5-13.ナイト・ストーカーズ
「……偉大なる魔女ミネルウァのトロユ霊験譚……」
私の言葉に、サラが考え込むように口に拳を当てている。
「霊験譚?」
「お前、魔女ミネルウァの時代はこの森がトロユ領だったのは知ってるか?」
「あ、はい。それは本で読みました」
「トロユの王子がオピウムにハマっちまったのを救けた、って逸話があるんだよ」
「阿片……」
日本人だった私には「あへん」という呼び方の方が馴染みがあるが、それのことだ。海外で「オピウム」を売りつけようとする売人に引っかかるなよ、と友人に言われたことがあった。
「その王子の名前はなんだったっけな」
「“パラース”なのだわ、叔父さん」
「ああそうだった。パラース王子は子供のころから病弱で、咳止めとして当時のご典医がオピウムを処方していたんだそうだが、その依存症になってしまったんだと。当時は抑制系の向精神薬としての害は知られていなかったんだな」
「王子だったからこそ、精製度の高いオピウムを処方されてしまったということでしょうか」
「――魔女ミネルウァは王子を依存症から救ったけれど、それ以来今でもトロユでは水面下で麻薬の取引がされているというわ。ねえミャーノ、どうしてそんなことを思いついたの? それも……森の過去視なの?」
――そんな記憶は見せられていない、としか答えることができなかった。
カツレツを揚げているベフルーズの隣で、クレソンのスープの番をぼーっとしている。
煮詰めてしまわないよう弱火にかけられている鍋の中を、おたまでぐるぐるかき回しているだけだ。
野営では薪をくべて調理していたが、バニーアティーエ邸での調理も含めて、家の中での料理は「火の魔術」を一度かけると一定時間は自動で燃焼し続けるガスコンロのような台を利用している。
食堂などでは薪をふいごで燃やしていたのを見たから、普通の家庭にはこんな道具はないのだろうが、バニーアティーエ邸もこの家も、魔術士の家なのでその点は不思議には思わなかった。ベフルーズが魔術を仕掛けないと発動しないのだから、魔術士以外の家で利用できないのは当たり前だ。
「ミャーノ、ミャーノ」
「はい? あ ……あつッ…」
呼ばれて振り向いたら揚げたての一口大カツレツを放り込まれた。いや、揚げたてといっても、ベフルーズは手で摘まんでいたから多少は冷まされたものだったとは思うが、揚げられた衣は熱いもんは熱い。
都子は自他共に認める猫舌だったが、この身体もその疑いがある。
「あはは、変な顔」
「……はふ………み、みず」
「あれ、火傷したか? 悪い悪い、ちょっと上向いて口開けて」
「?」
言われた通りにすると、ベフルーズは水の魔術を展開する。
「≪サード・アブ≫――水を」
口の中にピンポン玉くらいの冷水がゆっくり下りてきた。
素直に口に含むと舌が癒される。
水が口の中でじんわりと温まってしまってから、ようよう、飲みこんだ。
「……火傷は大丈夫でしたが、その突然人の口に何か入れるの、やめてくださいよ」
「とりあえず食べるお前が面白くてさあ」
「美味しいのは美味しいのですが驚くではありませんか…」
「そうそう、その顔も面白くてさ」
面白くないっつうの。
思わずジト目になってしまう。
そんな私の抗議を気にせず、ベフルーズはクレソンを炒め始めた。
その音を聞きつけてサラがダイニングにやってくる。私と違って食器の位置を知っている彼女が皿や器の用意をしてくれた。
サクサクとした食感の中で旨味のある肉汁がはじけるカツレツと、ウズラの脂で炒められたクレソンの組み合わせは、好きなだけ動物性たんぱく質の摂取を許してくれる。
サラの平たいパンとコンソメスープも良い箸休めとなった。
食べている間はもやもやした気持ちも横に追いやってしまえるのがいい。
ベフルーズがコーヒーを淹れてくれたので、リビングで有難く飲む。
サラは先にシャワーを使うと言って奥に行ったので、飲んでいるのはベフルーズと私だけだ。
「――あのさ」
「はい、なんでしょう」
