鬱百合
※過剰に鬱い話です。ご注意ください。
「本当ですか?」
わたしは目を輝かせながらその報せを耳にした。
「ああ。どうやら今日、客席に審査員が来てるらしい」
「じゃあ、勝って優勝したら・・・」
「オリンピック日本代表に選出される」
身体に電撃が走ったように鳥肌が立つ。
オリンピック・・・、その言葉のすごさが理解できないほど大きな舞台。出場すれば日本中から注目され、称賛される。
わたしにとっても大きな名声を得られるのは勿論、スポンサー契約やCM契約をしてもらえるかもしれない。
(そうすれば、ママやパパが楽になる)
物心ついたころから両親の帰りはいつも遅かった。
わたしをスクールに通わせるために、毎日残業。身を粉にしてわたしを支えてくれている両親だ。
その2人に、恩返しをしたい。ママとパパの娘は日本一だって、証明したい。
「勝ちます。絶対に!」
試合前、コートに入る時。自分に言い聞かせた。絶対にいけると。
家が貧乏な分、人の3倍は努力してきたんだ。そして今に至るまで、その努力は勝利という確かなものに結びついてきた。
テニスの神様が見てくれているのなら、わたしは負けるわけがない。
目を見開いた。神経全てを研ぎ澄ませて、対戦相手を見る。
相手選手は異常なほど冷静なたたずまいだった。わたしが燃え上がる炎なら、彼女はすべてを凍てつかせる氷。そんな印象を受ける。
(その冷静さがいつまで続くかな)
わたしの炎で溶かしてやる。そう思い、わたしはサーブを打ち込んだ。
◆
「はあ、はあ、はあ・・・」
全身から汗が噴き出す。試合が始まってからというもの、走らされてばかりで息は絶え絶え。もう疲労困憊の中、気力だけで立っていた。
そして次の1球、鋭いサーブがコートギリギリに突き刺さる。
わたしは、手も足も出なかった。
0-6、0-6、0-6、セットカウント0-3で敗北。
文字通り、完敗だった。
その瞬間、わたしは膝から崩れ落ちた。対戦相手の名前を見る。
(Yui Hoshimura・・・)
何なの。人間?
今まで対戦した誰よりも超超超圧倒的に強かった。今まで対戦してきた選手、・・・わたし含めて、誰もこの選手の足元にすら及んでいない。
そう確信できるほど、力量差が歴然としたものだった。
◆
―――あっ。
まただ。またそう思った。
放ったサーブは大きく逸れ、これでダブルフォルト。
「・・・すみません」
わたしはコーチに頭を下げる。
「今日はここまでにしよう、遊里」
コーチは優しく言ってくれるけれど、今はその優しさすら辛かった。
「遊里、切り替えていこう。今回のオリンピック代表には選ばれなかったけど、君なら4年後8年後も十分代表になれるさ」
「・・・でも、ママとパパは4年間、残業漬けですよ」
「それは君が気にすることじゃ」
「気になりますよ、家族が苦しんでるのに・・・!」
わたしは語気を強めて握っていた飲料水のペットボトルを潰す。
まだ入っていた中身が噴き出すのも、目に入らなかった。
「星村は代表に選ばれて、毎日毎日ニュースに出てCMにも出て有名になって、それに比べてわたしは」
ぐっと歯を食いしばる。
「全国大会決勝でストレート負けした時の映像が何回も何回もテレビから流れてくるんですよ。頭がおかしくなりそうです・・・!」
「遊里・・・」
コーチは何も言ってくれない。
奨められてメンタルケアの病院へも行ったけれど、結局何の解決にもならなかった。
あの日、決勝で負けたことがトラウマになって、わたしは完全にスランプに陥ってしまっていた。
自分でもこんなにメンタルが脆いなんて思わなくて、そのことを考えるとまたイライラしてしまって。
オリンピックの中継もまともに見られなかった。
星村が勝つ姿も負ける姿も、冷静に見られる気がしなかったからだ。
負ける姿なら・・・と最初は考えていたけれど、"自分に圧勝した相手"が"さらに強い相手"に負けると思うと、とても耐えられなかったんだ。
(生まれた時から才能に祝福され、環境に愛され、そして練習することを苦とも思わない精神を宿した選手・・・。そんな奴に、わたしなんかがどうやって勝てって言うのよ)
次元が違う。いくら小リスが強く突進しても、人間を倒すことなどできない。それほどまでの違いだ。
「来年は今年3年生を差し置いて主力を張った2年生の年だから楽しみだと思ったけど、ここに来てエースの山神が大スランプ・・・。どうなるか分からなくなってきたね」
どこからか、そんな声が聞こえてくるようだった。
「ゆーり」
そんな事を考えながら学校の校舎をとぼとぼと歩いていた時。
「ハル・・・」
後ろから話しかけてきたのは春だった。
テニス部ではダブルエースと言われてきた仲。でも、決して仲が良いというわけでもなかった。
互いに反発するようにぶつかり合い、毎日ケンカしながら、それでもお互いに競い合ってチームを引っ張ってきた。
そんな彼女に、今の弱ってる姿を見られるのは辛かったけど。
「なに?」
もう、逃げる気力も残ってなかった。
