その313 不定の狂気
――そうだ。発狂、しよう。
犬咬蓮爾がそう思い至ったのは意外なほど早く、この奇妙な鏡写しの世界で遭難してから二週間後の出来事だった。
(味は薄いが)食事がある。
(鏡文字だが)娯楽もある。
彼の率いる仲間たちが暮らしていくのに、当面は問題ない。
だがいずれ皆、気付くときが来るだろう。
ここから逃げることはできない。
自分たちはこの、巨大な檻に飼われた哀れな子羊だということに。
犬咬だけがそれに気付いていた。
いや正確には、彼と、彼の相棒。數多光音だけが。
とはいえ光音は、
――待ってりゃそのうち、海路の日和が来るさ。
と、前向きだったが、凡人の犬咬は知っている。
結局のところ、奇跡は起こらないものなのだ、と。
だから彼は、人知れず狂うことにした。
屋上の扉を全て施錠して。仲間が不安にならぬよう。
全てのことが終わった後、何ごともなかったようにみんなと笑うために。
まず彼は、服を全て脱ぎ捨てて素っ裸になった。
そして獣のようになって叫ぶ。「うひょおおおおおおおおおおおうおうおう」と。
その後、以下のようなことを思った。
――結局のところ、狸たちの腹太鼓に合わせて虹色のソフトクリームがむりむりむりむりとひり出てくるそのさまは美しく、それがレティクル座の神様の口元へと吸い込まれていくのは圧巻だった。
神々が棲まう極楽の合同コンパにおいては、色とりどりのにんじんしりしりによって彩られた野菜サラダの取り分けを行うものは下男・下女に過ぎず、それは決して気遣いのできるモテ男の所業ではない。
スパゲッティ・カルボナーラが世界で一番美味しい食べ物であることは論ずるまでもなく、それはやがて宇宙と同一となることをここに宣言したい。
さあ! セックスによってあらゆる問題が解決すると信じる者たちよ。
今こそ、喜びと凱旋の時が来た。
人と獣がそれぞれ交わり、両開きするタイプの冷蔵庫型赤ん坊を育てるが良い。
その腸には、冷凍海老ピラフとかそういう、わりと美味しいものがつまっているので盗人に襲われぬよう注意しておかなければ。
そして彼は屋上の縁に立ち、「これだ」と思った”ゾンビ”に対して小便をかける。
それは頭が禿げ上がり、ぶくぶくと太ったタイプの男で、生前きっと人よりも場所を取っただろうと思えたためだ。これはその罰である、と。
とぱぱぱぱぱぱぱ……と、ハゲ頭が光を反射して、こちらに蒼白い手を伸ばす。
「そーれそれ! うまいか! これだって人間の一部だ! 飲んでみろ!」
蓮爾はそこで、高笑いをした。絶好調だった。日々のストレスが暖かな日差しの中でとろとろに溶けていくような気がした。さながら氷菓子のように。
一匹の野獣のようになった彼は、少し前、友人の高谷興一が悪ふざけ的に描いた赤色の女体に視線を向ける。
しばらくそれを眺めていると、なんだかむらむらするような気がしてきた。
とはいえ、友人作の絵で自らを慰めるのはあまりにも虚しい気がして、彼は突如として倒れた。
大の字になり、曇天の空に向かって叫ぶ。
「ちくちょう……おっぱいだ! ははは……おっぱい、おっぱい……」
ちょうどその時だった。
漆黒の鎧を身にまとった女の子が、――天使か悪魔の如く、彼が寝転ぶ辺りに着地したのは。
「おや? なんだか可愛らしいセックス・シンボルのご登場だぞ?」
「あっ……ども……っす。――なにシンボルですって?」
天使(あるいは悪魔)が身にまとっていた鎧は、着地と同時に魔法のように消失する。
同時に、彼女が背負っていたらしい、もう一人の女の子がひょいっと地に降りた。
その有様が蓮爾には、女の子が二つに分裂したように見えている。
「ふむ。セックス・シンボルは増えるのか。では片方は仲間のうちの誰かにプレゼントしよう。公平に、オセロとかで」
見よ。空想の中では、このような奇跡も自由自在。
蓮爾は最高の気分だった。有頂天だった。
朝に発狂しようと決めてから早くも、こんなにもリアルな幻覚と顔を合わせている。そしてその幻覚は美少女の二人組で、たぶん自分の子種を望んでいる。まるでエロマンガのように都合の良い展開ではないか。
かといって彼は夢想家ではない。
想像の中にもリアリティを求める類の人間だった。
蓮爾は少々の品定めの後、タンクトップ姿のスレンダーな方を選んで、さっと立ち上がり、”く”の時になる。
「あの、すいません」
彼女は、蓮爾が一糸まとわぬ格好であることにひとしきり驚いてから、こう答えた。
「え、……なに?」
「ちょっとセックスさせてください」
「は?」
「いやだから、セックスを。男女の交合を」
「えっ」
「えっ」
「……嫌、だよ?」
「えっ」
「えっ」
「なんであなたは、俺にとって都合の良い女ではないのでしょうか?」
「いや、そう言われても……」
「俺はもう、疲れてるんです。時間はたっぷりありますが。男女間における儀式的なあれこれは、できるかぎり省略したい」
「……あのね。そういうことって、出会い頭に言うべきじゃないし。もっとお互いを知り合ってからの方がいいって、おねーさんは思うな」
「そんな馬鹿な。じゃあなんであなた、ここに出てきたんです」
「そりゃ……あなたたちを、救助しに、だよ?」
「馬鹿な。誰にも俺たちを助けられっこない」
「それは……ええっと、アハハ、ハハ。みんなのがんばり次第、というか……」
「がんばったって……! 幻覚には無理なんですッ! もちろん、俺にだって……ッ」
蓮爾は叫んだ。目に涙がにじんでいた。
それは、ずっとリーダー役として頑張ってきて、初めて口にした泣き言だった。
有り体に言って、今起こっている全ては悲劇だと言える。
この時の蓮爾の行動は全て、あるいは仲間を傷つけていたかも知れない狂気を全て、虚空に向けて吐き出そうと努めた結果であるためだ。
「俺……本当は英雄なんて柄じゃない……みんなに頼られる側の人間じゃない。ずっと、ずっと怖かったんだ……」
「そ、――そう、だったんだ」
「だから、よろしくオナシャス!」
そして彼は、その場にぺしゃりと這いつくばる。
膝をつき、幻覚に頭を下げるという屈辱的な状況にマゾヒズムを感じていた。これで後頭部を踏みつけられたらきっと素敵だろうに。
「一目見た瞬間から、あなたの胴体が好みでした。具体的に言うとその、ぎゅっと引き締まった腰のくびれが。俺、あなたのボディラインに沿って舌を這わせたい。だからその旨、よろしくご査収お願いいたします」
「えっ、えっ、えっ……。すっごいぞわぞわすること言われたんだけど……」
しかし残念ながら、空想上の彼女にサドッ気はないらしく、目を白黒させるだけ。
「……ちょっと、これ、……困ったな……さすがの私も、この展開は想定外だよぉ」
と、そこで、肩がぽんと叩かれた気がした。
顔を上げると、セックスしたい方とは別の眼鏡女がこちらを見下ろしていて、なんだか怖い笑みを浮かべている。
「なんすか。俺、こっちの人と話してるんだけど」
その次の瞬間だった。
「この、――痴れ者ッ!」
鞭のように鋭い平手打ちが、蓮爾の顔面を引っぱたいたのは。
「ぎゃふん!」
彼はそう叫びながら、ふと思った。
――あれ? この人たちひょっとして、現実に存在するのか?
と。




