ジュニア文庫7巻発売記念・眼鏡ごときで隠せぬもの
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次回の更新は、9/5の朝6時です。
通常の本編更新です。
主不在の菊乃井邸は、いつもより何処か寒々しい。
日頃だって小さい子どもが暮しているにもかかわらず、大きな音が立つ訳でもないが、それでも生活する上での音はある。
それがほぼ消えてしまうと、こうまでと思うほど静かだった。
我が君は今、帝国の南にあるコーサラという国に出かけている。
彼の帝都の記念祭で友誼を結んだ冒険者パーティーに連れられて、海の思い出を弟様や友人の奏君とともに作りに。
あの方は確実に普通の子どもではない。
怜悧さや物の見え方、感じ方、知識、人品。
彼の方の倍ではきかないくらい長く生きている私ではあったが、かつて出会ったことのない類の御方だと感じている。
このままご成長くだされば、どれほどの人物におなりになるか……!
これは私の密かな楽しみであり、この世の希望でもあった。
でもそれは私の勝手な期待であって、彼の方に強いることではない。それに子どもには子どもである時間も必要。
今しか経験できないことを沢山経験して、それを糧に大きく育ってくださればいい。
「然様でございますね……」
独り言のつもりの言葉に応えが返って、ふっと没頭していた思考が浮上する。
冷えたグラスに凍らせた果物の入った炭酸水が、からりと音を立てた。
視線を上げればロッテンマイヤーさんが、背筋も凛と伸びて美しく、穏やかに窓の外を眺めている。
彼女の視線は窓の外だけれど、感覚的にはその向こうのコーサラを浮かべているのだろう。いつもは真面目に引き結ばれた唇が、仄かに微笑んでいる。
青い空、白い砂浜、碧の海の中に、我が君と弟様に奏君が走っていく。
そんな光景が彼女の目には見えているのだろう。
眺めているのが横顔だからか、細いテンプルの隙間からほんの少し、彼女の瞳が見えた。
柔らかい光を湛えた優しい、複雑な色味の瞳。
その瞳に、ふっと疑問が湧いた。
「ロッテンマイヤーさんの瞳は、様々な色が混ざっているのですね?」
「え?」
たしか、正面から厚いレンズ越しに僅かに見える瞳は榛色だったような?
首を傾げてそんな疑問を口にすると、ロッテンマイヤーさんが強張りつつこちらに顔を向けた。
その強張り方が、少し気になる。
知らず非礼を働いたのかもしれない。いや、外見に言及する言葉が既に非礼だったか。
思わず出てしまったこと。
謝罪をしようとしたところで、ロッテンマイヤーさんの肩の力が抜けた。
「……実は眼鏡に細工をしていただいておりまして」
ふっと彼女の表情に苦い、けれど何処か懐かしむような何かが。
テンプルに手をかけて、彼女が眼鏡を外す。
露わになったロッテンマイヤーさんの目は、やはり青や黄色、オレンジなどが複雑にまじりあっていた。
「アースカラーだそうです」
「アースカラー、ですか?」
「はい。大奥様……先の菊乃井伯爵夫人・稀世様が教えてくださったんです。この眼鏡も、大奥様が誂えてくださいました」
「我が君の、お祖母様ですね」
その名は、菊乃井ではある種信仰に近い力を持っていた。
魔物の大発生に見舞われた菊乃井を、先々代の菊乃井伯爵とともに復興させた御方。
酷いダメージを受けた領地を、何とか持ち直させたという。
それとて先代の伯爵夫人の夫である伯爵と、当代が食いつぶして見る影もない。
いや、その信仰を抱かれるほどの能力をもってしても、すぐに傾く程度にしか回復できなかったと言うべきだろうか。
それでも夫人の意志は、夫人と恐らく同質の人だろう我が君に受け継がれた。
これを期して、夫人はロッテンマイヤーさんに我が君を託したのだろう。
その人がロッテンマイヤーさんの眼鏡を?
