8-6.サラの施術
「出立日はどうするんだ?」
「叔父さん明後日と明々後日お休みでしょう?叔父さんがお休みの日に発とうって話はしてあるの」
そんな叔父と姪の雑談を聞きながら、私は買ってきたパンをオーブンで少し炙る。
シチューに合わせるバゲットは少しカリカリくらいが良い。
「そうか……ケレムから言われてたのは出来てるのか?」
「粗方は。見直しは道々でするのだわ」
「ケレム先生から? 何かありましたっけ」
何か用意しろとか言われてたっけ?
「ああ。ミャーノには言ってなかったけど、魔導士の面接の時に提出するポートフォリオがないといけないかもって話があったんだよ」
「ポートフォリオ? 論文や著書の代わりになるレポートということですか」
「そんなところ」
ケレムに話を聞きに行った後から現在まで、サラが特に焦って何かを拵えていた気配はなかったような。
「……今日は連れ回して申し訳ありません。作業をしたかったのでは……」
「それは大丈夫よ。いくつかストックがあったのをまとめただけだから」
つまり普段からそういうレポートを書いていた、ということか。
シビュラのアトリエで見かけたパピルスみたいな内容なんだよな。研究馬鹿ではないと自己申告していたが、要求されていないのにそんなものを究めようとするのはやはり「研究馬鹿」というものではないだろうか。
「こんなものですかね」
オーブンの薪に混ぜたチップの薫りが鼻をくすぐる。
「おう、それじゃよそうか」
待望の鹿シチューである。
舌と胃が満たされた後、シャワーを浴び始めた時点でやっと思い当たったのだが、
(髪の毛洗っちゃった……)
――ということは、である。
私はベフルーズに今夜も乾燥魔術をかけてもらおうというのか?
(シャクなんだよなあ……昨夜あんな目に遭わされたってのに、のこのこ髪の毛乾かしてもらいにいくの……)
ベフルーズに罪の意識なんか無いのだろうが、私には被害者意識があるんだからな。覚えてるぞ。朝、鹿シチューの話が出てからすっかり忘れてたけどな!
どうせ王都に向かって発ったら、騎士団に入団できたとしたら、乾燥魔術なんてお世話になれはしないのだ。
今晩からそれが始まったって、別に対して何が変わるわけでもないだろう。
「あら。お風呂上がったのね、ミャーノ」
まっすぐ自室に戻ろうとして階段を上っていくと、ティーポットを持って部屋から出てきたサラと出くわした。
「ええ。お茶ですか? 今から飲んでしまっては眠れなくなりますよ」
「目の冴えないハーブティーにするから問題ないわ。……ん? 叔父さんの部屋寄らないの?」
髪の毛濡れたままじゃない。そう言いながら、私の髪に指を絡める。
ベフルーズの部屋の扉の前をスルーして自分の部屋の前に来たからね。まあそうなるな。
「寄りません」
ちょっと語気が強すぎたか。
サラが少しだけ目を瞬かせている。
「ちょっとこれ持ってて」
ポットを私に持たせると、サラはそのままベフルーズの扉をノックして――返答と同時に開け、顔だけ突っ込む。
「今日は私がミャーノの髪乾かすのだわ。おやすみなさい!」
『えっ何それ』とかなんとか閉められる扉の向こうから漏れ聞こえ出でているが、振り向くサラはその声に耳を傾けない。
「サラ?」
「ふふー、私の部屋にいらっしゃいな!」
空のポットを持たされたまま、サラの部屋に押し込められた。いや、そりゃ抵抗しようと踏ん張ったら簡単だけれど。抵抗する理由もなければ、サラの目的はさっきのベフルーズへの声掛けで判明していたので。
サラが乾燥魔術を私の短い髪に施した。
その感触は、確かにベフルーズのそれとは異なる。
(なんというか……いい香りがする?)
「……ジャスミン?」
「ご名答。寝る前にはいい香りでしょう?」
「え? 魔術に仕込まれていたのですか?」
「厳密に言うと乾燥とは別なのだわ。幻覚の魔術ね。叔父さんが、ミャーノは魔術耐性が低いって言ってたから……ちょっと試してみたの」
「こういうのなら大歓迎ですよ」
ベフルーズのように、人が寝ようとしないからって強制的に入眠させたりするのはどうかと思う。
サラは卓上に置いてあった櫛をとると、おもむろに梳き始めた。ドァークを使ってもらうと、この髪は全く絡まないようだったので特にくしけずるという手間を掛けてなかったのだが――マッサージ効果もあるんだな、櫛って。気持ちが良い。
私は座らされていて、サラは立っているという状況だが、気分は「主人の膝の上でブラッシングされている猫」だ。
ペシャッとなりたい。ペシャッと。
「ありがとうございます、サラ。いつもそんなことはないのですが、なんだか眠く――なって、きました……」
「じゃあこのまま、このベッドで寝てしまいなさいな」
「いや、それは……この身体ですから」
「メシキの森では一緒に寝たのに」
「あの時はベフルーズが私を先に起こしていたから良かったんですよ。まあ、実際にあの朝は何も問題ありませんでしたが」
でも男の身体のメカニズムを、私は未だによくわかっていないし、身体の感覚には振り回されてしまっている。
「私も、あまり男としての自分の生理的な側面を直視したくはないので……」
「ミャーノ……私が見当違いな思春期思考してたらすぐ否定して欲しいのだけれど」
「はい」
「その……朝、そういう現象があったりするの……?」
「……!…………ッ」
おう、目が覚めてしまった。
うとうとしてた頭が、体に悪そうなレベルで一気に冴えた。
「サラ……保健学はご存知で……?」
「あ、違うわよっ? 知識としてだけよ?! わ、私これでも一人前の魔術士なのだから、人間の生体学知識を持ってないと話にならないというだけよ! 決して興味本位ではないのだわ!」
「え、ええ。知識は大事です」
いや、なんか、サラってそういう性的な知識に疎そうなイメージというか。実際、耳年増なだけで本人の実体験としては性的な話は全くないのだろうけれど。
「……まあ、そうですね。私もまだ慣れきってないんですよ。あまりうっかりサラにそんな風景見せたくないのはわかるでしょう」
何しろ自分が目撃してヒいてるレベルなのである。毎朝じゃないけど。たとえば今朝はそういうのなかったけど。
なんでそういう芸の細かさを見せるの? 使い魔の身体を形作ってる魔法さんよ。
「……わかったわよぅ。だから叔父さんの部屋なら寝られてたってコトなのね」
「…………」
違うけど。何度でも言うけど、あれは強制的に入眠をさせられただけで。私は額に手を当てて黙り込んでしまった。
私のその様子を見て何か思うところがあったのか、サラは改めてポットを持って部屋から出ようとする。
「お茶を淹れにいくわ。ミャーノはもう寝なさいね」
「……はい、サラ」
立ち上がって主人の後を追い、部屋を出た。
うっかり金曜日中に間に合わず一日空いてしまいすみません。




