その39 会釈
豚。
豚です。
たしかにそれは、巨大な豚の“怪獣”でした。
「何しているようにみえます?」
「匂いを嗅いでいますね」
運動場に入り込んだその豚は、ぷぎぃ、ぷぎぎぃと奇妙な音を立てながら、校庭の隅っこあたりをうろついています。
「あそこらへんって、たしか……」
「ええ。俺たちが仕留めた“ゾンビ”を埋めてるところですね」
練習用に殺した“ゾンビ”は、火にかけて埋められているはずでした。
豚が鼻を鳴らしているのは、そのあたりです。
「……焼いた肉の匂いに引き寄せられている?」
「かもしれません。オヤジの話でも、自衛隊のキャンプ周辺の“ゾンビ”は焼いて処理してたみたいですから」
私たちの眼下には、すでに百数十匹からなる“ゾンビ”の群れが集まってきていました。
“ゾンビ”は、物音に引き寄せられる性質があります。
恐らく、豚が発する唸り声に引き寄せられて、これだけの数になったのでしょう。
幸いなことに、どうやら向こうはこちらに気づいていないようでした。
“ゾンビ”も“怪獣”も、てんでバラバラに歩きまわっているだけです。
「なんにせよ、このまま立ち去ってくれればいいんですが」
「それは……、あんまり期待できなさそうですね。動物は勘が鋭いと聞きますし」
一瞬、豚がこちらに向き直ります。目が合った気がして、窓から身を離しました。
「でも、あんなもの、やっつけようがない」
確かに。
その巨大な豚は、日比谷さんがいつか言ったように、高さだけでも私の倍はあります。全身の体積を測れば、私が暮らしていたボロマンションの一室を優に上回るでしょう。
ですが。
今なら。
今の私なら、《エンチャント》した剣で、奴の頭を切り落とすことも不可能ではないはず。
そもそも私は、こうした“異常な”怪物と戦う時に備えて、魔法関係のスキルを取得してきたのです。
もちろん、それでも戦わないに越したことはありません。
今の私たちにできるのは、息を潜めて豚がどこか遠くへ行くのを祈ること。それだけでした。
「ううっ、……あれ、……マズいぞ……ッ」
そんな状況下において、窓から外をのぞき見ていた竹中くんがうめきます。
つられて外を見ると、“ゾンビ”の群れに紛れて、一人の女性がふらふらと歩いているのが見えました。
「あれって、水谷さんか?」
「……水谷さん?」
その苗字には聞き覚えがあります。
避難民の中から出た“ゾンビ”。
既に噛まれていた水谷一郎さん。
犠牲になった水谷幸之助さん。
二人を処刑する私。
宙を舞う首。
そして、首をはねられてもなお、パクパクと口を開け閉めしていた死骸。
あの時の出来事が、脳裏にフラッシュバックします。
ふらふらと歩く中年の女性は確か、水谷幸之助さんの奥さんで、水谷忠子さんと言ったはず。
「な、何やってんだ、あの人!」
康介くんが歯噛みします。
「駄目だ……。きっと死ぬつもりなんだよ」
竹中くんが、泣きそうな顔で女性の背中を見つめました。
「夫と義理の父を亡くして……あの人、ずっと塞ぎこんでたんだ。時々、ああして夜中にぶらぶら歩きまわるもんだから、注意してたんだけど……くそっ」
「冗談じゃない。あの人にはまだ、娘の瑠依ちゃんがいるじゃないか……ッ」
いつだったでしょう。
瑠依ちゃんが言っていた、
「おねーちゃん、つよいの?」
という言葉が浮かんでいて。
「ちょっと、センパイ!」
気づけば、飛び出していました。
二階の窓を飛び越えて、運動場に着地。
『うぉあああああッ……』
ほとんど間をおかずして、周囲を取り囲んでいた数匹の“ゾンビ”を斬り捨てます。
「――退けェッ!」
意味が無いと知りつつも、歩く屍に怒鳴りつけました。
必要最小限の力と必要最小限の動きで“ゾンビ”を倒し、躱し、水谷さんの背中に近づいていきます。
水谷さんは、何者にも行く手を遮られることなく、豚の怪物へ向かっていきました。
生気の感じられない水谷さんの歩き方に、“ゾンビ”も仲間との区別がついていないのかもしれません。
ダメだ。
このままじゃ、追いつけません。
「水谷さん!」
私は叫びました。
「生きてください! 瑠依ちゃんもきっと、それを望んでいます!」
水谷さんと視線が合います。
愛する夫と、義理の父を亡くしたその女性は、困ったように微笑んで。
少し、会釈をしてみせました。
まるで、道端で苦手な知り合いに出くわしたときのように。
次の瞬間、ぱっと華が散るように、彼女の上半身が吹き飛びます。
赤い、
ひどく赤い雨がさっと地面を濡らし、
『ブギィーッ! ギギギギギギィー!』
豚の“怪獣”が、牙を振り回しながら、威嚇の声を上げます。
その足元では、水谷さんの下半身が、無残な姿になって踏みつけられていました。
ぞく、と。
自分でもよくわからない感情の昂ぶりが全身を満たします。
「――《エンチャント》」
刀に、つぅー、と、液体を塗りつけて。
「――《ファイア》」
着火。
『ギーィ! ギギー!』
壊れたラジオが発するノイズのような音を立てて、“怪獣”がこちらを睨みつけました。
……敵。
こいつらは、“人類の天敵”だ。
ふと、そんな言葉が頭に浮かびます。
時刻は八時前。
月が美しい夜でした。
炎の剣を構えます。
「お前、――殺す……ッ!」