6-5.自習の昼
姪っ子の憐れむような視線を背に出勤していくベフルーズは胃が痛そうで気の毒であったが、私は昨夜部屋に帰ろうとしていたのだからある意味自業自得であろう。同情はほどほどにしておくことにした。
「サラ、あまり叔父上を苛めるものではありません」
「あら、わかってたの?」
「わかりますよ。ベフルーズがそんなことをすると思ってはいないことくらいは、さすがに」
「……姪としてはそう思いたいのだけれど、それはあくまで私の希望なのよね」
ベフルーズの姿は遠ざかり、やがて見えなくなったので、私たちは家の中に戻った。
「親の再婚を嫌がる子供じゃあるまいし、叔父さんにはちゃんと幸せになってほしいのだわ」
だからさっきの「良い機会だからはっきり言っておく」は本心だ、と。
「だからと言って私を使ってからかうのはどうかと思いますよ」
「それはそれ、よ。そこに座って、ミャーノ」
「? はい」
暖炉の部屋の長椅子を指すので、サラも座れるように少し端に寄るように腰掛ける。
するとサラが収まったのは、その空いた場所ではなく、私の両大腿の間の空間だった。
「……サラぁ」
「何よ」
私が呆れたような声色でため息を漏らすと、やや反発するように彼女はムクれた声を返す。
「要はやきもちを妬いただけではありませんか」
後ろからサラの両手を取って、サラの膝の上でその手を柔らかく握り込んだ。彼女の旋毛に鼻面を軽く押しつけると、バニーアティーエ邸の風呂場に備え付けられているシャンプーの香りがする。
「叔父上をとられて寂しいんだか、使い魔をとられて悔しいのだか……後者は、心配ないと申し上げておりましたでしょう? それとも」
サラの右手をとって軽く掲げて、サラの耳元で囁いた。
「こちらにも、いえそれ以外のところにも、キスをいたしましょうか?」
確か先日口づけたのは、左手の甲だったはずだ。
「――ッ……い、いい。それは今は結構なのだわ」
「なるほど、それではまたいずれの機会かに再度お聞きすることとしましょう」
しれっと慣れたような口をきいてしまっているが、私は唇と唇のキスは完全に未経験だ。病的な潔癖症ではなかったと思っているが、身体を重ねる関係に至らないのに口内を侵させるのも侵すのも嫌だった。――美人でも性格がいいわけでもないくせに、そんなだから行き遅れたのだろうなあ。
しかし不思議と、“ミャーノとして”だとそんな気持ちを抱かない。
サラがいいというのであれば、額だろうと足だろうと、その唇だろうと、キスをしたいという気がしているし――それが彼女から嫌がられるという予想をしていない。
……冷静な「都子」としての私は、「この痴漢思考野郎が」とも思わないでもないのだが。
では、キスよりも親密な行為をサラに対してしたいと思うか。
その様子の想像は容易だったけれど、したいかという問いには「サラに求められる機会があったらね」と自答した。
そう考えるのが「この身体」の思考なのか、「都子」の思考なのか、「私」には分からなくなっていた。
五分もそうしているとサラは満足したらしく、夜の会戦に備えてやるべきことをやろう、と立ち上がった。
といってもサラは家事、私は自習だ。
ベフルーズの部屋の机の上に積み上げられたままの教本を取りに、お邪魔する。
分厚い本が、五冊。その中にはたくさんの付箋が貼られていたが、ベフルーズが私のためにつけた目印の付箋は天ではなく小口につけられている。
付箋の糊という文明がこの世界にあることに少し驚いたのだが、昨夜ベフルーズにそれを訊いたらなんと「錬金術」で粘着力の調整ができるものらしい。私の感覚で言えば、それこそ付箋の糊から瞬間接着剤まで。錬金術ってそういうものなの?
ベフルーズは科目として錬金術を担当しているくらいだ。先生が言うのなら間違いはないのだろうけど。
「おや。これは……」
『ファールシー偉人伝』と表題にある本の付箋が十枚ほど。付箋のページを確認すると、一枚一人物の一ページ目に貼付されているようだった。
その中には「鈴蘭の騎士」の名前も含まれていた。あれはお伽話ではなく、実在の人物だったのか。
「ミャーノ、お昼できたよ」
「はっ」
テラスになっているところで黙々と読書していたら、あっという間に四時間ほど時が経っていたようだ。
「ミャーノ、お勉強を嫌いとか言ってたけれど、あなた割と本の虫のケがあるわよね」
読んでいたところにはベフルーズに借りた栞を挟み、丁寧に畳む。
「こういう本を読むだけなら良いのです。数学の本は読めません。そして試験が嫌いです」
「その試験だって、叔父さんが出したものは簡単に回答していたくせに?」
「あれは――あれは、さすがに出来ます」
ベフルーズに訊いたところによると、私が受けさせられた模擬試験は、シーリンの街にある学校を卒業するまできちんと学んでいれば網羅されている範囲ではあるそうだ。
それはつまり、義務教育の範囲なのだろう。
サラが用意してくれた鹿肉のロールキャベツが文句なく旨い。エンドルフィンだかドーパミンだかが出ているのを感じる。いや、実際にはこの身体の脳はそんな脳内物質出していないのかもしれないが――でも出していないとしたら、私の感情は一体何で盛り上がったり盛り下がったりしているのだろう? アレか、魂が旨い飯を求めているということか?
「美味しいです、サラ。このソースが濃い目なのが、キャベツがたっぷり含んだスープと良いバランスで……」
「そう、よかったわ」
「これを頂けないベフルーズが気の毒ですね。魔術で保存処理などはできるものなのでしょうか」
「また作ってあげるわよ。保存は魔術ではあんまりしないのじゃないかしら」
時空間停止や固定の魔術は夢物語すぎたか。
「その時はぜひ私もご相伴に与りたい」
「ふふっ、当たり前でしょう」
付け合わせのトマトも湯むきしてあって甘い。
「三時間後に出発するけど、その前に何かおやつでもお腹に入れておいた方がいいわよね。カルガモ亭には食べにいくのじゃないのだし。何かリクエストはある?」
「あっ、でしたらパンケーキをお願いいたします」
「あはは、即答か……。師匠の家で作ったのが気に入った?」
ええ、それはもう。前の世界でホットプレートでしか自作できなかったような焦げのない、しかし生焼けでなくしっかりふわふわに焼かれたパンケーキを、フライパンで作ってしまうサラはすごいです。
味はもちろん、そういう見た目のすごさも語ったら、サラは気の毒そうな目で「当たり前のことを言われてもなあ」と口ごもっていた。
それは違います、サラ。
あなたの基準はベフルーズかもしれませんが、あれはもう三ツ星レストランで修業を終えて自分の店を持っているレベルです。
決して、私の料理の実力が絶望的にひどかったわけではない。
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