真空
得てして幸福な家庭というのはつまらないが、不幸な家庭には種々の事情があるというものだ。ソフィアは就寝する直前の十五分間、自殺について考えをめぐらせる習慣があった。あるときは兄から借りた拳銃をこめかみにあてながら、ある時は父親の机の引き出しにいつもはいっていたククリを頸動脈にゆっくりと沿わせながら。彼女は自分が死の射程圏にいるのだと確信しているときには決まって薄く目を閉じ、頬を染めて恍惚たる表情を浮かべるのだった。それだけではなかった。ただ何ということのない日常にもその瞬間はあった。例えば駅のホームで通過列車が目の前を横切ったとき。輪っかを見るとき(彼女は列車のつり革を見ると、その全ての輪っかに自分が首を吊っている幻覚をみるのだった)。学校の屋上でお弁当を広げているとき。自動車が自分の横を猛スピードで走り抜けたとき。彼女は心臓が大きく波打ち、全身の血が逆流するかのような感を覚え、高揚し、思わず野獣の様に叫んでみたくなるのだった。「生きている」。その時、その言葉が、その認識が、彼女の脳みそを鷲掴み、乱暴に振り回し、勢いをつけて何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も地面に叩きつけた。幾度も衝撃を与えられた脳みそは液状化し、彼女の世界を薄く広がっていって、あらゆる観念を脳の液体で水びだしにして台無しにし、ボロボロに崩しさって吸収し、分解されてひとつになって世界の流れに溶け込んでいく。そこで彼女はハッとして日常へと戻るのだった。彼女にとって死の感覚をもっとも強烈に表面化させるのは死体を見るときだった。学校から帰ってリビングで母がバラバラにされて転がっているのを見たとき、彼女は恐怖を感じる以前に陶然とした感覚を覚えた。自分が死というものに高速で漸近していって、どこまでも、どこまでも、重なっていく。終わることへの甘美な囁き。どこか高尚とさえ言える不当さ。不可抗力。彼女は服を脱いで裸になった。十歳にも満たない彼女の体は、幼いながらも、ある種の妖艶な曲線を描き、仄かに桃色づいた彼女の胸の先端が完璧なまでの曲線美に無秩序を与えていた。彼女はその時、自身の耳に鳥のさえずり一つ聞こえてこないことに気付いた。どんな轟音よりも耳を圧する沈黙が、彼女をその場に閉じ込めていた。「溶けていない...... ここは、何処にも溶けていない...... 」彼女はそう呟いてその場に膝まづいた。彼女は天井を見上げた。そこには自分が産まれたときからある見慣れた黒いシミがあった。彼女は、それが父親がネズミに驚いて放りあげた煙草がつけたものだと知っていたが今に限ってはそうではなくなってしまっていた。そのシミは彼女が視ている間に濃さを増し、じわりじわりと広がっていって彼女の視界を埋めつくした。彼女はその時、虚無の暗がりに自らの思考では及びもつかない、偉大で、圧倒的で、途方もない存在がありありと現前しているのを感じとった。「──... 」彼女はかすれた声で何事かを呟くと閉じていた目を見開いた。彼女は大事そうに、お椀にした両手で母親の血をすくい、その血を自分の乳房に塗りたくった。わずかながらに膨らんだ彼女の胸が手の動きに従って形を変えた。彼女は殆ど無意識だった自分の行為に対して神聖な儀式めいたものを感じとっていた。なぜなら彼女がしたのではなく、偉大な何かが彼女にそうさせたからだった。彼女の乳房はすでに乳首の先まで真っ赤に染まっていた。乳首の先から血が滴るのも構わず、乾いた血がこびりついた乳房に重ねて一心に血をすくっては塗りたくり、撫で付ける。血滴が幾筋も彼女の柔らかい肢体にそって滑らかな曲線を描いて垂れ落ち、そのうちの一筋はまだ毛の生えていない彼女の性器へと辿り、淫唇まで濡らした。「溶けちゃう...... 熔けちゃう...... 」と彼女はため息混じりに言った。彼女はそのまま家を出た。太陽は既に沈みかけていた。