その114 最悪の日
人生最悪の日だった。
これまでずっと、最初に“ゾンビ”に襲われた日が最低最悪で、その下はないと信じて疑わなかったが。
世の中にはまだまだ、下があるらしい。
疲れ果て、眠りに落ちると同時に、またすぐ目を覚ます。……それの繰り返しだった。
どこか遠くで、俺の処遇に関する何かが決定した気がして、恐怖に慄く。
妄想だとわかっているのに。
まず、どこから切り落とそうか、とか。
そんな声が聞こえた気がして。
麻酔は、……されないだろうな、当然。
そうなると、どれほど素早く意識を喪失させるかが鍵となる。
痛みに苦しみたくない。どうせなら、さっと済ませて欲しい……。
そういう後ろ向きな気持ちに支配されたかと思いきや、次の瞬間には、奇跡が起こることを願っている。
(興一が助けにきてくれれば……)
だが、そうした希望の火も、消え去る直前の灯火にすぎない。
中学の時。
クラスメイトの村上という男に、理由もなくボコられたあの日。
興一は、何もできずに、ただ立ち竦んでいたじゃないか。
気弱なあいつのことだ。
俺がくたばるその瞬間も、ああして視線を逸らし続けるのかもしれない。
だいたい、助けに来るつもりなら、とっくの昔にここへ来ているはずだ。
(助けは……ない、か)
あるいは、何かの理由で来られないだけかもしれない。
ここは警備が厳重だから、とか。
ありえなくはなかった。ただでさえ奴は、俺の友達だってことが知れてる。と、なると、余計な真似ができないように、行動にも制限がかかるだろう。
(と、なると、……やっぱり、やつが来てくれる可能性は薄い……?)
また、暗い絶望が俺の心を支配しかけた、次の瞬間。
がちゃりと、電気管理室の扉が開いた。
期待はしていなかったが、――現れたのはやはり、ホームレス風の爺さんを連れて行った二人組である。
「どうする? いったん黙らせとくか?」
「やめとけ。……見ろ、”まな板の鯉”ってやつだ」
男の一人がせせら笑う。
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
人は、どのような絶望であれ、いずれは受け入れられるようにできているという。
そういや、余命を宣告された爺ちゃんもそうだったな。
命尽き果てる、ほんの数日前。
あの人は、穏やかな表情で、こう告げたものだ。
――これで、嫌なものを見ないで済むし、辛い思いもせずに済む。
と。
天国は、……実在するだろうか?
わからない。証明もしようもない。
それでも、死の先を想像することだけが、唯一の救いに思えた。
力なく、俺は男たちに引きづられていく。
「死にたくない……頼む、殺さないでくれ……」
情けがかかる可能性に賭けて、呟いてみた。
男たちは、完全に心を殺した目をしていて、何も応えない。
それはあの日、俺へのリンチを見過ごした、興一の視線に似ていた。
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「こいつ、小便漏らしてやがるぞ。……どうする?」
「裸にひん剥いて、洗うしかないだろうな」
「しかし、水がもったいねえぞ」
「アルコール消毒液があったはずだ。それで我慢しよう」
そこは、小さな食堂、といった感じの場所だった。
遠く、何かを煮ている音がする。恐らく調理場からだろう。
俺が寝かされている大きめのテーブルからは、はっきりと血の匂いがした。
ここで”解体”されて。その後、”調理”される訳か。
「じゃ、消毒液だけ取ってくるわ。ここ、頼む」
「おう」
見ると、俺より先に連れて行かれた爺さんの姿もある。
爺さんはあの後、――右足に続いて、右腕も取られたらしい。
生きているかどうかはわからない。ぴくりとも動いていなかった。
「まずこの爺さんをしめて、その後お前だからな」
男は、どこか優しさすら感じられる穏やかな口調で、そう告げる。
「安心しろ。痛くしない方法は十分に学んだ」
次に言う言葉は、ずっと前に決めていた。
