Overture #9
偶数日更新
死因は、心の臓の病だと聞いた。母にそんな病があったなんて知らなかった。もともとあったものなのか、急に発症したものかまではわからない。ただ、9歳のクラウディアに説明されたのは、朝、傍付きの女官が部屋に行くとすでに母親は冷たくなってたことと、外傷はなかったと言うことだ。
「クラウディア」
声がした。思いがけず傍で聞こえた声に、虚ろな目をして振り返る。
「リュート」
驚きがなかったのは、心が痺れて上手く動いていないせいなのか、どこかで彼がこうやって探しに来てくれることを期待し、予想していたからなのかはわからない。
ただ、少しだけほっとした。
「風邪、引くよ」
「……そうね」
この場面にふさわしくない会話が、妙に落ち着いた。
リュートは自身も膝をつくと、自分の、きっと喪服用だったのだろう、黒いマントを脱いでクラウディアの肩にかけた。
それは赤と紺の混じり合った世界をそこだけ克明な色で切り取り、彼女の身を不確かな世界から守るように包み込む。
温かかった。
それからしばらく、会話らしい会話は一言もなかった。幼い二人には、突然起こった不幸を掬い取れる言葉など持ち合わせてはいなかったし、なにより心がまだ、事実を認識しかねていた。ただ、奔流のように自分たちの周囲を流れて行く時間にされるままにしかできなかったのだ。
リュートは自分の未熟さに歯噛みしながら、肩に額を寄せるクラウディアの手を握り続けた。沈み行く太陽が光を世界から取り上げ、夜がそっと忍び寄るのを見上げる。
「リュート」
彼の名をクラウディアが呼んだのは、東の空に星が瞬き始めた頃だった。声が酷く掠れていた。握り返されるその指先が震えている。リュートはすぐ傍にある彼女の瞳を覗いた。
そこには先ほどまでの、涙こそ見せたが取り乱しもせず、凛と皇女の亡骸をまっすぐに見据えていた皇姫の面影はどこにもなかった。
目の前にいたのは、リュートの知る、ただただ泣き虫で甘えん坊のまだ年端も行かぬ小さな少女、素顔のままのクラウディアだ。
「私、私……」
言葉がこぼれるほどに、彼女の目に涙が溢れ出す。雫がついに頬を伝い、唇に達すると、とたんに口元はふやけるようにわななき始めた。
「クラウ……ディア」
「私、私……」
後はすぐには言葉にならなかった。ただ声を上げ赤子のようにクラウディアは泣きじゃくった。リュートの胸を、時に何度も叩き、時にしがみつき、痙攣のように肩を震わせ、髪を振る乱して、感情のままにただただ泣いた。
「お母様は、どうして私を残していってしまったの? 酷いわ! あんまりよ! 昨日まではあんなにお元気でいらしたのに。私、もっと、もっともっとお母様と一緒にいたかったのに」
「クラウディア」
リュートはその言葉や涙を一つ一つ自分自身に刻み込むように、ぎゅっと彼女を抱きしめた。少しでも、彼女の痛みや哀しみを、こうすることで自分が引き受けられることをただただ願いながら。実際、彼にはそうするより他、どうしていいのか、わからなかったのだ。
「独りはいや。こんなの、こんなの、いやよ……」
鐘が宵闇に鳴り響く。
教会の扉が閉ざされる合図だった。これから先、教会内には僧侶以外の人間は排除される。皇女の魂は明朝まで、僧侶達の祈りとともに死者を天へ導くとされる暁の光を待つのだ。
「クラウディア」
ようやく静まりかけてきたクラウディアの背を、リュートは宥めるように撫でた。唇を強く噛み、目の淵を真っ赤にした顔で、彼女は彼を見上げる。
リュートは汗で張り付いた彼女の額にかかる前髪を、人差し指でそっと掬い上げた。彼女よりずっと大きなその手をたどたどしくクラウディアの頬にあてると、じっと彼女の目を見つめた。
彼女の瞳に映る自分。それはまだまだ子どもで、未熟で、何にも出来ない、ちっぽけな陰だ。でも……。
もう一方の手で彼女の胸の前で握り締められている拳を包む。
いつの間にか、すっぽりと彼女のそれを包み込めるようになった、手だ。
リュートは息を吸い込むと軽く吐き出した。
クラウディアの不安げな瞳がまだ、探るように自分を見つめている。リュートはそれに答えるように顎を引くと、今、まさに彼女の母親の魂を迎えにきているのであろうシガソンの神に誓うようにその言葉を口にした。
「何があっても、俺がクラウディアを独りにはしない」
「リュート」
クラウディアが目を瞠る。リュートは気恥ずかしさを押し込めるようにもう一度頷いて見せてから、ぐっと握った手に力を込めた。
「一生、お前を守り抜く」
「本当に?」
また、溢れてきそうな涙を紫色の瞳にたたえ、クラウディアが囁くように尋ねる。リュートはそれにも頷く。
「ずっと、傍にいてくれる?」
「絶対に。クラウディアが俺に離れろと言わない限りは」
「きっとよ」
「わかってる」
「きっとよ」
「絶対だ」
小さなこどもの駄々ように何度も聞き返す彼女に、何度もうなうずきかえした。その一つ一つの頷きが、どれほど彼女の不安を取り除けるのか、もしくは全く意味がないのではないか、そう危惧しながらも。
しかし何度目かのやり取りの後、クラウディアは笑みを零した。自らその指で涙を拭うと、リュートの手を握りながら、最後に念を押すようにこういったのだ。
「約束よ。お願い。ずっと私の傍にいてね」
リュートは頷いた。
まるで、神に誓いを立てる聖騎士のように、まっすぐ、彼女だけを見て、はっきりと告げたのだった。
「この命の限り、貴女の傍に……」