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セロ弾きゴーシュのセレナーデ

作者: 廣木由加里

  セロ弾きゴーシュのセレナーデ

 

  セレナーデが、あの哀愁をおびた、クライマックスへ昇りつめようとしたとき、楽長の大声が突然の停止をもたらしました。

「ゴーシュ君! 何度いったらわかるんだ。これは『インドの虎がり』とはちがう、そんなにやかましくセロでわめきたてたら、曲がだいなしじゃないか」

 ゴーシュは、はっとしました。じつはかれも自分のセロがちぐはぐしていたことはわかっていたのです。

「……すいません、も、もう一度、お願いします」

 楽長は、ゴーシュを少しだけ見て、はうっと息をつくと、

「次はもうちょっと、レガートにたのむよ、ゴーシュくん、レガートかつ情感をこめて、やわらかに、流れるように、だ」

 そういうと、タクトを譜面台に二回打ちつけました。ぱんぱん。

 楽団のほかの奏者は、はっと気を取り直して、自分たちの楽器を握りました。どの楽器もよく手入れされてぴかぴかと光りました。

ゴーシュも汗だらけの手で弓を握りました。

 セレナーデは、舟が湖面を滑るように始まりました。バイオリンの音色がささやくように流れ、オーボエが彩りをそえていきます。

 いよいよセロの出番です。

 ゴーシュは必死でかきならしました。こんどこそ楽長に「よかった」といってもらいたかったのです。汗はしずくになって落ち、ゴーシュの足もとにたまりました。

セレナーデは途中でとまらずに、なんとか終わりました。

 楽長は、懐中時計をとりだすと、

「や、すまん。十二分の延長になってしまった。みんな、今日限りで練習は休みとしよう、来週は冬将軍がやってくるらしい」

と、腕をふりながら終わりだと合図しました。

 楽団のだれもが、冬将軍とことばを聞いただけで、ぶるっと震えました。

「冬休みの間、各自じゅうぶんに練習をしてくるように。再開は四月にしよう。五月には演奏会だ。それまでに最高の演奏ができるように、みんな、頼むよ、ようく練習してくれ」

 団員たちは豆がはじかれたように、しゃべりだしました。

 ゴーシュを除いてです。ゴーシュはぐずぐずと楽譜をめくっていました。

「ゴーシュくん」

 楽長の声でゴーシュははっと、椅子から立ち上がりました。

「悪いが、君は冬のあいだ猛練習しかないな。ああ、いいんだ、かけてくれたまえ。君は、その『インドの虎がり』のような、小気味よい速い曲は得意なんだが、セレナーデみたいなのはまだまだ、だな。まあ、気落ちせずに、春までがんばろうじゃないか」

「ええ、わかっています」

 ゴーシュはうなだれました。

 以前も団員とあわせることができずに、やけっぱちになって、セロをやめてしまおうか、と考えていたこともあったのです。でも、ねずみの親子や森の動物たちのおかげで、セロの練習がはかどり、すっかり上手になって、楽団を続けることができたのです。

 あのときに独奏した『インドの虎がり』が好評だったので、手当てがでました。ゴーシュはそれで、弦を張り替えることができたのです。セロはずいぶんと扱いやすくなりました。

「じゃあ、ひとつたのむよ、春にまた会おう」

 ゴーシュはしばらく考えていたが、突然思いついたように

「が、楽長……」

 とよびましたが、楽長はすでに歩き去っていました。

「ゴーシュ君、楽長になにを聞こうとしたのかね」

 そう声をかけてきたのは、バイオリン弾きのドロワでした。

「ああ、いや」

「なんだ、わがはいには教えてくれないのか? よそよそしいな、変わらずだね。君は」

「……」

「でもちゃんとわかるよ、君は楽長に教えてほしかったんだろう?

