その224 牙
「――の、わあ!?」
へっぴり腰の私が初撃を受けずに済んだのは、ほとんど奇跡と言っていいでしょう。
鞘に収めた刀で攻撃を止めて、反射的に《スキル鑑定》をします。
ジョブ:???
レベル:??
スキル:《飢人化》《????(上級)》《???Ⅰ》《????(強)》《???》《???》《????(強)》《???Ⅰ》《???Ⅰ》
「――?」
一瞬見えたそれが、異常な表示であることは私にも理解できました。
何か、バグったゲーム画面を見ている、ような。
唯一読める《飢人化》というスキルも、私の情報にはないものです。
私は、鞘に収めたままの刀を構えながら、
「な、なんですか急にッ!?」
果たして話が通じるか怪しい感じでしたが、一応訊ねます。
『おしゃべりは、――縫い針が心臓を刺したあとに!』
あ、やっぱダメですねコミュニケーションとる以前の問題っぽいですねコレ。
薄明かりの下で火花が、二度。
何にビビるって、相手の武器です。
この人、ギャルが装着してるつけ爪みたいに尖らせた爪を武器に戦うんですよ。
誰かの血で濡れたそれは、ドス黒いマニキュアを塗っているみたい。
この時点で私、かなりマズいことになっていると気付きました。
まったく、自身の想像力のなさ、準備の足りなさに歯がゆい想いでいっぱいなのですが、――いま、刀と鞘は専用のヒモで固く縛り付けられていて、それをいちいち解いている暇がないのです。
さすが”スキル”の力、ということなのか、私は、私が想定するより何倍も早く自衛することができていました。刀は羽根のように軽く、身体はもっともっと軽い。私は本当にスーパーマンになっていたのです。
けど困ったことに、目の前のこの男の運動能力は、そんな私より少しだけ高いみたい。
この状況で逃げ出してしまっては、恐らく背中を切り裂かれてしまうでしょう。
別に、少し引っ掻かれたくらいなら、あとあと《治癒魔法》を使えば済むのですが、――。
私の中の本能が、こう告げるのです。
たった一撃でもこいつの攻撃を喰らってしまえば、それでおしまいだ、と。
絶え間なく振るわれる黒い爪を、刀の鞘で受ける。
そんな攻防が、数分ほど続いた頃でしょうか。
『ほらあ!』
ぱたたた、と、顔面に生暖かい者が降りかかり、私のメガネに数滴、紅い水が散ります。
『――ちぃいいいいッ! その! ガラス板があッ!』
それが彼の血液だと察して、得体の知れない恐怖に襲われました。
こいつがいま、私に何をしようとしたか。
――万一、連中の血や唾液なんかが目や傷口に入っちまったら、いくら力の強い”プレイヤー”と言えどもオシマイだからな。
夜久さんの言葉が思い出されます。
あれは確か、”ゾンビ”に関する情報だったと記憶していますが……。
なんでしょう。目の前のこいつに、あの歩く死人たちの姿が重なるんですよ。
だってほらこの人、身体中刺されまくってるのにぜんぜん平気そうですし。
と、いうことは。
もし私がメガネをかけてなかったりしたら、――今ので、負けていた?
それどころか、あるいは。
こいつとまったく同等のものに、変異させられていたのでは。
『どうしたッ! ……怯えているのかい?』
歯がみしながら、応えます。
「武者震いですっ!」
戦闘初心者ながら、感覚的に理解していました。
一対一の殺し合いでは、――気持ちが重要。侮られたら終わりだ、と。
「降参するなら今のうちですよ。いま、仲間が駆けつけてくるところですから、――」
そう語りかけた、その時でした。
対峙する彼の背後から、猫のように素早く、一人の少女が飛びついたのは。
彼女は、その奇妙な男の両耳を塞ぐように、左右一本ずつ、ナイフを突き刺します。
「しね! しね!」
『ぐ、がッ!?』
それは、間違いなく彼の脳に到達した、はず。
”ゾンビ”ですら死ぬ傷のはず。
『ええい、お前はもう、――……どうでもいい!』
だというのに彼、一切気にしない感じで美言ちゃんを振り払いました。
美言ちゃん、人形のように放り投げられて、壁に叩き付けられます。
常人であればそれで死んでいてもおかしくありませんが、……なんと彼女、まだ元気いっぱい。ガラスの散った地面に転がって、全身生傷を作りながらも起き上がり、
「おまえ! ”プレイヤー”なら、しっかりしろ! そいつのくびをはねろ!」
私は数歩後ずさり、美言ちゃんがせっかく作ってくれた隙を完全に無駄にしたことに気付きました。
刀は未だ、鞘に収まったまま。
紐を、解かなくては。
たしかに一瞬、そう思ったんです。
でも、なぜか手が動きませんでした。
どうしても、その気になれなかったんです。
琴城両馬さんとやらは、身体中からナイフを生やした面白人間みたいな格好で、私をにらみつけます。
『容れ物は、――以前と同様、だが』
その口元に、酷薄な笑みを浮かべながら。
『心が、前と違うということか。腐肉を詰め込んだ冷蔵庫のようだ』
やっぱり、だめだ。
戦えない。
私、どうやっても刀を抜くことができない。
敵に刃を向けることができない。
心臓はばくばくと高鳴って、くらくらとめまいが起こっていました。
あとあと思い返すと、――ある種のパニック障害を患っていたのかもしれません。
自動車事故を起こした人が、ハンドルに似たものを握ることすらできなくなるというアレです。
私は。
牙を。
牙を失ってしまった。
我ながら、それを受け入れるのは早かったように思います。
ある意味、それまでの記憶を失っていたのが良かったのかも知れません。それまで積み上げてきたものをあっさりと諦めることができたのですから。
私はまず、祖父の形見を、ぽいっと傍らに投げ捨てます。
『――? なに?』
狂気じみた顔面を、不思議そうに歪める両馬さん。
私は、小さく深呼吸して、こう宣言しました。
「牙がないなら。――ないなりの戦い方をします」




