第2話、妹の部屋
嵐のように去っていった莉里那の後ろ姿を眺めていると、スィーと隣の椅子が引かれる音が鳴る。
そうして隣に腰を下ろした涼子さんは、テーブルに肘をつき物憂げな表情で階段を見つめた後に、こちらへ視線を向けた。
「ゴメンね、あの子あの調子だと今日は異世界の話ばっかりするかも」
「みたいですね。それにいきなり勉強の話をしても反発されるかもしれないので、予定通り数日は様子を見ようかと」
「そうね、あっ、ただ今晩は長話になる可能性もあるから、遅くなるようならその時は途中で切って、また後日聞いてあげてね」
あの感じだと会話は盛り上がりそうにないが——
……いや、盛り上げないといけないのか。
「わかりました、焦らずじっくりガス抜きをして、それから少しづつ勉強にシフトするよう、誘導してみます」
「やっぱり怜君は頼りになるわね」
「いえいえそんなことは。ただ、頑張らさせて頂きます! 」
そこで涼子さんは微笑むと、ヒラヒラと手を振った。
「それじゃ、宜しくね」
自室に戻ると莉里那に呼ばれるまで暇なため、いつも寝る前に行なっているストレッチを始める。
そしてそれが終わると、今度は竹刀を握り動画で確認していた有名剣士の動きを真似てみる。
中学の時は帰宅部だったが、たまたま観ていたネットの動画で剣道に興味を持ち、高校に上がると同時に入部した。しかし同学年でも経験者との差は歴然で、毎日良いようにやられている。
……今は駄目でも、いつかは追いつき追い越してやる。経験の差は努力で埋めていかねば、なのだ。
そして部屋の扉をノックする音がした。
時計を見ると時刻はすでに午後八時半を回っていた。結構待たされたようだ。
……あれ?
竹刀を立て掛け扉を開くが、既にそこには莉里那の姿はなかった。
ノックのあとすぐさま自室に戻ったのだろうけど、考えてみるとこちらとしては助かる。妹の後に続いて短いとは言え廊下を歩くのは、恐らく微妙な空気が流れるだろうから。
予期せぬ展開で突然訪れた会話がない無言の空間。それが一時とは言え存在してしまった事実は、少なからずその後に影響を与えてしまうだろう。
それなら妹の部屋に入室したところから始める方が良い。
そうして莉里那の部屋の前まで来ると、深呼吸の後にノックをする。
しかし返事はない。
あれ? なんでだ?
「莉里那、入るよ? 」
扉を開くと莉里那はベットで横になり、月刊オカルト情報誌、ムムゥを読んでいた。
そして怪訝そうな表情でこちらへ顔を向ける。
「どうしましたか? 」
「えっ、いや、異世界の話を聞きに来たんだけど……」
「あぁ、そうだったですね」
え? なんだ今の流れは?
少し前の行動を完全に無視した会話。
……もしかして、そう言う設定で始めるのか?
そう言えば莉里那は中二病である。これくらいの展開は普通で、それを予期できていなかった私が至らなかったのかも知れない。
しかし久々に入る妹の部屋。
ピンクを基調とした女の子らしい部屋で、棚には可愛らしいヌイグルミや……あれ?
目をゴシゴシした後にもう一度見てみる。
しかしやはりある、可愛らしい小物の中に混じるようにして。
棚の隅にはなんかスライムみたいなのに取り憑かれて溶けかかっている戦士のフィギュア。
即身仏なのだろうか? 机の上にはミイラ化した仏さんの写真が立てかけられている。
その隣には上半身裸の男同士が抱き合っているイラストも。
「なにジロジロみてるのですか? 」
「すまない、久々だったのでつい」
そして私の視線を辿った莉里那の顔から険しさが消える。
「あっ、それは私が書いたイラストです」
どうやら男同士の裸のイラストの事を言っているようだ。
それより会話に花を咲かせなければ!