ゴーシュ君」

 ゴーシュが黙っているので、ドロワはやきもきしました。

「君はな、そんなだから、セレナーデが弾けないのさ。黙ってばかりじゃないか。人間は、話さなければ駄目なんだよ」

「話す?」

「そうさ、ゴーシュ君はいつもひとりぼっちだろう? もっとみんなと仲良くしなくちゃ」

 たしかにゴーシュは一人が多かったのです。ゴーシュはドロワの顔を恐る恐る見ました。

「話せば、セレナーデが弾けるかい?」

「そうさ、ゴーシュ君、楽長もきっと、そういったはずだ。君、セレナーデがどうしたらうまくなるか、楽長に聞こうと思ったのだろう?」

 たしかにそうでした。でも答えはドロワが教えてくれました。

「そうだ、それにもっと良い方法をわがはいが授けて進ぜよう」

「もっと良い……なんだい?」

「お嫁さんをもらうことだよ!」

 ドロワはそういうと、あははは、と笑いながら帰っていきました。

 ゴーシュはからかわれたのだと思いました。幼いころから、他人と交わるのが苦手なゴーシュです。お嫁さん、という言葉は知っていましたが、よくわかりません。そのことよりも『話すこと』や『仲良くすること』はどうすればいいのかな、とそればかり考えていました。


 楽長が言ったように冬将軍はいっきに、たくさんの雪をお土産にやってきました。ゴーシュの家は森に近いところにある水車小屋です。冬のあいだ水車は固定され、少ない水には氷が張っていました。さいわいに秋にたっぷりと薪を作っていたので、小屋の中は暖かく、しかしゴーシュはなるべく倹約して、昼間はストーブを休ませていました。そしてかじかんだ手でセロの練習ばかりしていました。

 ゴーシュは、食事のしたくをしようとすると、おかゆにする麦が残り少ないことに気がつきました。

「しまった。これじゃあ、とても春までもたないぞ。村まで買い物に行こう」

 幸いその日雪はやんで、太陽が薄い日差しのベールをつくっていました。ゴーシュはすりきれた上着を着て、家を出ました。村には店屋が何軒かあります。ついでに石鹸と、乾燥した杏を買おう、とゴーシュは思いました。冬は野菜が少なく、ぼやぼやすると歯ぐきから血がでてしまうからです。

 ゴーシュが乾物屋から出ると、いい香りがしました。

「おや、これは、なんと香ばしいにおいだろう?」

 よく見ると、パン屋でした。こんなお店あったかしら、秋まではなかったのになあ、とゴーシュは思います。

 ひかれるように扉をあけると、ちりんちりんと鈴の音がしました。

「いらっしゃいませ」

 その鈴に似ている声がしました。

「パンは焼き立てですよ」

 髪に真っ白な三角巾をきっちりとかぶり、白いエプロンをつけた女の子でした。

 ゴーシュはびっくりしました。なんにもいえません。

「お客さんは初めてですね。うちのパンはみんなおいしいですよ」

 そこで、ゴーシュは棚に近寄り、よく見ました。丸くて大きいパン。細長いパン、少し小ぶりの楕円形のパン。三種類ありました。

 ゴーシュは棚から小ぶりのパンをひとつとりました。

「ありがとうございます。八円です」

 女の子はパンを紙袋にいれてくれます。ゴーシュが十円をだすと、おつりとパンを手渡してくれました。

「晴れた日だけ、お店を開いてます。またきてくださいね」

 手に触れた女の子の柔らかくて、暖かい指に、ゴーシュはびっくりしました。

「……」

 ゴーシュはあわててパン屋を出ました。そして我が家まで、小走りでいきました。パン屋のあたたかさと、こうばしい香りと、女の子のやさしい声とふくよかな指をわすれたくなかったのです。

