3-5.紫の月
窓辺の席だった。
外に見える月は、色付きガラスの青味が重なって紫がかっている。
こちらの月は、私の知っている地球の月とよく似ていた。
クレーターの影は、少し記憶と違うようだが。
ロス君への依頼料は明後日までに改めて払いにくるという話を確認しておいた。もともと今回の狩りは二、三日かかるかもしれないという覚悟をしていたのだが、一日で済んでしまった形だ。
週末までにくれればいい、と言われはしたけれど、早いにこしたことはあるまい。
グラタンも、馴染みのあるホワイトソースとチーズの味がたっぷりと舌を満足させてくれた。
ショートパスタの一種とみられるマカロニのミートソース和えみたいなものを食べた後、三人でチョコレートケーキのようなものも堪能した。
ああ、美味しい!
サービスとして出してくれたお茶を飲んで、そろそろ出るか、と思った時のことだ。
ほろ酔いで、お腹もいっぱいで、甘味でシメて。
店は朗らかな笑いで、満たされていて。
だから、完全に油断していた。
言い訳させてほしい。だって、これまでは人目のあるところで襲われてはこなかったのだ。
だが非難されても仕方がない。
だって、人目のあるところで襲わない、など、トロユは一言も言っていなかったのだから。
突然、向かいのテーブルの窓が割れる。
一瞬、酔っ払いが皿を割ったか、と思ったが――最初の日に感じた首筋の悪寒を、再び感じた。
「サラ、ロス!」
二人の上着を掴んで、テーブルの下に引きずり倒した。さっきまで飲んでいたティーカップが薙ぎ払われ、床に落ちる前に砕け散る。
さっきまで、久しぶりのワインに、たしかに酔って、甘い痺れをわずかに感じていたのに。
今はもう、全身が痛いほどに感覚器官を全開にしている。
「ロス!皆さんを外へ‼︎ サラ、背中に気をつけて。防御魔術があればご自身に使ってください」
壁と己の身体でサラを挟んで、避難誘導をロスに託す。
壁も安全とは言い切れないので、そこはサラの魔術に頼りたい。
「うん」
「――わけわかんねえけど、クソ、わかった!」
ありがとう、ロス君。そうだ、君はわかっているんだった。サラは身を守ることができる程度には、強いのだと。
木製の食卓を抉って、飛び込んできたのとは反対側の壁のそばにたたずむそれは、ヒト型ではあったが、黒々とした影そのものだった。
黒子ではない。「影」なのだ。
そこにだけ黒い陽炎が立っている。
割れた窓の近くにいた客は、無事だった他の客が担いで逃げ出してくれるのを横目では確認できていた。
こいつの狙いは私たちだろう。――頼むから、生きていてくれよ。
店の奥の方はまだ避難が終わっていない。大丈夫、ロス君はきっと出来る子だ。都子とは違って。
正式に譲り受けたバスタードソードを抜き放つ。
「口はきけるか?申し開きがあるのならば、聞いてやる。これ以上狼藉を働くならば、――捕縛では済まんぞ」
目も口も見当たらないこいつが、どうやって音声を出せばいいのかはわからないが。
しかし不思議なことに、喋れたようだ。
「貴様は、――なるほど、『サゥイェ』。さすがは魔女シビュラの愛弟子か」
「サゥイェ?」
思わず聞き返した。今なんと言った?名前か?
「私はミャーノがいる限り、あなたたちなどに害されたりしないのだわ」
油断はない。サラは、窓に頭がかからないよう、低く姿勢を保って、私の陰に収まっている。
だけど、舌戦くらいは許されるだろう。
「今はっきりわかった。あなた、あの愚王か所縁のある者の『サゥイェ』ね?」
「…フ、さあな」
「そんな姿でしか現界させられない者の愚行に付き合うのは、あなたが功徳を失い、業を増やすだけなのだわ。――もう諦めて。この国はあなたたちを攻めようなんてしていないのに」
「勝手なことだ。おまえたちの国が豊かなのは、かつて我らの土地を奪ったからこそであろう」
「四百年前の話なんて、私が知るものですか。六百年前にあなたたちが私たちの土地を奪ったことだって、私は今どうでもいい」
「『サゥイェ』がいなければ、おまえの主張など首ごと飛ぶさ」
二撃目を、受け止めた。ソマの時に確認した防御の型は、こいつ相手にも有効だ。
騎士道剣術とやら、役に立つじゃないか。
三撃目、四撃目。影のせいか予備動作なしでくるからドキドキするが、元々陽炎のような剣の筋だけは「道」が見える。
「サラ、こいつは斬れるものですか」
「わ、からない」
かすれ声。かわいそうに、啖呵を切るので精一杯の女の子に、何を質問しているのだ、私は。
私は使い魔である前に、大人の女だ。
少女一人守れない、そんな大人の女がいるか!
どんなに数学がダメだって、どんなに営業が下手だって、これだけは絶対に、「できない」なんて言うものか。
「問題ありません、サラ。あれは、斬ります」
かすれてしまった喉の奥で、彼女がたしかに私の名を呼ぶのを聞いた。
五撃目。
そうだ、窓といいテーブルといい、すべて物質を破壊している。私の剣にも衝撃がある。
つまり、攻撃している瞬間、少なくともこいつの武器は存在しているのだ。
六撃目、七撃目、八撃目――九、
「――シッ」
気負いすぎて思わず息が漏れてしまったが――手応えはあった。
武器を切り離すつもりが、手首を切り落としてしまった。その生々しい手応えに、吐き気を催すほど、こいつはその瞬間「影」ではなかった。
切り落とした手は見えない。陽炎では武器を失ったかはわからない。
「次は首でも落とすか」
「……――」
憎まれ口も、捨て台詞も何もなく、影は去った。
首筋はもう殺気を感じていない。隕石の時のように、去ったのだろう。
論理的な根拠はないが、この感覚は信じて良いという妙な確信がある。この手合いは信用しよう。
「サラ、怪我はありませんか」
「な、ない…もう大丈夫…?あいつ行った…?」
「ええ」
鞘に入れられない剣は、しかし逆手に持ち替えた。片膝をついて構えたまま私のズボンを掴む手を、右手でそっと握ってやる。
「大丈夫です。私にはあいつが斬れましたから、だから、これからも、大丈夫です」
「うん…うん、ありがとう」
やがてサラの足が震えなくなったころ、異常事態が終息したことを察して、ロス君が店の中に戻ってきた。
客AとBはどうなったのか
2018/3/2:横書きWeb小説だしと思い文頭空白つけてなかったのですが、つけました。