その20 牙なき人
「すごい……うまくいってる」
場所は、雅ヶ丘学園の屋上。
そこにいるほぼ全ての避難民が、そこから“彼女”の姿を見守っている。
日比谷康介も、その一人だった。
「本当に、――すごい」
力や技術が、ではない。
勇気が。
あれだけの“ゾンビ”に相対してなお、平然としていられる“彼女”の勇気が。
もちろん、凄いのはセンパイだけではない。今野林太郎も、君野明日香もそうだ。
林太郎のことは、世界がこうなる前から知っていた。同じクラスだったのだ。
体育の授業中、やたらと奇声をあげるタイプの男で、ちょっとというか、かなり周りから浮いているヤツだった。クラスの不良ですら絡みたがらないくらいにイカレた野郎だった。
それが、今ではこんなにも頼もしく思える。
家族が危機だとわかった時。
慌てた。取り乱した。助けに行かなければ。
そう思った。
「見捨てた方がいい」と遠回しに言う佐々木先生を憎んだ。
だが、内心ではその言葉にどうしようもなく惹かれている自分がいることにも気づいていた。
行きたくない。死にたくない。自分は、自分だけは生きていたい。
その結果、家族を見捨てることになったとしても。
自分は臆病者なんだと思った。
だが、きっと、それが普通なんだとも思う。
この一週間、センパイの訓練に付き合ってきたが。
右足首を捻挫しているという点を差し引いても、彼らについていくことは難しかった。
今でも、“ゾンビ”の肉と皮を切り裂く瞬間のことを考えるだけで、両手に嫌な感触が蘇る。
自分は本質的に“牙なき人”なのだ。
あんな風に地獄へ飛び込める人間の方が異常で。
そしてその異常さに、心の底から救われている自分がいる。
震える手を、梨花がぎゅっと握りしめた。
「ありがとう。残ってくれて」
小柄な少女が、慈母のような口調で囁く。
みんなの目がなければ、彼女の胸で泣きたい気分になったが。
康介は小さくうなずいただけで、“彼女”たちの姿に意識を戻す。
「うまくいったようだ……。全員、……よし! トラックから降りたぞ! あとはこっちまで走るだけだ! コースケっ! 行ってやれ」
幼なじみの竹中勇雄が叫ぶ。
康介は、一瞬だけ躊躇してから、駆け足で階下へ向かった。
正門にはすでに、佐々木先生たちが待機している。
「先生! もうすぐ来ます!」
「おうっ」
先生は万事予定通りだと言わんばかりの余裕でもって、正門に手をかけた。
正門ごしに、仲間たちの顔が見える。それに続いて、家族の顔も。
後ろに数匹ほど“ゾンビ”がついてきていたが、問題なく振りきれる距離だった。
「――父さん!」
気づけば、声が震えている。
「康介! お前か!」
この一週間、ずっと安否を気遣っていた人たち。
気づけば、目から涙がこぼれ落ちていた。
正門が開く。
林太郎、明日香、父、母、妹。
みんな無事だ。傷一つ負っている者はいない。
その時ばかりは、天上にいるかもしれない超常の存在に感謝の祈りを捧げる。
奇跡だと思った。家族が全員揃っている者は多くないのだ。
みんなを受け入れた後、正門はしっかりと閉じられる。
同時に、康介はかつてないほど強く父に抱きしめられた。
「怪我はないか? 大丈夫か?」
――おいおい。そりゃこっちの台詞だぜ。
内心でツッコミを入れつつ。
「すみません、――感動の瞬間に申し訳ありませんが、一つ確認してよろしいかな?」
佐々木先生が口を挟む。
「あんたらと一緒にもう一人、自衛隊員と見られる人がいましたが。彼は?」
再会の歓びを一旦打ち切って、康介の父が振り返る。
「小早川さんは……あの、ジャージの娘を助けると言って、別れました」
ジャージの娘というのは恐らく、センパイのことだろう。
両親と同行していた自衛隊員は、センパイの救出に向かったらしい。
康介は、素早く涙を拭う。
そうだ。
本当の意味で再会を喜ぶのは、彼女が帰ってきてからでなくては。