよね。授業中もキョージュ笑わないし。じゃあなんで笑ってるんだろう?
苗美は息を吸い、音を立てて一気に吐いた。もう一度しようと息を吸っている途中で回答を得た。本人にとっても急な、予想外な答えだったので咳込んでしまう。
「苗美、大丈夫?」
「だいじょーぶ……」
心配してくれた由佳に手を上げて対応し、反対側を向いた。
……そっか。そうだったんだ。キョージュは由佳が好きなんだ! だから笑ってるんだ。好きな人が近くにいるから……。
顔が熱くなるのを感じた。それがさらに体全体を火照らせた。だらったとした体勢ではいられなくなって体を起こした。両手を頬に当てると火傷しそうなほど熱かった。
後ろ頭に涼しい風を感じてふり返る。目の前になにかがあって驚いた苗美は身を後ろにやった。よく見るとそれはプリントだった。
「苗美、はい」
「あ、ありがと」
受け取ってほっと一息つく。プリントに目を落した。
苗美にも解けた問題はもちろん、やってない問題にもびっしり書き込んであった。どれか一つは慎太郎に教えてもらったものだが、それがどれかはわからなかった。
「どうしたの? 顔が赤いけど」
いけないことをして、それがばれてしまったような気になった苗美は「なんでもないよ!」とシャープペンシルを手に取ってガリガリ自分のプリントに書き込み始めた。目に力が勝手に入る。右手をとにかく滑らす。今日一番の集中力を発揮していた。
「はい! ありがと!」
苗美がプリントを由佳の目の前に突き出した。
「う、うん……って苗美、どこ行くの?」
困惑の声を上げる由佳に返事することなく、苗美は廊下に出た。人口密度が高く空気が熱を持っていた教室と違い、廊下は誰もいなく静かで、どこからか吹く風が冷たかった。風に逆らう苗美の髪の毛が後ろ側に流れる。駆け足に近い早歩きで涼やかな風に纏われても、なかなか体は冷えなかった。
「いらっしゃいませー」
下校後レンタルDVDの店に母と来た苗美は、着くや否や入ってすぐのレジを横切った。店長や客に怒られない程度に声を出すアルバイトや店内BGMなど彼女にとっては取るに足らないものでしかなく、目下最重要事項は慎太郎の恋の行方だった。
あーあーもう、どうしてこんなことに……。
友人には好きな人がすでにいるため、慎太郎が失恋するのは間違いないと苗美は思っている。自らは経験がないが失恋はとてもつらいものらしい、ということを苗美は知っている。好きな人から『あなたとはいま以上仲良くできません』『あなたとは仲良くしたくありません』そんな通告を受ける。恋愛対象ではないけど、もし自分が由佳からそんなことを言われたら……。そう思うと両膝を付いてしまいたくなるほど胸が苦しくなった。そんな気持ちをいずれは彼も味わってしまうのだ。そのときを光景を想像すると、可哀そうすぎてどうかしてしまいそうになる。最悪だった。
……キョージュもキョージュだよ。わたしたちの話を結構聞いてたんでしょ? だったらなんで一ミリも可能性がない、好きな人がいる子を好きになっちゃうかな。
すでに彼氏がいる女性を好きになる男や、「妻とは別れるから」なんて言葉に騙されて不倫関係に溺れる女性のような、見込みのなさそうな相手に好意を抱いてしまう人は世のなかに多く存在するのだが、幼い苗美にはまだまだ理解することができなかった。
「あっ、あった!」
なにはともあれ、苗美は心のもやもやをどうにかしたかった。こんなときは好きなことをするに限る。DVDの返却期限が迫ると母と一緒に毎週のように店に来ているのだが、今日がちょうど母の都合のいい日でもあったので苗美にとってとてもありがたかった。
先週借りたかったけど借りられなかったDVDのパッケージを手に取る。その中のディスクの入った透明なケースをシューッっと音を立てながら引き抜いた。ケースの中にディスクがあることをしっかりと確認する。口角が上がるのがわかった。上機嫌でパッケージを棚に戻し、スキップしたくなるのをこらえて次なる目的地へ向かおうと歩みを進めると見覚えのある横顔が見えた。
んっ? と小さくつぶやいて苗美が立ち止まる。見覚えのあるその人物も気配を感じたためか苗美の方を向いた。にやついた顔と目が合う。ディスプレイから流れる人気タイトルのレンタル告知が急に聞こえなくなった。お互いに時間が止まり、見つめ合う形になった。なにかのDVDのパッケージを手にしていた相手が我に返ったように表情を変え、慌てたようにそれを棚に戻した。いい音が響いて、それを境に苗美も動けるようになった。
「キョージュ、どうしたの?」
「いや、これは……、たまたま見てただけで……」
頬を赤くして両手を自分に向ける慎太郎にとことこと近づいて、苗美は慎太郎が棚に戻したパッケージを手に取った。
「ふうん、戦隊ヒーロー好きなの?」
「違うッ!」至近距離からの大きな声に、苗美は身を小さくした。慎太郎が申し訳なさそうに苗美から視線を外して下を向いた。「……ごめん」
気まずくなった雰囲気を回復しようと苗美は努めて明るくふるまった。「だいじょーぶ。ちょっとびっくりしただけだから気にしないで」
「ありがとう」
「でさ、戦隊ヒーロー好きだよね?」
