1-9.サラに害なす、全てのものから
オスのキイキイ鹿とやらはほどなくして繁殖期に入るそうで、特に生殖器が強壮や強精の薬となるそうで。
ソマはその生薬を、結婚祝いとして親戚に贈りたいそうで。
「キイキイ」というのは「猿」という意味らしいのだが、その鹿は鳴き声が猿のようだったりするのだろうか。
「確かに私の世界でも『鹿鞭』という名で売ってましたね…」
横浜の中華街で見かけて、「鞭」って何だろと思い近づいていってまじまじ見てやっと陰茎と睾丸だと気がつき、焦ったというだけの苦い思い出がよみがえってくる。
「ろくべん…?」
「鹿の鞭と表記します。確かに鞭に見立てて名付けたくなる長さではありました。細かく刻んで服用したり、酒に漬けて飲むものだと…いや、すみません。あなたはこんなこと知らなくて良いのでした…」
「鹿鞭」がオスの鹿の生殖器の名称だと理解したサラが唇を震えさせている。ごめんて。
でもあなた、私のそれは平気で見てませんでした?
「なんでそんなことに詳しいのよ…何?向こうでは薬師でもしていたの?」
あー、薬剤師も堅実で憧れたなあー。異世界転生に強そうな職業だよねー。
「であれば、お役に立てることもあったと思うのですが。店先に高価な薬を飾って、効能や用法を書いている薬屋がたまにあったのです」
古い漢方薬屋さんとか、そういうのありますよね。
「なるほどねえ」
「…と、サラ。ここからは家までまた街道になるのですね?」
「ええ、そうね。――さっきあなたが聞きたがってたことでも話しながら帰りましょう」
荷物を入れるためのバックパックも買ってもらって、荷物で手がふさがる問題も解消した。
腰に下げた片手半剣を確かめつつ、衛兵に会釈して街を出る。
街に入る時に挨拶したシャヒンは既に、別の男性に交代していた。また会えるといい。
「あのね、順番としては、私が目をつけられたから、戦力としてあなたを召喚したの」
私を召喚したから、サラが危ない目に遭い始めたわけではない。サラはそう但し置きしたかったのだろう。
「あなたは優しいひとですね」
「は、話の腰を折るな」
「はい」
「ええっと…私の家から見て、この街は西にあたるのだけれど、反対側にとても大きくて古い森があるのね。メシキの森というの」
言われてみれば、この街道に立っている限り、山は遠くに見える。この辺は平野で、なおかつ森ではないわけだ。
「メシキの森には、私の師匠が住んでいて、――そう、私の魔術の師は偉大なる魔女シビュラ。記録を見ると300歳くらいだと思ってるんだけど、未だに実年齢教えてくれないのよね。実は、ミャーノ以外の使い魔で私がこの目で見て知っている使い魔は、師匠の使い魔だけなの。もしかしたら、街の中にもいるのかもしれないけどね」
「シビュラ様の使い魔殿は、私と同じようなヒト型なのですか」
「ヒト型ではあるけど、なんとエルフなんだって。この世界ではおとぎ話でしか聞いたことないけど、その使い魔のエルフ――アップルという名前よ――彼はおとぎ話通り、弓の名手なの。…あ、エルフってわかる?」
「ええ、なんとなくはわかります。私の世界でも、おとぎ話でしか知らない存在ですね」
「あら残念。なら、ミャーノにもぜひ会って感動してもらいたいわ。アップルは私の想像してたエルフにとても近かったけれど、あなたのイメージとはどうなのかしらね」
「ぜひお会いしたいです。メシキの森に行けばお会いできるのですよね?」
「…ごめんなさい、今、メシキの森には二人はいないのよ」
「――というと」
「森の向こう側の山の向こうが国境なんだけど、隣の国トロユの王、エウアンドロス…そいつに師匠は攫われてしまったの」
「――あなたを攻撃しているのは、そのエウアンドロスだと?」
「たぶんそう。偉大なる魔女シビュラ。その一番弟子はこのサーラー・バニーアティーエ。かの王はシビュラを手に入れたけれど、その術を受け継ぐ私をこの国――キーリスに残しておいては脅威になると」
「だから殺すと?シビュラ様と同じようにあなたをも攫おうとはせずに?」
シビュラを手に入れられたなら、同じようにサラを攫って戦力を増強する方が、その愚かな王には得策となるのではないのか。
「師匠が気を利かせてくれたせいね」
サラは苦笑いする。
「一昨日、メシキの森にいって師匠とアップルがいないことがわかったのだけれど、その時に師匠の隠れ家で殺されそうになったの」
「ご無事でよかった」
「師匠のおかげなのよ。メシキの森は偉大なる魔女シビュラの庭。彼女の庭で私を害する矢を放つことはできない――そんな呪いをかけてくれていたから」
「なんと。地上すべてに範囲を指定してくれていればよかったのに」
「それは神様でもないと無理じゃないかしら」
サラが吹き出してしまった。
「不意はつかれたけど、これでも一番弟子だから。私を襲ってきた影は撃退できたの。すごい?」
「はい、すごいです」
「まともに返さないでよ。で、その時にそいつが捨て台詞を吐いていったのだわ」
――シビュラは、お前がトロユには立ち入れない呪いをかけた――
「…私まで連れ去られないように、とっさの苦肉の策とかだったんでしょう」
「シビュラ様は、サラを大切にされていたのですね…」
「うん。大好き」
サラもまた、シビュラを、またアップルのことも、大事に思っているのだろう。
微かに頬笑みをたたえた口元と、しかし、不安げに揺れる瞳が――可哀想だった。
「私の役目は、『あなたを守る』ことだと思っているのですが――トロユに乗り込むことは私には可能なのでしょうか」
「『私を守る』――当座はそれでお願い。師匠がどういう呪いをかけたのか、正確にはわからないから、あなたが私と同じ縛られ方をするのかは、ちょっと何とも言えないの」
「わかりました。サラ、私は私の力の及ぶ限り、あなたに害なすものすべてから守りましょう」
誰にも言ったことのないような誓いを、一片の迷いなく、私は少女に告げたのだった。
彼女、彼、という代名詞で示していますが、
師匠シビュラは女性で、その使い魔アップルは男性です。
2018/3/2:横書きWeb小説だしと思い文頭空白つけてなかったのですが、つけました。