 家につくと、パンを早速食べました。

 パンはきつね色にこんがりと輝き、ゴーシュが一口かじると、まるで原っぱにいるみたいに、風が吹きました。

 ゴーシュは夢中になって口に運びました。外側はこうばしく、中の白い部分のなんと柔らかいことでしょう! ゴーシュはまるで、雲をたべているみたいだ、と思いました。

 そして、すっかり食べてしまいました。

 ゴーシュはふと、セロを弾いてみようと思いました。心のなかにふわふわの気持ちがいっぱいあって、ゴーシュはうきうきとセレナーデの楽譜を出しました。

 不思議なことに、いつもよりも弓がしんなりとします。ゴーシュは弾き始めると、なめらかな音がでているのに気がつきました。

うたうように、うたうように、セレナーデの山場まできたとき、突然、音が濁ってしまいました。だれかが鳴いたのです。ジェイ。

 ジェイ、ジェイ。

 窓にカケスがきていました。おどけたようにこういいます。

「ゴーシュ、パンを食べたら、元気百倍だな」

「うるさい! カケス、じゃまをするな」

「おれは、そのセロに合奏しただけだ、ジェイ」

「合奏だって? おまえのジェイジェイは一本調子で、とうていセレナーデにあわせるなんて無理だろうさ」

「あいかわらず、短気だなあ。セレナーデは紳士にならなきゃ、ひけないぞ」

「やかましい! 出て行け」

「わかったよ、退散するよ。そのかわり、その落ちているパンくずをもらえるかい?」

「だめだ、行け!」

 ゴーシュが椅子から立ちあがったので、カケスは灰色の羽を一枚落とすと、ばたばたと飛んでいきました。

 ゴーシュは窓を開けたおぼえはないのになあ、と不思議に思いしめようとしましたが、ふとおもいついて、落ちているパンくずをあつめて、外の雪の上にまいておきました。

 でも、それからあとはどんなに弾いても、セレナーデは音が割れて、ちっとも美しくなりませんでした。


 ゴーシュは再びパンを買いに行きました。次は細長いパンを買いました。値段は十二円でした。

 今度はパンを三つにわけて、一日一切れ食べました。食べ終わったあとは、セロの練習です。パンの魔法でしょうか? ゴーシュはすこしずつセレナーデが上手になってきている気がしました。

 ところがパンがなくなると、やっぱりだめです。元に戻ってしまいます。のこぎりを引いたような音がするのです。

 ゴーシュは頭を抱えて悩みました。

「どうしよう? また、パンを買いにいこうか? でももうお金がないよなぁ」

 たそがれまでぼんやりしていました。なんだか何もやる気がでなかったのです。すると、かたっと音がしました。薪ストーブのそばにいつのまにかリスがいました。

「ゴーシュさん、ストーブにあたらせてください」

「うるさい。薪がもったいないから、まだ焚かないよ」

「そんなけちくさいことをいわずに、ぼくはこごえてしまいそうです」

「なんだと、だいたい、おまえは冬眠している時期だろう、なんで今頃でてきているんだ」

「不眠症なんですよ」

「……」

「ゴーシュさんのセロをきいたら、眠れると思うんです」

「まぬけめ。おれのセロがききたいだと?」

「そうです、子守唄をおねがいします」

「……」

 ゴーシュはセロをまたにはさみ、子守唄を弾きました。


 ねむれ、ねむれ……いとし児よ


 リスはじっと眼をとじていましたが、曲が終わるか終わらないうちに、

「ぜんぜんだめです。眠くなりません。あなたのセロはまだまだですね」

と、ため息をついていいました。

「なんだと? この生意気なリスめ」

 ゴーシュはぱっとリスをつかみました。

「ゴーシュさん、パンを食べたときは、あんなにいい音色をだすのに」

 リスは小豆のような瞳で、ゴーシュをじっと見ました。

「……や、しかしな、パンを買うお金がないんだよ」

「お金の問題ですか。それは厄介だな」

「そうだ、おまえの尻尾を売れば、金になるだろうな」

 キー

 リスはもんどりうってゴーシュの手から逃れ、一目散に窓から飛び出していきました。

 ゴーシュはがっくりとしてしまいました。楽団のわずかなお給金では、最低限度の食べ物しか買えず、パンのようなぜいたく品は、何度も口にするのは無理だとわかっていました。