「こう言うのは、たしかボーイズラブって言うんだっけ? 」
「はい。正確には白神真琴先生の異能学園物、『背後を取られるな! 』のファンイラストなんですけど、ウェブ更新が突然止まっちゃったので心配になりまして。それで応援の意味も込めて、このイラストを送ろうかどうか迷ってたのですけど、どう思います? 」
「絵が作品に合ってればいいんじゃないのかな? 」
「そうですね、そしたら送ってみようかなー」
そこで落ち着いたのか、莉里那はフゥと短くため息をつくと、真剣な眼差しで私の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「それでは本題に入りますけど、リリィが転生者なのは知ってますよね? 」
突然の豪速球。
予め幾通りかの話の流れを想定して言葉を用意していたのだが、ズバンと胸元に決められてしまったため思わず固まってしまう。
「えっ、あっ」
すると私がしどろもどろで返答が出来ないことに動揺を感じ取ったのか、莉里那は疑いの目をこちらに向ける。
しまった、今の私の対応は完全に失敗である!
挽回、挽回をしないと!
既に時遅しかもしれないが、私は妹の機嫌を損ねないよう、当たり障りのない言葉を慎重に選ぶと口にする。
「あぁ、なんとなく」
すると表情が回復し、口元に手を当てクスクス含み笑いをし始める。
この笑いの意味はなんなんだ?
やはり莉里那は私の予想の斜め上を突き進んでくる。
「……それとですね、実を言うとニィーニも転生者なのです」
「ふむふむ、……ってなんだって! 」
「やっぱりニィーニは記憶がないのですね。でも大丈夫、異世界に興味が湧いた時点で間違いなく転生者ですから」
「そっ、そうか」
世の中多くの人が異世界に興味を持っていると聞くが、なるほど。その理論だとかなりの数の人が転生者なわけだが、世の中輪廻転生と言う言葉が昔からあるぐらいだから、あながち全くの見当外れの言葉ではないのかも知れない。
因みに私が異世界に興味を持っていると言っているのは嘘であるため、これには当てはまらない。
「それで落ち着いて聞いて欲しいんですけど、リリィは異世界に行きたいのです! 」
因みに妹は鼻息荒く、興奮気味である。
「行けるといいね、応援しているよ」
するとまた莉里那の表情から、笑みが見る見るうちに減っていってしまう。
「あれっ? ニィーニは異世界に行きたくないのですか? 剣士になりたくて剣道を始めたのじゃないですか? 」
しまった、さっきのは『私も行きたい』をアピールしないと駄目だったのか!
それより今は返答だ!
しかしどう答える?
事前に異世界へ行きたいかと聞かれれば、『少し前から興味が出て』とだけ答えるつもりであった。ただ直前でそれを否定したと思われた上に疑惑の目で見られている今、そのまま答えるのはさらなる疑念を抱かせるだけだ。
あー、もう頭が混乱してきた。
これ以上考えてもドツボにハマりそうな気がする。
沈黙するくらいなら、本当のことを話してやる!
「……剣道は動画で観てて、なんか格好良いなって思ったから始めたんだ」
頭が追いつかなくて剣道についてだけを、しかも莉里那が気にいるようには加工せず、そのままの事実を述べてみた。
「へぇー、その動画、リリーも観てみたいかも」
しかし意外にも莉里那は、素直に私が言ったことに対しての返答を行なった。
これって、もしかしたら普通に話すことだけで会話は成立するのではないのか?
しかし次の瞬間には、私を見ながらため息一つ。
「ニィーニもステータスとか開けたら、行きたくなるくらい興味を持ってくれると思うんですけどねー」
なっ、悟られている!
話の向きを変えないと!
「ちっ、ちなみに私のステータスは、どんな風になっているのかい? 」
すると至近距離なのに、莉里那は目の上に手を翳し、私を直視する。
「……項目が多すぎるのと常に値が変動してるので、詳しく見ていると酔ってきてしまうのです」
しかも結構な時間。
逆にこちらが恥ずかしくなり、目線を逸らしてしまう。
「パラメーターはいたって普通なんですけど、ただスキルの欄に『全能の発条』って出てます」
「……全能の発条」
たしかそれ、さっき口走っていたよね。
「これは私のスキル欄、枯渇の機械式時空時計にピッタリ合致すると思うのですが」
たしかに枯渇と来ているからネジを巻いて欲しそうな時計に、私のなんかなんでも巻けてしまいそうな発条。
「それで、何が起こるんだい? 」
「わかりません」
「……えっ? 」
「リリーもこれがなんなのか、どうしたら発動するのか、よく分からないのです」
「そうか、それは残念だ」
膨らむと思っていた話題が、まさかいきなり終わりを告げた。
まぁ莉里那が考えた設定だろうから、こんなモノなのかもしれない。
しかし何を話そう?
