Overture #2
偶数日更新予定
僕は僕だ。空は青く、春が来る。それでいいんだ。
アジェは、うんうんと悩むリュートを振り返る。
世界は何も変わる必要なんかない。父親の活躍した激動の時代を、口では苦労したと語りながらも懐かしく思い、またその中には実際その時代に逆向したがる人間も少なくないのだけれど。平和が一番じゃないか。
目を閉じ、顔を空に向ける。
木の葉を透かした光を浴びる。優しい時間。心地よい風。それは長い間戦乱の中にあったという、このサウド大陸に訪れたようやくの平穏なのだ。
自分は心から、そういう時代に生まれてよかったと思っている。
世界はなにも変わる必要はない。
そう、自分だって……。そうだろ? リュートに同意を求めようと、うっすらと目を開けた。
「いい曲ね、何と言う曲かしら?」
足元から声がしたのは、口笛が途切れかけた時だった。
鈴を鳴らすような優しく可憐なその声を耳にした瞬間、アジェンは条件反射的に笑みを零し、リュートは身を強張らせる。
「姉様!」
「アジェ。それにリュートも。そこにいたのね。二人で楽しそう。私もそちらに行きたいわぁ」
太陽の光になびく金色の髪。深いすみれ色の瞳が二人を見上げている。穏やかな口調は彼女を包み輝かせる優しい春そのもので、アジェンはそんな姉、クラウディアが大好きだった。
「どうぞ! 姉様もいらしたらいい! ここの眺めは最高ですよ!」
アジェンは身を乗り出してクラウディアに手を振った。
「皇子!」
枝からずり落ちそうになるアジェンをリュートは慌てて掴まえ、眉を寄せる。真っ赤な顔で、頬を強張らせたままで。
「リュートだって、姉様と一緒がいいんだろう?」
意地悪な顔をしてアジェンは、リュートを振り返り小声で囁いて見せた。とたんにリュートは顔をさらに赤くして眉を跳ね上げる。
「な、なにをおっしゃるんです! こんな危険なまね、皇女様にさせられるわけないじゃないですか!」
「アジェって呼べ。呼ばないと、ここで姉様に言っちゃうぞ」
アジェンは悪戯っぽく口を突き出すと、試すようにリュートを見つめた。リュートはあくまで白を切っているつもりで「何のことやら存じませんがね」と震える声で突っぱねる。
「ふ~ん。そんな口、僕にきくんだぁ」
しばらくアジェンはリュートを見つめた後、彼に抱えられたまま、両手を口に添えて、大きな声を出した。
「姉様~。リュートが、話したいことがあるそうですよ~」
リュートはいきなりのアジェンの言葉に目を見開く。それまで二人の様子をくすくすと微笑み見ていたクラウディアも何事かと瞬きをした。
「なんでも、リュートはね~」
アジェンはずっと前から感じていた。リュートが姉のことをどんな風に思っているかを。それはもしかしたら、自分の単なる思い込みなのかも知れないが、それが事実で、またうまくいけばどんなにいいだろうと常々思っていた。
リュートが自分の本当の兄になる。それは本当に素晴らしく、また望みの薄い願望とも思えなかった。
確かに、リュートは王族ではない。でも代々教会に使える聖騎士の家系だ。身分はけして低くはないし、年齢も姉とさほど違わない。なによりリュート以外、大切な姉を任せられる男なんかこの世にいないように思えて仕方ない。
リュートが姉とうまくいけばいい。姉もリュートのことはけして嫌いじゃないはずだ。むしろ……。
アジェンは目ざとく僅かに頬を上気させる姉の微かな変化を認め、自分の予想が大きく外れていないことを確信する。
なんなら、いっそ、この場でそれを日の下にさらしてもいいんじゃないか。そうだ、そうすべきだ!
「リュートは、姉様のことをね~」
いつも穏やかな表情を崩さない姉の顔が真っ赤に染まって行く。
隣にいる侍女のビオラも固い顔になる。
やっぱりそうなんだ。嬉しさで飛び上がりたくなる気持ちを抑え、声に託すように思い切り吸い込んだ息を吐き出そうとした時だ
「す……」
「アジェ!! いい加減にしろ!」
絶妙のタイミングだった。
アジェンの悪戯で幼い口は、リュートの大きな無骨な手にさえぎられ、願いをこめた声は押し込まれてしまったのだった。
結局、アジェンは騒ぎを聞きつけた護衛兵達に捕まり家庭教師のもとに引きずり出され、リュートは自身の父親でもある騎士団長のマンデリンにこっぴどく説教されることになった。
リュートはしぼられるだけしぼられ、ようやく退室を許された騎士団長の部屋のドアを振り返り、小さくため息をつく。
廊下に伸びる影は、夕暮れを教えていた。
長い廊下にはりつく自分の影。固くて白い廊下に横たわるそれは、日に日にその領域を広げている。
そっと自分の手を見つめた。
大きさばかりが目立つ、未熟な手だ。
去年の夏に17になってから、特に背が伸び始めた。それに伴うように筋肉がつき始め、今や見てくれだけは立派な騎士だ。
そう、見てくれだけ……。
「ごきげんよう。リュート様」
すれ違う侍女たちに声をかけられ、はっとして顔を上げる。
三人連れの彼女達はリュートと目を合わせると気恥ずかしそうに微笑み、声を上げながら逃げるように去って行く。その様子に、苦笑しか零せない。
体が大きくなり、周囲が自分を見る目も変わってきた。
教会の司教バトゥーキンも、第一騎士団第一隊隊長のベースも、父も母も、そして何より心から尊敬する皇帝陛下まで、皆、期待をもって声をかけ、時には時間を割いてくれる。しかし……。
一度、騎士団長の部屋に向き直り、頭を下げる。忙しい中、自分の説教に何時間も割いてくれた父親は、そのせいで押した仕事をこの中でやっているのだろう。
頭をあげて、あてもなく歩き始める。
靴に跳ね返る廊下の音が冷たい。春が来たといっても、朝夕は寒く、宵が世界に忍び寄るほどに冷気が薄衣となって身を包む。
昼間のアジェンの顔を思い出す。
いやおうなく流れる時に逆らうように、頑なに幼い呼び名にこだわるアジェンの気持ちが、わからないわけはなかった。
いや、むしろ自分も同じ気持ちだ。
いつまでも子どもでいられたら、どれほどいいだろうと思う。
そう、いつまでも身分の垣根なく笑いあえ、したいことはしたい、嫌いなものは嫌い、そして好きなものは好き……と声高に叫べたら。
「リュート」
背後からの声に、リュートははっとして背すじを伸ばした。
気配に気づけなかった未熟さと、声の主その人の存在自体に戸惑い、返事が一瞬遅れる。
「は、はい。……皇女、様」