 楽団の仕事が休みのあいだ、水車で粉をひいていますが、今は冬で水車は動きません。

 どうしたらいいのかしら。ゴーシュは悲しい気持ちでセレナーデを弾きました。その日のセレナーデはさびしい調べとなっていました。


 翌日は雪のあいだの晴れ間でした。ゴーシュは 村にいってみることにしました。パンは買えなくても、あの香ばしいにおいで、やさしい気持ちになるかと考えたのです。

 ところがパン屋の煙突からは一筋の煙も昇っていません。お店はあいているのですが、暗くひっそりとしています。

 ゴーシュが近寄ってみると、一枚の張り紙がありました。


  急募、パン職人求む。力の強いかた。


 と書いてあります。ゴーシュは、なんだか、いてもたってもいられず、ちりんちりん、と扉をあけました。

「いらっしゃいませ、ああ、お客さん」

 いつものかわいい娘さん、今日は少し元気がありません。

「……」

 店内をみるとパンがわずかに棚にならんでいるだけで、それも冷たくなっていました。

「お客さん、すいません、父が具合が悪くて、パンをこねることができなくなったのです」

 ゴーシュは納得しました。それで張り紙がしてあったのでしょう。

「その棚の、残っているパンしかありません」

 娘さんの顔も冷たく、ぱさぱさにみえました。

 ゴーシュは店の前から、はがしてきた紙を出しました。

「これ、……おれは力が強いから」

 ゴーシュは思わず、そういってしまったのです。

 娘はぱっと赤くほおを染めたかと思うと、中にかけていきました。

 パン屋の主人がでてきました。

「君が、パン職人になってくれるのかね」

 主人は背の低い人でした。白い帽子をかぶって白い上張りを着ています。粉で真っ白な手で手招きしました。

「パン屋は早起きだが、大丈夫かね? 寒いが通えるのかい? しかし君は太い腕の持ち主だな。よろしい、ためしにこの粉をこねてみてくれ」

 ゴーシュはわかったというようにうなずき、粉をこねはじめました。

「そうだ。そうだ、いい調子だぞ。粉ははじめは強く、しかし途中からはやさしくな、そうだ、お前さんは筋がいいな」

 実は、ゴーシュはパン屋の手伝いをしているうちに、きっと、セレナーデがひけるようになると考えたのです。

 なにしろパンには魔法があるのだ、そう思ったのです。

 次の日から、吹雪の日を除いてゴーシュはパン屋に通いました。

パン屋の主人は厳しい人でした。

「パンの命は粉をこねることだ。パンは気難しいから、粉をこねるときに、じっくりじっくりパン種の機嫌をみながらあつかうんだ。ときには強く、ときにはやさしく、だ」

「ゴーシュは強くこねるのは得意だが、やさしいのは苦手だな」

「パンが膨らんだときのあの、気分といったらないぞ、まるでいくつものお日様が昇ってきているみたいだ」

「そうして、焼きあがったパンをかむと、まるでお母さんのふところにいるみたいなんだよ」

 そう話しながら、パンのこね方をおしえてくれました。

 娘さんは釜にいれる係りです。鉄板に、定規でひいたような間隔でパンを並べ、釜に入れます。

「娘には、そのタイミングがわかるみたいだよ。入れるときも出すときも、ほんの一瞬をのがさないんだ」

 ゴーシュはパン屋が大好きになりました。パンをこねるのは大変でした。家にもどるとくたくたになりました。

 セロを包みからとりだし、奏でようとしても居眠りしてしまうこともたびたびでした。それでもパン屋のご主人や娘さんと一緒にいると、幸せな気分を経験できたのです。


 ゴーシュはずっとひとりでした。ゴーシュをそだててくれたのはおじいさんでしたが、十年以上前に死んでいました。水車小屋でのひとり住まいに慣れていたのです。

 ゴーシュにとってそわそわする日が続きました。

 ところがある日、パン屋の主人から思いがけない申し出がありました。

「ゴーシュ、わしは腕の使いすぎで筋がのびてしまい、粉をこねるのが無理だったが、養生したおかげで、よくなってきたよ」

「そ、それは、よかった」

「それで、こういっては何だが、これからもこのパン屋で働いてくれないか?」

「……」

「君の人柄は十分にわかったし、将来を考えると、それがいいと思うんだよ」

 と主人は娘さんのほうをみました。娘さんは頬を赤くしています。

 ゴーシュはあわてました。そもそも、パンの魔法がほしくて、てつだったのはセレナーデを上手に弾けるようになりたかったためです。

 冬のあいだ楽団の練習は休みですが、春になればまた興業に行くわけです。それとも、金星音楽団をきっぱりやめてしまったほうがいいのでしょうか?