「うう、アンタがそんなんだとホント調子狂うのよねえ」
「・・・ごめん」
「だから! そういうのが・・・!」
怒鳴ろうとして、慌てて春は両手で口を塞いだ。
「いっつもなら"うるさい!春のくせに!"って、そうやってあたしのこと挑発するじゃん・・・」
「ごめん、そういう気分じゃ・・・」
「アンタの責任じゃないって。誰が戦っても星村に勝てる奴なんて居なかった。ウチの部に、ううん。日本全国を見てもアンタより強いプレイヤーなんて星村だけなんだよ!?」
・・・わかってる。そんな事、わかってる。
でも、そんな理屈じゃわたしの本心は納得できないんだ。
「部員はみんなあの試合、遊里が出てくれたことに感謝してるんだよ。あたしだって! 誰かが星村と戦わなきゃならなかった、それを引き受けてくれた遊里のこと、みんなすごい人って尊敬してるもの!」
「・・・嘘だよ」
「ウソじゃない!」
いや、嘘だ。嘘に決まってる。
「じゃあなんで・・・」
自然と瞳から涙が溢れてきた。
「なんで誰もそう言ってくれないの? みんな星村星村って、星村みたいになりたいって・・・。それってわたしみたいになりたくないって事でしょ、違う?」
自分の目から光が消えているのが分かる。
こんなのただの怨念返し、醜い嫉妬。
そんなことはわかってるんだ。でも、分かっていても。こうでも言わなきゃやってられないんだ。この状況を黙ってやり過ごせるほど強靭なメンタルなんて、わたしは持ってない。
「遊里っ!」
瞬間、ギュッと春がわたしを抱きしめた。
「あたしだけは、あたしだけは遊里の味方だよ。何があっても、絶対に遊里から離れたりしない。あたしは貴女の傍に、ずっと居るから。だから・・・」
春は涙声になりながら必死に言葉を絞り出す。
「だからそんな寂しいこと、言わないで・・・っ」
それから何分経っただろう。
春はずっとわたしを抱きしめてくれていた。まるで固まってしまったように動かない。
・・・わたしも、春も。
2人で仲良く一緒に死んでしまったかのように。
「春、わたしの事好き?」
「・・・好き」
「愛してる?」
「愛してるに決まってるでしょっ」
長い沈黙を破ったのはそんな言葉だった。
「じゃあ、キスしてよ」
「・・・っ」
そこで、言葉が途切れる。
「わたしの好きはそういう好きなの。友情ごっこを続けるなら、今すぐわたしの前から消えて」
おかしな事を言っていると思う。相手はただのチームメイト、クラスメイトだ。
恋人関係でもなければ、ましてや同じ女の子にこんな事を言われたら。突き飛ばされて軽蔑されても文句は言えないだろう。
・・・むしろ、それをわたしは期待していたのかもしれない。
―――だから。
本当に唇を重ねられた時は、驚いた。
「なんでそうやって1人で抱え込もうとするわけ!? あたしにも話してよ。遊里が苦しんでるその何万分の一でも、あたしは一緒に苦しみたい、背負いたいよ」
「・・・」
・・・嘘だ。嘘に決まってる。
「わたしと同じ苦しみが知りたい? じゃあ来年、もし帝都と当たったら、春が星村と戦ってよ」
そこで春はぴたりと動きを止めた。
「あいつと戦えばわかるよ。わたしの苦しみも、惨めさも」
次にあいつが目立った大会で優勝するまで、延々と負けた映像を流される。
日本全国からバカにされるこの苦痛に耐えられるって言うなら耐えてみせてよ。
「・・・わかった。来年、もし帝都と当たったら、あたしがシングルス1をやる。だから遊里も逃げないで。コートに顔出すだけで良いから練習に来てよ」
「ずるいよ」
「え?」
「それって来年まで苦しまないで済むって話だよね。そんなの、ずるい」
もうムチャクチャ。言ってる事が破綻してる。
そんなのは分かってるんだ。誰かに八つ当たりでもしないと、やってられないんだよ。
でも、他人への暴力は絶対にダメだ。
だから、わたしは。
「じゃあ遊里、あたしはどうすればいいの? どうしたら、遊里はあたしのこと許してくれる?」
春に無理難題をぶつけて、遊んでるんだ。
この子の困るような事をするくらいしか、もう気晴らしの場が無い。
家に帰っても両親は仕事、一人っ子のわたしに家庭なんてない。
幼少の頃からテニスしかやってこなかった。テニス関係以外の友達も知り合いも居ない。
「身体、好きにさせてくれるなら考える」
―――だから、もう春しかいないんだ。
―――この子が受け止めてくれないなら。
「・・・、わ、分かった」
春は声を震わせながら頷く。
「じゃあ練習終わったら春の家行っていい?」
「う、家は困るな・・・。ホテル、とか」
「わたしにそんなお金ないよ」
「あたしが払う、から」
・・・わたし、最低だ。
何やってんだろ。
こんなのどう見てもわたしがクズじゃん。
何の罪もない春を半泣きにさせて、揺すって、やらせろって。
―――いっそ全部壊しちゃおうって。
―――本気でそう思っていた。
わたしはスカートのポケットから取り出しかけていたナイフを仕舞うと。
春を抱きしめた。




