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Phantom  作者: ゆいまる
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Overture #8

偶数日更新

 ――10年前。クラウディアがまだ9つで、リュートが7つの、冷たい冬の朝の出来事だった。

 色鮮やかに山や街を染めていた紅葉は全てその葉を落とし、長くなる夜にに冬の足音が聞こえ出した頃、晩秋の月がまだ白み始めた空に浮かんでいた刻の事だった。

 宮廷の台所には朝食の湯気が立ち、夜番の兵士達は交替の兵士の顔に肩の力を抜き、白壁や誰もいない広場に朝日の薄絹がそっと差し込んでいる。静寂に響くのは目覚めたばかりの人々の息遣いと、早起きの小鳥達の囀りだ。

 そんないつもと変わらぬ穏やかな空気を切り裂いたのは、女官の悲鳴だった。

 クラウディアの母である皇帝の第一妃ホルンの傍付きの女官だ。

 まるでそれが火事を知らせる警鐘だったかの様に、宮廷は一気に様々な怒号や悲鳴、嗚咽が溢れた。

 クラウディアは自室に閉じ込められ何も知らされはしなかったが、異様な空気と自分に向けられる人々の眼差しで、ただならぬことが起こったのだと察した。

 自分以上に怯えるアジェンと二人、部屋で息を殺し抱き合って、ただただ震えていた。

 泣いてしゃくりあげるアジェンの背中をなだめるようにさすりながら、必死に泣くまいと唇を噛み、考える。

 状況さえわかれば、こんな不安は吹き飛ぶはずだ。今、手元にある情報をまずは整理するのだ。それから、それから……。

 考えがまとまらないのが、時折人々の囁き声から聞こえてくる母親の名前のせいだとは思いたくなかった。

 いやな想像ばかりが追いかけてくる。

 自分の腕の中で流れる涙が、胸を責め立てる。

 怖い……怖くない。怖い……怖くない。

 一瞬でも気を抜けば襲い掛かりそうな恐怖を、懸命に打ち消す。

 とうとう何も説明を受けないまま夜が訪れ、アジェンとも離れ離れにされそうになった時だった。

 扉が勢いよく開けられた。

 音に驚き、顔を跳ね上げ、その目を見た瞬間だった。

 涙が一筋、頬を伝った。

「アジェ! クラウディア! 大丈夫か?」

 いつもは綺麗に流れる黒髪は乱れ、息も上がり、服もあちこち引っ張られたのかだらしなく伸びている。

 それでも、それでも……。

「リュート」

 始めにリュートに飛びついたのはアジェンだった。

 一日中泣いていたのに、まだそんなに涙が出るのかと驚くほど、アジェンはリュートに抱きついたまま泣きじゃくった。

 リュートはその弟分の頭を優しく撫でると、ひょいと抱き上げ、クラウディアの前まで進み出てきた。

 そのまま膝を折り、目を合わせる。

 廊下の方から彼の父親の怒号が響いたが、いつもは父親に頭の上がらない彼がそれを振り向きもせず、真っ直ぐにクラウディアだけを、見つめていた。

「よく、堪えたな」

 どんな顔をしていたのか、クラウディア自身わからない。しかしその言葉を境に、人の目も、自分の立場も何もかもかなぐり捨てて、声を上げて泣いたのは覚えている。

 それから、騎士団長であるリュートの父親から事実を知らされた。

 葬儀が終わるまで、リュートは怯える姉弟にずっと寄り添ってくれた。

 昼間の間はもちろん、悪夢にうなされ夜中に目を覚まそうとも、ドアを開けると、リュートは廊下に変わらぬ姿で立っていて、黙って頭を撫でてくれた。

 言葉は何もない。でも、いつも傍にいるという安心感をもたらしてくれるその影は、色濃くなって行く冷たい夜を、少しだけ温め、幼い姉弟に安らかな眠りと時間を与えてくれたのだった。


 二日の後、黒衣の母をシガソンの神の御許に返し、その躯が煙となり天に昇ったのを見届け宮廷に帰ってきた時、クラウディアはすぐには自室に帰ることはできなかった。

 自室には母との思い出が溢れ、呼吸をするごとに、瞬きする度に、それは色鮮やかに体温を持って蘇るからだ。

 中庭に来ていた。

 中央にそびえる大樹を見上げる。

 その雄雄しく大地を鷲づかみにするような木の幹にそっと手を添え、目を閉じた。

 涙が枯れ果てた心は空ろで、肌の表面だけは痺れるような感覚があると言うのに、足はまるで地に着いた気がしない。

 ほんの数十時間前まで、母親は優しい笑顔で自分の世界を照らしてくれていた。自分の憧れであり、女性として、この国の皇族として、そして一人の人間としての目標であり手本でもあった。

 確かに、決して体が丈夫な方ではなかった。口数は少なく、声を上げて笑うこともない。

 アジェンの母親ルーテに比べ、華やかさもない。よく、向日葵と月見草と揶揄されるほどに、母は控えめな女性であった。

 でも、その中には誰にも負けない父への尊敬と愛情を、この国を慮る聡明さと強さがあったことを知っている。誰よりも傍で見て学んだ自負だけは、クラウディアにはあった。

 だからこそ、だからこそ、もっと教えて欲しいことがあった。もっと母と一緒にいたかった。

 何故? こんな急に……。

 膝を折る。

 柔らかな大地がそれを受け止めるが、すでに日が傾き始めている空がのしかかってくる。

 風は絶え間く咽び泣き、葉をすべて落とした枝を揺する。

 影になった大樹の枝は、鋭い爪を持った骨ばった死神の手のように空に向って突き出され、赤と紺の空をぐるぐるとかき混ぜていた。

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