夕刻の街には家路につく人々の影の他に襤褸を纏った物乞いがちらほらといたが厳しい冷え込みに首をすくめているのは皆同じだった。彼女は太陽とは反対方向に向かって歩き出した。裸体を血まみれにした彼女を見て道行く人々がまるでマラソンランナーのぶっちぎり最後尾を応援するかのように囃し立てた。「あの娘は死ぬのが当然なのだよ。わたしらみんなの面を汚したのだからね」初老の男がぶつぶつと呟いた。「酒だ! 酔っぱらうぞ!!」無精髭でやつれたコートを羽織った男が踵を返した。「コルットパレンティ・ホムソモ」ニコライは微笑んだ。彼らの肛門のシワは二十二本だった。ソーニャは楡の木の葉を踏み、歯をきしらせ、目をギラギラと輝かせ、突然百八十度振り替えると太陽に向かって一目散に走り出した。日が暮れた。彼女は白い街頭の下をまるでプロのスプリンターの様な美しいフォームで駆け抜けた。コンドルが爆音を撒き散らして彼女の上を飛んでいき、北の空へと去って行った。彼女は走り続けた。途中、寒そうだからと言って老婆がわざわざ熱々のカーシャを持って走ってきてくれた。ソーニャは頭をかきむしって頭苔とシラミをカーシャの上に落とし、一口で皿ごと平らげた。老婆は大声で笑って父のもとへ逝った。ソーニャは白樺林まで来ていた。彼女は街の人たちから「ひきこもり四世」と呼ばれている大きな丸岩を一足に飛び越え、湖の中へと身を投じた。彼女は湖面で仰向けにプカリと浮かび、天才的な閃きを経て突然叫んだ。「喉かわいたああああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁ!!」彼女はザブンと音を立てて水の底へと潜っていった。途中ビックリしたリュウグウノツカイがビックラこいてピョーンと水面から飛び出てキラキラした粒子を撒き散らしながらアビョーンした。ソフィアは到底信じられない様な肺活量を誇る肺で水を一気に飲み込み、水は一気に彼女の消化器官を下り、それから鍛え上げられた括約筋で一気に水を捻り出した。殆どそれはジェット噴射に匹敵する推進力を持っていた。彼女の体は瞬く間に水面を飛び出し、小規模な津波を発生させ、周囲の白樺の木を押し流した。かろうじて残っていた木々も後に彼女から発生した衝撃波によって跡形もなく消し飛んだ。衝撃波によって熱せられた湖は一瞬で体積を肥大させ、灼熱の水蒸気となって森の動物たちを蒸し焼きにした。ワーニャおじさんは汗をかいた。ゴリオ爺さんはマスをかいた。白樺の森が水と熱と爆風と衝撃波によって壊滅し、被害は更に周囲の街へと及んだ。最初やって来たのは熱風だった。一部の、不幸にも建物などの陰になっていなかった人々は焼けただれていい臭いを漂わせ死んだ。次にやって来たのは爆風によって根こそぎ吹き飛ばされた木々だった。それらは高熱による自然発火でメラメラと燃え、光の尾を引いて街を襲った。「許していただきます! 罰するのは神にお任せを!」初老の男性は地面に身を投げ出した。「時代が変わろうと糞は糞なんだよ兄弟!」無精髭でやつれたコートを着た男は前を見据えて歩き出した。「にるばーな」ニコライは微笑んだ。彼らは皮かむりだった。街を襲った木製ミサイルは人々を押し潰し、家を焼き払い、財を葬った。そこら中から助けを求めてむせびなく声が響き渡り、中には狂ったように高笑いする者までいた。そのころソフィアは全裸で大気圏を突破し、月へと向かっていた。彼女は興奮のあまり、ねっとりと粘っこい鼻血を全身から垂れ流していた。彼女は右膝を折り曲げ、左手で右足をつかんだ。星が死んだ。色を失った星々は次々と彼女に墜落していった。一つの銀河が終わりを告げ、百億年の歴史はモナドへ回帰した。ニコライは新聞紙を折り畳んで微笑んだ。「悪霊にとり憑かれたのよ子豚ちゃん?」ソフィアは背骨をきしらせた。幾何学的正弦曲線を描いた彼女の背中がいやらしくぱっくりと開き、その中に宇宙の暗黒が吸い込まれていった。宇宙は少女の形をしていた。彼女は微笑んでこう言った。「溶けてないわ」