再会
海辺の町に夏の夕日がほんのりと赤みを残して消えていく頃。大学院を出て、助手になったばかりの順子は家路への道を足早に駆けていった。高台の住宅地から駅へ向かう階段を降りる。目指す駅は、海岸線にそってできた町に埋もれるようにある。山からの風が涼しさを運ぶこの時間。いつもは空いているこの駅も、人が賑わうのだった。町はまだ明るく、階段を降りきると、海辺特有の魚を干す匂いがどこからともなくしてくる。後、五分で電車が出るわ。間に合うかしら?順子はそのまま、駅へ走ろうと、T字路を脇目もふらず、横に曲がった。突然黒い自転車が目前に飛び出してきた。
「痛―い。」
順子はぶつかって尻もちをついた。自転車はすぐに止まり乗っていた背の高い男が順子に手を差し伸べた。
「申し訳ありません、お嬢さん。大丈夫ですか?」
順子は文句を言ってやろうと立ち上がったが、男のあまりに男前だったので何も言えずに顔を赤くした。ふと時計を見ると発車の時間に遅れそうだ。
「電車に間に合わない!」
「えっ」
「後、三分で出ちゃうわ」
「後ろに乗ってください、送っていきます。」
自分の汗の臭いを気にしながら順子は自転車の後部座席に座った。
「しっかり捕まっていてくださいね。」
男は怖い程のスピードで駅に向かった。順子は背中に捕まりながら、初めてあったこの男に運命的なものを感じていた。
「名前、なんて言うの?」
心の声が、ふっと口をついて出た。
「私ですか?溝口達也っていいます。皆、グチって呼んでます。駅、着きましたよ。」
ちょうどよく駅のアナウンスがなった。もうすぐ電車が来る。
「うそ、間に合っちゃったわ。ありがとう」
順子は自転車から降りてホームへ駆けていった。後ろからグチが叫ぶ。
「あなたの名前は?」
「順子。安藤順子よ。」
「順子!また会いましょう。」
グチは、自転車に乗りながら、いつまでも手を振っていた。
「今回のターゲットは安藤順子。28歳。大学助手だ。」
警察官になって3年目。昨年結婚したばかりの榊信二は捜査会議の卓上で配られた順子の写真を見てドキンと胸がなった。
「皆も知っていると思う。4年前から追っている乳児誘拐事件。重要参考人になりながらも証拠不十分で逮捕にいたらないあの男のターゲットが今回この女だ。」
上司の三塚はぐるりと捜査担当の3人を見回した。
「今回は潜入捜査をしようと思っている。安藤順子になんらかの方法で近づいて、この男」
三塚はホワイトボードにある男の顔写真をドンと貼った。
「溝口達也のことを調るのだ。ことは秘密裏に運びたいが、場合によっては身分を明かして捜査協力を頼むのもよかろう。だが、溝口に知られた場合、彼女の身も危険にさらされることを忘れずに・・・な。」
それから三塚は周りを見回した。
「では、この潜入捜査を・・・」
「僕にやらせてください。」
榊信二は手を挙げた。三塚は頷いた。
「よかろう。お前ならまだ若いから大学院生で通りそうだ。他校から教授に学びに来た院生とかにして、研究室に潜り込み安藤順子に近づけ。他の物はサポートに回れ、進展があれば、報告するように。以上だ。」
三塚は言うことだけ言うと、次の仕事に向かった。
安藤順子か・・・信二は職務が終わったあとの帰りの電車でも、隠すようにマジマジと写真の女を見ていた。会議の後からずっと彼女の写真を手放せない。
彼女は初恋の女性。10年以上会っていないが、なるほど、やっぱり美人だな。信二は、電車の窓の外の流れる景色を見て、写真をそっと鞄にしまった。ドキン、ドキン。胸の高鳴りが押さえきれない。まずいな。ちゃんと仕事を遂行できるだろうか。
「では、捜査計画を立てよう。」
会議室に集まった捜査チーム3人は顔をつきあわせた。場をしきるのは、一番の年長者森本祐太朗35才。既婚。2人の子持ち。顔はすっかりおじさんだが、最後のあがきか、服装が最近若作りしている。なんでも話せる先輩だ。
「潜入するのは、榊。でいいんだな。」
「はい。」
信二は頷いた。
「で、そのサポート役に鈴木。」
「はい。」
「今回、ちょこちょこ横で張り付いてもらうと思う。俺が行くより目立たないだろう。」
「そうね。おじさんがいると、逆に目立つ場所ってあるものね。大学構内とか。」
鈴木千鶴はクスッと笑った。鈴木千鶴32才。独身。そのせいか、嫁よりあか抜けて若く見える。
「俺は、お前らのサポートに回る。榊が大学に入るのは明後日。名前は、松岡徹にしようかと思うのだが・・」
「待ってください。」
信二は止めた。
「俺、実はこの子知ってるんです。」
「知っているのか。」
「ええ、昔、家が近所で、15才・・くらいまで友達だったんです。家の事情で俺が引っ越すまでは・・・まあ、仲良くしていました。」
「なんだ。元彼女とかじゃないだろうな。」
森本はニヤニヤしながら聞いた。
「いいえ。あの・・全然。だから、名前は本名じゃないとまずいかも・・。」