「もし、お師匠様がトロユに攫われた理由が、『トロユの人間の治療のため』だったとしたら、サラを殺そうとするのはおかしいんじゃないのか」
「……ええ。その通りです。ですが、私が午前中に申し上げた『呪いをかけられた人物と、サラを襲うように命じられた人間が別である』という状況であれば、それも説明がついてしまうのです」
「すまん、もっとわかりやすく言ってくれ」
「まず、王太子などの位の高い人物が薬物中毒であるなどということを進んで広めるとは思えません」
「……ああ」
「『なぜキーリスの魔女を攫ってきたのか?』に対し『この者の叡智は元々トロユのものであったからだ。強国たり得るために必要だった』と答えざるを得ないでしょう」
「そうだな」
「『しかしキーリスにはその愛弟子がまだいる』『ではその力もトロユに取り込むべき』となった段階で、シビュラ様がサラのためにと、救命医療の魔術で誘拐の実行犯を脅していたら、今の事態は成立します」
「……なるほど?」
「今私が言ってるのは屁理屈ですからね」
一応断っておきますが。
「お前の世界ではオピウム中毒患者ってどうやって治療するんだ? お師匠様がどういう術式組んだか、俺には見当つかねえけど……」
「依存症を治す特効薬などはありませんでしたよ。離脱症状に苦しみながら依存が解消するのを待つための保護施設があった程度です」
「そんな施設が」
「立派な社会問題でしたからねえ」
「お前はまさか手出してないだろうな」
「ご安心ください。たばこすら吸ったことはありません」
都子はね。しかし一週間こうして過ごしていて禁断症状じみたものは一切感じないので、恐らくこの身体も同様だろう。
ガランガランという明らかな「警鐘」が家の中に響き渡る。
「ベフルーズ!私はサラの元へ行きます!あなたはここで身を守っていてください!」
相手の返事を聞かず、傍らに置いてあった片手半剣を引っつかみ、シャワールームのある奥へと飛ぶように駆ける。
「サラ!敵襲の恐れがあります、こちらへ!」
躊躇いなく脱衣所の扉を開ける。そこには慌ててシャワールームから出てきて泡がまだ落とせていない全裸のサラが無事でいた。
「わっ……」
「サラ、どうか気にされませんよう。私の中身は女です」
「そ、そうだったわ。それはそれとして恥ずかしいけど……」
「できるだけ早く服を着て。ベフルーズとも合流します」
「うん!」
ろくに身体を拭けていないのが可哀想だが、後で隙を見て「アブー・アブー」でも「ドァーク」でも使ってもらえばいいだろう。
サラが靴を履いたのを確認し、サラを伴ってリビングまで戻る。
これまでに二度首筋に感じた悪寒はまだない。
「ベフルーズ! サラは保護しました」
「思わず見送っちゃったけどお前サラちゃんの裸見てねえだろうな!?」
「見られてないわよ!! そんなこと気にしている場合じゃないんでしょ!?」
サラが気を遣って面倒事を回避してくれてしまった。さすが私のご主人様。
鞘から剣を抜く。
「二人とも、本棚を背にして」
本棚のある壁の向こうが台所で、食糧庫になっていたはずだ。穀物の袋が積まれていたから、裏から攻撃しようとは思えないだろう。
「――!」
ちり、とあの悪寒を首筋に感じた。
本棚の反対側は壁ではなく、バルコニーに面した掃き出し窓だ。
日はすっかり暮れ、雑草が育ちかけている庭は暗い。
このリビングには暖炉があるが、暖炉は使わずにランタンだけでベフルーズと話をしていた。
私は暗闇でもはっきりと物を見分けられるが、サラたちは違う。
こちらが丸見えになってしまうのがわかっていても、ランタンの灯を消すのは躊躇われた。
――悪寒を感じてからそう思考すること、1秒。
私はバルコニーへ飛び出して、掃き出し窓の前でその槌が窓を破壊するのを防ぐべく、その人物を蹴り飛ばした。
「槌野郎」の他に、あと二人、庭に立っている。
「槌野郎」はヒトだったが、庭にいた二人は「竜人」と「半馬人」だった。
長くなってしまうのでここで。ここで切ってすみません