慎太郎の表情が引きつってまた赤くなった。右を向いて左を向いて、それから下を向いて頭を掻き、「そうだよ」とそっぽを向いた。
「キョージュはこういうのは卒業してると思ってた」
「……みんなそういうこと言うよね。別に僕は大人でもなんでもないのにさ。僕が戦隊ヒーローが好きだと、やっぱり変かな?」
「そんなことないよ。わたしはすごくいいと思う」
苗美は思ったことを素直にしゃべっただけだったが、なぜか慎太郎からの返事がなかなか来なかったので言葉をつづけることにした。「だれにだって好きなことがあるのは当然でしょ?」
「でも、期待されてる自分とは違う、みたいな……」
「期待されてる自分って?」
「なんていうか、みんなよりは大人っぽくて、常に真面目っていうか」
「そういうふうになりたいの?」
「どうだろう。……その方が僕は好かれるのかな」
「そんなことないと思うよ?」
「……どうして?」
「だって、わたしはそうじゃないキョージュの方が好きだよ。大人っぽいなーとかまじめだなーって思ってるけど、好きなDVD見て笑ってる方が、いいなーって思う」
慎太郎が耳まで真っ赤にした。落ち着きがないように顔のあちこちを触り、視線をいろいろなところへ彷徨わせた。少ししてわずかに平常心を取り戻したのか、なにかを言おうと口を開きかけたが、まごつくばかりで言葉は返ってこなかった。
そんな慎太郎を疑問に思いながら眺めている苗美は、いまキョージュのほっぺた触ったら熱いんだろうなー、ちゃんと体温あったんだあ、とのんきに考えていた。
「苗美、そろそろ行くわよ」
背後から母の声がして素早くふり返る。「えっ、ちょっと待って」また慎太郎の方を向いて早口で、「じゃあまたねキョージュ、また明日」
「う、うん。またね……」
「あら苗美、お友だ――って苗美! ちょっと待ちなさい!」
「はぁ……冬馬くんカッコいい……」
薄暗くした自室で、借りてきたDVDを見終わった苗美はベッドに倒れ込んだ。枕に顔をうずめ、枕を顔につけたまま左右にゴロゴロ転がる。エンドロールが終わってタイトル画面に戻ったテレビが音を出すのをやめた。
「借りてきてよかった……」
好きなアイドルが侍に扮して敵をばっさばっさと切っていく軽快なアクション映画で、本当は映画館で観たかったのだが、母親が忙しくなかなか見に行けなく、気がついたときにはもう公開が終わってしまっていたのだ。
長い時間待ったのと、想像以上の満足感でまだ半分ほど苗美の意識は物語のなかから戻ってきていない。まだアイドルのカッコよかったところを反芻している。
一通り思い出したところでリモコンに手を伸ばし、それぞれのシーンを再生しようとしたところで母の声が聞こえてきた。
「苗美、早くお風呂に入りなさい」
苗美は持ち上げたリモコンを、眉間にしわを作りながらベッドに叩きつけた。「はあ~い」
はあっ、と強い溜息をつく。一気に現実に戻されてしまった。
……もうっ、いいところで邪魔するんだから。
文句はあっても風呂を先延ばしにはしない。ここでうだうだしていると怒られてもっと嫌な気分になる。言うことを聞いておいた方が得だ。
テレビはつけっぱなしで、着替えを持って部屋を出る。風呂上がりにまた見るし、それに扉を閉めればバレやしない。苗美の部屋から出るとすぐそこが脱衣所だ。間接照明をつける。普段はあまり明るさを感じないが、薄暗い部屋から出たばかりだったので眩しかった。強く目を閉じてから服をぱぱっと脱ぐ。早く冬馬くんの活躍を見直したい。
風呂場に入った。ヒノキの風呂イスに座ってシャワーで髪の毛を濡らしていく。鏡で自分の姿を見ると、そこにはどこからどう見ても子供の姿があった。早く大人になりたいが、まだまだ時間がかかりそうだ。もしいますぐ大人になれるなら、冬馬くんの出るライブにグッズを持って駆けつけるのに……。
家族の女性みんなで使っている、父親が聞いたら言葉を失うほどにお高いシャンプーを掌に出して泡立てる。それを髪に馴染ませながら一日の残り、短い時間をどう過ごすか苗美は考えた。
アイドルの活躍シーンをもう一度見るのが先か、宿題を終わらせるのが先か。シャンプーが目に入らないようにまぶたを閉じている苗美は、うーんと唸りながら手を動かしている。
そういえば先生が「今日の宿題はむずかしいぞ」とか言ってた気がする。はあ、先生も邪魔するんだね。いっそのことやらないのは……むり。
……そうだ! むずかしいなら、もしかしたらキョージュもできないかも! それを解ければわたしの方が頭いいって言えるよね。今日やられたのを一気に返せるチャンスかも!
慎太郎が悔しがる姿を想像して、苗美の唇がなめらかな曲線を作った。目論見通り事が運んだ場合に、慎太郎に口にする言葉は決まっていた。これしかない完璧なものだ。
苗美は笑みを保ったまま上を向いた。目を開ければそこにあるのは天井に決まっていたし、もう夜なのだから空は黒くなっているに決まっているのだが、苗美は雲一つなく、太陽の光がきらめく青空が広がっているような気がした。
「『あっしが正しい道を示して進ぜよう!』」
アイドルの決め台詞を口にするとともに目を開けた苗美。その目に一瞬写ったのは天井から落ちてきた水滴だった。
「冷たっ!」