 いつも下手くそのゴーシュは注意されてばかりでしたから。

「そ、それは……」

 返事ができないでいるゴーシュを見て、主人は

「急にこんなことを言ってわるかったな。まあ、考えておいてくれたまえ」

と、いいましたが、娘さんは真っ青な顔をしていました。


 その日ゴーシュは家にもどると、いつものように水をがぶがぶと飲みました。椅子にぼんやり座っています。

 そこへトントンとノックの音がしました。

 扉を開けると、狐が立っていました。

「ゴーシュさんこんばんは」

「なんか用か?」

「ゴーシュさん、めまいの病気をなおしてくれませんか」

「狐がめまいになるのかね。驚きだ」

「そうなんです。去年の秋に猟師にねらわれて、やっとの思いで逃げたら、このところ、めまいがひどいんですよ。雪のせいかとおもうんですけどね」

「まあ、雪まどいだろうな」

「おやさしいゴーシュさんに直してもらえないかと考えまして」

 ゴーシュはかっとなりました。

「おれは医者じゃない。狐のめまいをどうしたら治せるんだ?」

「そのセロですよ」

「セロ?」

「それでセレナーデをひいてもらえないかと」

「なんだと、きさま、馬鹿にしているのか?」

「馬鹿になんて、だってカケスだって、リスだって、治したじゃないですか。ひどいですよ、公平であるべきだ」

「きさまのエセ紳士ぶりは、じんましんがでるな。あいつらは、たたき出したんだ」

 それでもゴーシュはセロを袋から出しました。

 大切に丁寧に弦を調律します。

 セレナーデが始まると、狐はじっと聞いていました。やがて曲が中ほどになると、ゴーシュのまわりで、しきりに横になり寝返りをうちました。めまいを治すつもりのようです。

 ゴーシュは懸命にひきました。狐のことは頭から離れました。

 パン屋の主人と娘さんの顔が頭にうかびました。パン屋をやってみないか、といっている顔、そして、自分の、あの粉をこねているときの無心の喜び。

 パンが焼きあがったときのあの晴れ晴れしさも心にうかびました。

 でもこのセロはそれ以上なんです。

 セロはなんと自分の気持ちを映しくれるのでしょう?

 たしかに、カケスは南に渡るときに方向がわからななり、仲間とはぐれてしまったのです。水車小屋の軒下で寒さに耐えていました。冬眠できないリスもゴーシュの小屋だけがたよりだったのです。

 セロを弾いていると、小さな動物たちの心臓の音がとっくとっくと、励ましてくれるのです。ゴーシュはパン屋も嫌いではないけど、やっぱりセロがいちばんのともだちなのでした。

 曲が終わり、そうっと弓をテーブルに置きました。狐の姿が見当たりませんが、なにやら腰がぬくぬくします。

 いつのまにか腰のまわりにまきついていました。

「おい、どうした」

「ゴーシュさん、セレナーデですが、九分どおりはよくなりましたが、あと一歩ですね。繊細さが欠けているんです」

「なにを。きさま、しったかぶりを」

「自信のなさが裏目にでているんですよ」

「……」

「どうするんですか、セロをやめるんですか?」

「うるさい、出て行け!」

 ゴーシュは立ち上がりました。狐は渦をまいて出て行きました。外は吹雪です。めまいはなおったのでしょうか? ゴーシュは自分も寝床にはいりました。風がごうごうと、コントラバスのように鳴っていました。