信二は赤くなってモゴモゴと話した。
「あら、じゃあ、私が潜入した方がよかったんじゃない?」
鈴木が肩までかかる髪をいじりながら言った。
「まあ、まて、逆に近づき安いかもしれん。だが、分かっていると思うが、榊。そういう関係にはなるなよ。敵に気付かれて逃げられたらおしまいだからな。」
「はい。」
信二は神妙な顔で頷いた。
大学の構内。十月早朝。まだ残暑の残る季節だが、海の近くの南海大では、海辺の冷たい風が頬を優しく冷やした。信二は今日、順子の所属する昆虫行動学研究室で紹介される予定だった。
大学の始まる前の朝7時。信二は緊張しながら昆虫行動学研究室の扉を叩いた。
「どうぞ。」
部屋に入ると、教授の今田が椅子に腰掛けたまま、くるりとこちらを向いた。優しそうなおじいさん先生だ。若い頃は某有名大学で教授をしていたらしい。今は、この大学でのんびりと研究しながら余生を送ってるのだろう。
「話しは聞いているよ。君は僕が以前いた大学からきた院生ってことにしておくから。えーと、君のしていた研究テーマは、昆虫・・・そうだね。アリの遺伝子によるタンパク質の違いとしておこうか。」
「えと、アリの遺伝子によるタンパク質の違い・・・ですか?」
「うむ。行動学と生理学は生物を解明する方向が違うんでね。行動学を目指しているものは生理学はそれほど詳しくない。まあ、顕微鏡でも適当にいじっていれば、研究しているようにみえるだろう。」
今田教授は椅子から立ち上がり、本を一冊信二に手渡した。
「あと、これ。僕が書いた本。今日中に読んでおいて。この研究室にいるうちは、必要な知識だから。」
信二は狼狽した。片手にずっしりと来るその本は、専門用語がびっしりと書かれ、ところどころに英語の文字も使われている。
「あのー。教授が要約して僕に教えてくれるとありがたいのですが・・・。」
生来の図々しさで頼むと、教授はにっこりと笑った。
「まあ、単純にいえば、昆虫の生殖行動の行動の差なんだけどね。その際に障害物を置いて・・・・」
信二は教授に要約を頼んだのを後悔した。教授はその後、助手と4年生が研究室に入ってくる間の1時間、永遠と話し続けたからだ。
「おはようございます。」
挨拶と同時に入ってきたのは、安藤順子だった。彼女は信二の顔を見ると、一瞬とまって、「ああ!」と、声を上げた。
「信二!?信二じゃない。どうしてここに?」
「えーっと、安藤さん。」
今田教授は順子の声を遮った。
「彼、榊信二君は、K大から勉強にきた院生でね。暫くこっちで面倒みることになった。よろしく。ちょっと構内を案内してもらえるかい?」
教授は信二に目配せした。信二はペコリと軽くお辞儀した。
「はい。じゃ、こっちに。」
順子はニコニコ顔で信二を案内した。
「信二。K大に入ってたんだね。すごいな。あっ待って、ちょっとヤゴに餌をあげてくるから。」
「付き合うよ。」
信二は順子に並んで歩いた。
「久しぶりで元気そうだね。」
信二は少しドキマギしながら言った。
「おかげさまでね。懐かしいな。」
とりとめの無い話しをしながら校庭の裏に行くと古いプレハブがあり、入ると暗い部屋が広がっていた。奥の冷蔵庫内のヤゴの餌を出すと、順子は実験池に向かった。
「ちょっと残酷なんだけど、生きている餌の方がよく食べるのよ。」
順子は蠢く虫を持って歩く。信二は虫は苦手では無いが、重なって蠢く姿は目を背けたくなるものがあった。
リリリ。若い女の子にしてはシンプルな携帯のメール音がなった。順子は虫を池の囲いに置くと携帯を覗き嬉しそうにした。
「なんだよ。彼氏?」
信二がのぞき込むと、順子は急いで携帯を隠した。
「信二には教えなーい。」
携帯を終って先を歩く順子の姿を見て信二の心は曇った。
溝口達也。
携帯には確かにそう書いてあった。
その下にはそう・・・夕食、一緒に食べないか?・・・とも。
溝口達也。信二が警察官になった年からずっと追っている男だ。この事件は実に不可解だった。4年前、と2年前、それに1年前。三ヶ月になるかならないかくらいの乳児が何者かに誘拐された。共通点は母親が全て高学歴のシングルマザー。そして、捜査に協力しないこと。そして、その一年前くらいには溝口達也と付き合っていたことだ。当然のことながら溝口は何度も警察に呼ばれた。だが、証拠が無かった。犯行当時、溝口には全てアリバイがあったし、それ以前に母親の供述に不可解なことが多すぎた。結局、捜査はうやむやになった。
夕方、信二は順子の実験明けの時間を狙って、校門で待ち伏せした。彼女を尾行しようかとも思ったが、彼女の性格上、直接どこへ行くか聞くのが早いかと思ったのだ。
彼女は馬鹿正直なところがある。隙が多くて尋問しやすい。おまけに、秘密を持てない性格を彼女自身許している。少なくとも、11年前はそうだった。今もそうとは限らないが、まあ、経歴上、挫折がないようだし、おそらく、変わってないだろう