「頼む。楽に殺してくれ」
それだけだ。
それ以外のことは考えられなかった。
最期まで諦めない! ……みたいな。
その手の少年漫画的な強い気持ちは、生まれてこなかった。
そうした方が、気持ちが楽で。
絶望して死ぬよりかは、心安らかに逝きたい。
……あるいは、そういう心の防衛反応なのかも知れない。
血がにじむまで引きちぎろうともがいた束縛が、今すぐ解けるというなら話は別だが。
「悪いが、それはできん」
男の返答は簡潔だった。
「作業の工程を、少し繰り上げるだけの話だろ……?」
「命令でな」
ただそれだけで、こっちはなんだってするつもりでいるのに。
どうやらこの男、自分の仕事に関しては妥協を許さないタイプらしい。
くそったれ。
……と。
そこで、
「ど、どどど、どうも。お疲れ様、ですな」
聞き慣れた男の声が聞こえた。
「なんだお前? なにしにきた?」
「一応、木田さんには許可をもらってますからな。文句は彼に言っていただきたく」
「おいおいおい、ッざけるなよ」
「彼は吾輩の友人ですぞ。お別れぐらいさせてもらっても良いのでは」
「なんだぁ、それ? ……まさかお前、武器なんか持ち込んじゃいないだろうな?」
「まさか。吾輩がそんな、大それた真似など」
「一応、ボディチェックさせてもらう」
「お好きにどうぞ」
十秒ほどの間。
「ちっ……、三分だ。それ以上いると、つまみ出す」
「助かりますな」
視線を向けて確かめるまでもなく、興一だった。
深く、ため息を吐く。
「や、やあ、犬咬どの」
「……どうしてこうなった」
「たぶん、ご想像の通りですぞ。ここにはもう、食べ物がほとんど残っていないのです」
「それでも!」
からからの喉で、俺は怒鳴った。
「地上には、まだいくらでも物資が残ってるはずだ!」
「言ったとおり、駅周辺には、”ゾンビ”が溢れていて……」
「協力して立ち向かえば、”ゾンビ”くらいなんとかなる! こんなことに手を出さなくたって……」
「言いたいことはわかりますぞ。……ただそれは、仲間の何人かに”死ね”と命ずるのと同義。世の中には、それができない指導者というのもいるのです」
「くそくらえ、だ」
「同感ですぞ。仲間を犠牲に出来ないからといって、通りすがりの誰かを犠牲にする、などと……」
そこで、
「おい! 高谷おまえ、木田さんの悪口は許されんぞ」
「知ったことじゃない!」
興一は叫んだ。かちかちと歯を鳴らしながら。
「ここの人たちは、みんなみんな、おかしくなってますぞ!」
その言葉を言うために、この友人が、どれほどの勇気を振り絞る必要があったか。
「お前……!」
男は、怒りも露わに壁を殴った。
「その言葉、木田さんに知れたらどうなるか……!」
「知ったこっちゃないですぞ! 間違いは間違いですぞぉ!」
興一はもはや、泣きながら叫んでいた。
「興一。……もういい。もう、十分だ」
俺は、嘆息混じりに言う。
「それ、被せてくれ」
「う、うむ!」
そこで興一は、倒れている俺の頭に、ゆっくりとヘルメットを被せた。
”勇者”の力が宿るヘルメットを。
「犬咬どの。……すぐ助けに迎えず、本当に申し訳なかった」
いや。
いいんだ。
お前はきっと、ベストを尽くしてくれたんだろう。
それがわかっただけで。
瞬間、俺の全身を、光が包む。
銀色の甲冑。
真紅のマント。
――じゃんじゃじゃぁーん! ふっかぁーつ!
もう、一生聞くことのないとさえ思っていた、光音の声が聞こえる。
両腕に少し力を込めると、ぶつりと縄が引きちぎれた。
「な、な、な……これは……! おい、高谷ァ! なにをした!」
驚愕に歪んだ表情が、俺と興一を交互に見る。
むくりと半身を起こすと、先程までとは、世界が違って見えた気がした。
気力と希望が全身にみなぎってくる。
死んでもいい、だって?
何をバカな。冗談じゃない。
俺は生きるぞ。
百歳まで生きて、孫や親戚一同に囲まれ、幸せに死ぬんだ。
それを邪魔するような奴がいるのなら、――容赦はしない。