いきなり勉強の話をしては駄目だろうし。
「それでですね、ニィーニにはこれから協力して欲しいことがあるんですけど——」
「え? なにか私に出来ることがあるのかい? 」
「あります。やっぱり同じ転生者の記憶は貴重なのです。それでどうにかしてそれを手に入れたいわけなのですが——」
そう言って俯き加減でこちらを上目遣いでチラチラ見始める。
ん? どうしてそんな風に遠慮しがちな態度になる?
まさか、なにかとんでもないお願いをされるのでは?
「ニィーニ、ちょっと目をつむってくれませんか? 」
しかし勿体つけてやっと口にした願いは、とても簡単な事であった。
いや、ここから先の事象に願いがあると考えるのが妥当である。
「なにをするの? 」
すると莉里那が頬っぺたを膨らませる。
「いいからお願いします! 」
「絶対なにかするよね? 」
「しますけど大丈夫、早く身を委ねて下さい」
大丈夫?
ん? このパターンって?
それになんだか恥ずかしそうにしているし、……まさかキスなのでは?
いや、それは100パーセントない。
だいたい好感度もヘッタクレもないのに、何故私はそんな発想を臆面もなく考えられるのだろうか?
今から期待するようなことはなにも起こらない。
「まだですか? 」
「あぁ、すまない」
言われて目を閉じる。
ん?
期待?
私は妹相手に何を考えてしまっているのだ?
それから程なくして、私の——
『ビチッ! 』
おでこに妹のデコピンが炸裂した。
痛い、と言うか何故?
「どうして、なんだ? 」
まだ少ししか話していないのに、私はデコピンを喰らわないといけない事をしてたと言うのだろうか?
いや、まさか、もしかして?
莉里那は本当に転生者で、魔法によって私のやましい心の内を読み取ったとかなのでは!?
だが魔法だからといって、果たしてそんなことが出来るのだろうか?
「妹にデコピンされたらニィーニが覚醒するネット小説があったから、試してみたんですけど」
「なんだと! それはなんてサイトなんだ!? 」
「小説家にnarouZ」
世界で一番大きな小説サイトと聞いたことがあるが、なんて物騒なサイトなんだ!
また巨大ゆえ、同じ小説を読んで額を打ち抜かれたお兄ちゃんの数は計り知れないのかも知れない。
と言うか——
「全然大丈夫じゃないんだけど? 」
額を摩りながら抗議するが、莉里那はケロリとしている。
「それはすぐ回復魔法を使うから大丈夫って意味なのです」
すると莉里那が私の方へと手を伸ばしてくる。
そして額に、今度は莉里那の小さくて柔らかな手の平が触れた。
「痛いの痛いの飛んでいけー、痛いの痛いの、飛んでいけー」
どこが魔法なんだ?
それは昔からある御呪いではないか。
しかし思い返せば、会った当初はなにかあれば今みたいにすぐベタベタしてくる妹であった。
なんだかあの頃を思い出して懐かしい。
そこで壁掛け時計が目に入る。
と、もうこんな時間か。
「莉里那、そろそろ明日の予習しとかないと睡眠時間がなくなるから、部屋に戻るよ」
「えっ、でもまだ全然説明出来てないですし——」
「大丈夫、また時間を作って来るから」
「……それじゃ、明後日の木曜はどうですか? 」
「えーと、15日か。その日はたしか顧問が会議らしくて部活も休みだからちょうど良いな。他に予定もないし、時間はいつでも良いよ」
「そしたら学校終わったらすぐに帰ってくるのです! いいですか? 」
そんなに異世界について、他人と話せることが嬉しいのか。
なんだか今まで距離を感じていたが、こうやってじっくり話してみると莉里那は昔のままの所があって可愛らしい妹である。
「わかった、その日は予定を入れないようにしておくよ。じゃ、おやすみ」
すると莉里那は返事をせずに背を向けると、ベットにボフッと突っ伏した。
そして私がドアノブに手を掛け扉を閉める時になって、布団に顔を埋めた莉里那がくぐもった声でおやすみなさいと呟いたのが聞こえた。