 吹雪がやんで晴れた日にゴーシュはパン屋に出かけました。いつもの朝早い時間です。主人は何も言いませんでした。ゴーシュもいつものように、もくもくと仕事をしました。

 お昼ごろになって、お店にお客さんがやってきました。

「娘さん、こちらにゴーシュという男がいませんか」

とたずねています。あの声は……

 ゴーシュは手を拭いて出て行きました。

「ド、ドロワ君」

バイオリン弾きのドロワでした。

「ゴーシュ君、きみがパン屋で働いているという、うわさをきいたんだよ」

「ああ、そうか」

「ゴーシュ君、セロはあきらめたのかね」

「セロってなんですか」

 パン屋の娘が口を開きました。

「娘さん、ゴーシュ君はわが金星音楽団のセロ弾きなんですよ。それが、どういうわけかパン屋で働いているらしい、という話をきいて、詳細を確かめにきたわけなんです。なにしろ服務規則に反しますからね」

「ドロワ君、心配させてわるかった」

「いやいや、それよりどうするつもりなんだね」

 パン屋の主人も出てきました。

 ゴーシュは白い帽子をとって主人に頭を下げました。

「親方、すいません。おれは楽団のセロ弾きなんです。でも、どうにもセロが下手っぴいなんです。ある日お宅のパンをたべたら、魔法みたいに、上手にひけたんです。それで、あの張り紙があって、なりゆきで働くことになっちまって、そんなことで、この前、ちゃんと返事ができなかった」

「それでどうするの?」

 娘さんがたずねました。主人は黙っています。

「おれは、やっぱりセロを弾きます、今日でお店をやめさせてください」

 その後はだれもなにもいいませんでした。それでもゴーシュは自分の気持ちを語ることができたのです。

「ゴーシュ、君がそうしたいのなら、しかたないさ」

 親方がそういいました。

 ゴーシュは駆け足で家にもどりました。水をごくごくと飲むと、袋からセロをとりだしました。セレナーデを弾きます。

 弾きながら、うまれてはじめて他人の気持ちのことを考えました。

パン屋の主人に悪かったとつくづく思いました。それから、娘さんにも、もうあの笑顔をみられないのかと悲しくもなりました。そしてバイオリン弾きのドロワが心配してくれたこともわかりました。

 セレナーデはずっと何回も続きました。カケスが天井裏から降りて聞きにきました。リスは栗を三個もってきました。狐も秋にとったぶどうを干してお土産にしました。


 春になりました。久しぶりの楽団の練習日です。ゴーシュはさっぱり洗濯をした服で、セロをかかえてやってきました。練習の一曲目は、『第六交響曲』でした。ゴーシュのセロはまずまずの出来でした。

 そしてセレナーデです。

 ゴーシュは一生懸命弾きました。汗が足もとにぽたぽたおちました。夢中であいだのことは覚えていません。

 終わると楽長がそばにたっていました。

「ゴーシュくん、よく練習してきたなあ。今度の演奏会は、泣いてしまうご婦人が山ほどいるだろう」

 楽長のことばは現実となりました。


 春風が吹く五月に、村の公会堂で演奏会がひらかれました。

 入り口には、たくさんの花が飾ってあります。キンギョソウや、スミレやアネモネです。そして会場は満席でした。

「金星音楽団演奏会」の垂れ幕はさわやかな風にひらひらとはためいています。そしてお客のなかにはパン屋の主人と娘さんもいました。セレナーデがはじまると、ふたりとも目に涙を浮かべてセレナーデを聴いていました。

 ゴーシュはセロを一生懸命奏でました。

 楽長もうっとりとした顔でタクトをふっていました。

 演奏は大成功でした。拍手が鳴り止みません。ドロワはにこにこしています。

 お客さんは立ち上がって大喜びです。

 アンコールの声とともに「ゴーシュ、ゴーシュ!」

という掛け声もしました。

 ゴーシュは、いったんは舞台の袖に引っ込みましたが、楽長に

「ゴーシュ君、なにかアンコールにひきたまえ」といわれて、びっくりしました。

 セロをかかえて真っ赤な顔で、舞台に出ます。

 そこで、ふたたび『インドの虎がり』を弾いたのです。

 みんな大喜びでした。こんどは聴衆はおおいに笑いました。

 そして、パン屋の主人はお土産にパンを配りました。ゴーシュはパン屋のお給金を受け取らなかったので、その分もたくさん焼くことができました。

 ほんとうに春のいい日になりました。


                         おわり

 


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