口には出さなかったけれど私の傾げた首に、眼鏡をかけ直したロッテンマイヤーさんがこくりと首を上下させた。
「私を守るために、と」
稀世夫人と出会う前、ロッテンマイヤーさんは母親と暮していたという。
母親は弱い人だったそうで、常に庇護してくれる男性を求めていた。
そしてそんなロッテンマイヤーさんの母親に構うのは、大抵性根の悪い男だったそうで。
そのうち、そういう男達はロッテンマイヤーさんの母親よりも、娘へと興味を示すようになったとか。
結局彼女は実の母親の手で、人買いに売られることになって。
紆余曲折でロマノフ卿の母上に、受けた恩義を返すべく手を尽くしていた稀世夫人に助け出されることに。
そこで彼女は初めて自分がロマノフ卿の、血のつながらぬ子孫であることを知ったそうだ。
けれど稀世夫人は、彼女を探していたロマノフ卿への連絡をしただけで、ロマノフ卿へと何かを望むことはなかった。
ロッテンマイヤーさんがロマノフ卿と交流すること自体は推奨したけれど、その縁で菊乃井に何か貢献をというのは許さなかったとか。
自分が恩を返したいのは、ロマノフ卿のお母上であってロマノフ卿ではないし、ロッテンマイヤーさんを助けたのは自分の信義の問題だから、と。
「そのあたりの意志の固さは、若様もお持ちでいらっしゃいます」
「ああ、なるほど。何となくですが、解ります」
我が君にもそういうところはある。
それは政に携わる者として、得な性質かと言われたら違うのかも知れない。けれど、私は我が君のそういう部分を好ましい物だと思っている。
一本しっかり通った「ならぬものはならぬ」という、姿勢が。
それはさて置き。
先代の伯爵夫人がロッテンマイヤーさんに眼鏡を誂えたのは、その目を隠させるためだったそうだ。
稀世夫人がロッテンマイヤーさんを引き取るときに、彼女の母親に会いに行ったのだとか。
「母は私を詰りました。『その混じり物の目で男を誘ったんだろう』と。それを気にして俯いていた私に、大奥様が眼鏡を誂えてくださったんです」
その眼鏡はレンズがわざと厚く作られているけれど、元々目が悪いわけでない彼女の視界の邪魔にはならず、余人からあの美しい瞳を隠し、余程近付いても榛色にしか見えない。更には彼女自身に冷たい印象を与える。
そういう魔術を付与した、いわば魔道具を。
稀世夫人は、相当にロッテンマイヤーさんを気にかけていたのだろう。
虫よけには些か高価な魔道具まで渡しても、彼女を守ろうとしたのだから。
「とても情け深い方でいらっしゃいました。実の娘である奥様を奪われて、ご自身の手でご養育できなかったことを苦しんでおられたのです。それで私の『あの娘には出来ないことだから』と」
「然様ですか」
懐かしそうな声に、寂しさが滲む。
ロッテンマイヤーさんにとって、稀世夫人は実の親よりも余程慕わしい存在だったのだろう。
沈黙が私とロッテンマイヤーさんの間に降る。
暫くして彼女がようよう口を開いた。
出て来た話題は「黄金の自由」のことで。
砦を制圧する以前、これからの菊乃井の方針を我が君がお示しになった。
遠い未来を見据えた方針は、現状の帝国が倒れた後を想定しているような、そんな恐ろしい部分もあって。
それが何故なのかを考えあぐねていた私に、ロッテンマイヤーさんの情報が答えを齎した。
「つまり、異世界で悲惨な革命が起こった時期と現帝国が似ている。このままでは夥しい民の血が流れる、ゆえにそれを先もって止めたいということだったんですな」
「はい。あまりにも似すぎていて、同じ歴史を辿るのではないかとお感じになったようです」
「しかしまだ未来は決まっていません。似ているとは言っても、異世界に我が君はおられない。血が流されることを阻止しようと動く者がいる。それだけでかなり違うはずだ」
「そのとおりで御座います。そのために手足のように私たち大人をお使いになればいい」
「然様。そのための私であり大人達です」
向かい合い、頷きあう。
彼女のような人が同志として存在するのだ。こんなに心強いことがあるだろうか。
テーブルに置かれたロッテンマイヤーさんの手に、自身の手を重ねる。
そういえば、言わなくてはいけないことが出来た。
「ロッテンマイヤーさん」
「はい」
「眼鏡があっても油断してはいけません。貴方はとても綺麗な方なのだから」
「!?」
そうだ、眼鏡をかけていても隠しきれていない。
凛と背筋を伸ばして、自らを律する人の美しさは、自然と雰囲気に出るものだ。
引こうとした手を握り込んで「いいですね?」と強めに口にすれば、彼女の頬が真っ赤に染まった。
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