【キーリス異聞】使い魔のいない刻・12
番外編ですが、情報自体は本編にも絡んでいます。
ミャーノがいない世界線の話なので注意。
「お待たせしました、本日のスープで…ひゃっ」
「おっと。大丈夫ですか」
そのカフェの給仕係の少女・カルケが、熱々のコーンポータジュスープを湛えた磁器の碗をとり落としそうになる。それを客であるパールシャが辛うじて受け止めた。
左手にカルケ、右手にスープ入りの器。
彼女はその器があまりに熱かったがゆえに取り落としたのだ。不意に受け止めたパールシャの右手が無事で済むはずがない。
粘性の高いコーンポタージュは少しばかりこぼれて、パールシャの掌と手首に直接べちゃりと纏わりついている。
パールシャの体幹はしっかりと鍛えられており、華奢なカルケが体重を掛けたところで微動だにする道理がない。しかし、その光景を目にした周りの客らとカルケは、その点よりもまず――
「申し訳ありません! 火傷、火傷を――」
「私は大丈夫ですよ」
大丈夫ではない。彼が涼しい顔をして乾いたナプキンで右手を拭えば、けっして浅黒くはない彼の白めの肌が赤く腫れていた。
水脹れなどの爛れには至っていないようであることにはカルケはこっそり胸を撫で下ろしたが、客に怪我をさせたという事実は変わらない。
「何してんだカルケェ!」
「す、すみません、すみません…!」
怒号が飛んできた。怒られたわけではない方のパールシャまで内心畏縮したが、それを表情には出さない。
彼は、自他関係なく、誰かが誰かに怒鳴り散らされるのが苦手だった。――得意だと言う者はそもそも稀有であろうが、パールシャは、せめて己が誰かを怒鳴ることはしないと決めていた。
パールシャは顔には確かに出していなかったし、他の客も気づかなかったが、同席していた同僚だけは、その“不快感”を感じ取ったようであった。
「平気、平気。こんなの、おれらにしてみれば火傷の内に入んね~から。ほらこれ見てよオヤジさん」
「お、おう…これは……」
フィルズは、新兵の歓迎会でいつも見せてやるように、自分の襟を寛げて首筋のケロイドを衆目に晒してやった。騎士団では見慣れた傷痕であったが、下町のカフェでそうそう目にする重傷痕ではない。
カルケを叱り飛ばした壮年の店主の毒気を抜くには十分すぎる功を奏したのであった。
「な。まあ――氷があったら欲しいけど」
彼はさすがにバニーアティーエであるだけに、ランプに灯を燈す程度の魔術は扱えたが、製氷は得手ではなかった。
飲食店、特にデザートを多く作るようなカフェでは製氷の魔道具が備えられていることも多い。
詫びよりも叱責よりも、フィルズは親友の手の腫れを癒す氷が早く欲しかったのだ。
「あ――氷なら、はい! ――≪サード≫――下がれ圧力、蒸発しろ――」
「ふぇっ?」
魔術士一家にいたからこそ、他の家庭では魔道具を使って魔術を実現するのが普通なのだ、と強く思っていたからこそ、少女が魔術を行使したことにはフィルズは不意を突かれた。
パールシャは不意を突かれたどころではない。彼は本能的に、腰に佩いた片手半剣を、左手で鞘から滑らせる。完全に抜き放ったわけではない。右腕にその刀身の根元を当てた。
「いや、いやいやいや。腕自体を凍らせたら壊死するのでは?」
「えっ、あっ、わ、私、ごめんなさ――」
エルドアン鋼の効果で、カルケが行使した“物を凍らせる魔術”は見事にかき消され事なきを得たが、フィルズはまだどきどきしていた。
凍らされかけた本人よりも、フィルズの方が驚いているようだった。
「……同じ魔術を、こちらのナイフに掛けられますか?」
「は、はい」
注文したキッシュはまだ来ていなかったので未使用だった綺麗なナイフが彼の手元にある。
パールシャの平静さに気を取り直したカルケは、ナイフに改めて術を施した。
その銀色はうっすらと霜を纏い、周りの空気が白く煙ったほど冷やされたのが見て取れた。
「ありがとうございます」
パールシャは端的に礼を述べて、かつてフィルズから譲られた白いハンカチを取り出してその柄をとり、刀身にも巻いてから、やっと右手の患部に当てる。
「ああ、良い感じの冷たさです。心地がいいですよ」
「よ、よかった……」
カルケは今度こそ、大きく胸を撫で下ろした。
パールシャ達は、以前から何度かそのカフェを訪れていた(季節の野菜をふんだんに使ったキッシュを、パールシャは評価している)――が、カルケを見かけたのはその日が初めてだった。
店のオヤジが怒鳴っているような場面にも、出くわしたことはなかったのだが。
「もしや、こちらには最近?」
「え? あっはい、そうです、三日目でして」
「給仕自体が初めてだったりしますか?」
「…………はい。やっぱり、わかりますか? 私全然仕事できなくて――」
「いえ、そういうことではなく。失礼ですが、その三日でかなり手が荒れたのでは?」
「手――はい。水仕事が多くて急にガサガサには――なってしまいました」
若い娘らしい、綺麗な指ではなくなっていたことを、先程抱きとめられた際に気取られたのか、と恥ずかしくなったカルケは、指を隠すように胸元で握り込む。パールシャはそんな少女の機微そのものは気にもせず、得心したとばかりに、こう続けるのであった。
「きっとそれで、指先が余計に熱さに弱くなっているのだと思います。明日でよければ、良い膏薬をお譲りしましょう」
翌日、宣言した通りにパールシャはカルケのいるカフェに昼食をとりに――もとい、薬を届けに来た。
彼はちゃんと店主に断ってから、彼女に小さな包みを手渡した。中には、酸化亜鉛に薬が練り込まれているという塗り薬の詰められた、小さな平たい丸缶が入っている。
「本当によろしいんでしょうか。騎士様を火傷させた身で、こんな良い物を頂いてしまって」
「ええ。実はこれ、友人の薬局が扱っている商品でして。もしそれが合うようでしたら、店もご紹介しますよ。『コロティネ』というところです」
「試供品の横流しだった!?」
「違います。それは正規の商品で正規に買った新品ですから、その点は信用してください」
「し、失礼しました」
「しかし――その友人に話を聞いて少し考えたのですが、あなたは常人より肌が弱いのかもしれませんね」
「え? そうなんですか?」
「三日水仕事を続けた程度で、ここまで荒れはなかなかしないそうですが」
「そうなんですか……お皿割ったり鍋をひっくり返したりしてるんですけど、……もしかして私、カフェのお仕事向いてないのでは……」
――――四日でそこまでやらかし続けるのはそうかもしれません。という言葉をパールシャは飲み込んだ。
項垂れている彼女に、パールシャは思い切って、こちらの言葉を掛けることにする。
「カルケさん、魔導士になられるのは如何でしょうか?」
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は10/27(日)までには!(今回延期しまくってしまったので余裕を持たせています)




