Overture #1
偶数日更新予定
頬をくすぐる陽射しが、厳しく突き放すような冬への別れを告げていた。
目を閉じると、瞼の裏に柔らかく優しい光が揺れている。小鳥達のさえずりは、軽やかで楽しげだ。
アジェンは耳をくすぐる彼らの声を蹴散らしてしまわないように、細心の注意を払いながらほほ笑んだ。
「ん?」
若々しい緑の匂いの中に、微かなバニラの匂いがする。
今日のティータイムになにが出るのだろう? 想像するだけで楽しい。簡単に持ち運べるものであるといいのだけれど。
彼は自分を待ってくれているであろう幼い瞳を思い出し、思わず口元を綻ばせた。
風が艶やかな黒髪を揺らした。瞳を開けると、美しい紫色の瞳が陽光に照らされ、輝き透明度が増した。通った鼻筋の下に結ばれた唇はやや薄いが、利発そうな力を感じさせ、滑らかな頬や華奢な顎などは少女と見紛うほどだった。
アジェンはその長い足を器用に枝に絡ませ、細い体躯を中庭の木の上に横たわらせていた。
木漏れ日の眩しさに目を細める。その中で跳ねる小さな影を見つけ、話しかけるように口笛を吹いた。
柔らかな彼の唇から奏でられる旋律に、影が動きを止める。しばらく警戒するようにじっとこちらを伺う気配がした。
アジェンはその警戒を解くように、自身の力をさらに抜き、再び目を閉じる。
唇からの旋律は、小さき影を光の中へ誘い出すように謳う。
優しく、明るく、陽気でな旋律だ。
やがてその影、小さな白い鳥はアジェンの傍まで来ると、つられたように喉を震わせ始めた。
流れるような春の光の中に、口笛と囀りのメロディーが重なり合って舞い上がる。
アジェンは目を開け、手を差し出した。もはやなんのためらいも無く、白い鳥は彼の指の上に飛び乗り、思い切り春の喜びを歌い上げる。
白い鳥は幸せの象徴だ。いい兆しだぞ。そう、アジェンが思った時だった。
「皇子! 皇子!」
鋭くも聴きなじんだ声が、一羽と一人のハーモニーを蹴散らした。
小鳥は驚いて飛び立ち、アジェンは「あぁ」と声を漏らして小さな幸せが影になり太陽へ帰って行くのを見送る。
「やっぱりここにいたんですね! 先生はお待ちですよ!」
生真面目ながらも優しさの滲む声に、アジェンは肩を竦めため息をついた。ちらり、木の下を見ると、いつもの渋面が腕を組んでこちらを見上げている。
「今までのようにアジェって呼ばなきゃ嫌だっていっただろ~」
アジェンはそういうと足を枝に絡ませ、くるんと逆さに枝にぶら下がって慌てて両手を広げる幼馴染を見つめた。
「なんだよ。見習い服なんか着ちゃってさ。リュートが見習いになるのは来月のアルトの刻からだろ~」
「事前研修にはこれを着衣する規則なんです! それより皇子」
「アジェ」
アジェンは頬を膨らます。
アジェンより3つ年上の少年リュートは困り顔でため息をつく。
「困ります。けじめです。皇子はもうすぐ15歳になられる。そうすれば皇位継承者に正式に指名され、この国の皇子に名実ともになられるのです。もう、子どもの頃のようには……」
「だったら、僕は行かない。この木から降りないぞ」
「そんなぁ」
アジェンは眉を寄せると、反動をつけて腹筋の要領で身体を起こし、枝の上にリュートに背を向けて座った。
「皇子ぃ」
アジェンとは対照的にたくましい体つきに精悍な顔立ちのリュートの声が、ますます頼りなくなる。
自分がここで木を降りて家庭教師の下へ行かなければ、リュートが叱られることはわかっていた。でもアジェンはどうしても、ここ数日のリュートを始めとした皆の自分への態度の変化が気に食わなかったのだ。
来月、アルトの刻。リュートが見習い騎士になるのと同じ日に、15になる。日が迫るにつれ、それまで親しくしていた城の人間を始め自分が知るどんな人間も、急に自分を『皇子』と呼び始め、難しくよそよそしい言葉を使うようになってきた。それが、解せない。
まさか、リュートだけはそうはなるまいと思っていたのに、今朝、そのリュートが騎士見習いの服を着こんで『皇子』なんて呼ぶものだから、頭にきたのだ。
「僕は僕だ。別に昨日の僕と今日の僕が違うわけじゃない」
「承知しております。しかし……」
「アジェと呼べったら!」
アジェは唇を突き出すと眉をぐっと寄せ、頬を膨らませた。
悪戯な風が吹き、木々がざわめく。その向こうに見える空。果て無しなく、どこまで手を伸ばしても許されるような深い蒼が世界を包んでいる。
こんなにも空は自由だというのに、地上の窮屈なことといったら……。
アジェンはさっきまで軽やかに口笛を奏でていた唇から重いため息をつき、地面に落とした。吐息は音を立てて土の上に落下してリュートの足元に転がる。
彼は根気強く、しかし弱りきった顔で見上げていた。アジェンは小さく舌打ちをする。
「こっちに来い。来たら、話くらいはきいてやる」
根気に負けて譲歩する。リュートは思わず安堵の笑みを零したが、辛うじて声だけは抑揚を抑え「絶対ですよ」と念を押して登りはじめる。
「こんなの、先生や団長に見つかったら、説教では済まされないんですからね」
小言をいう声はまだ、昨日までの一緒に悪ふざけばかりしていた距離を感じさせた。
アジェンは少しほっとするが、怒ったフリをして隣に腰掛けたリュートにそっぽを向く。
「はい。申し付けどおりに来ましたよ。皇子」
「アジェ」
「……ただの呼び名じゃないですか」
「ただの、っていうんならアジェでいいじゃんか」
「皇子……」
「ア、ジェ」
呼び名を譲るつもりはなかった。
もし、もしリュートにまで名を呼んでもらえなくなったら、それこそ自分が自分じゃなくなるようで嫌だった。
確かに、自分はこの国の皇帝ギュイターの長男だ。生まれた時から跡を継ぐのは決められているし、その使命に今更逆らおうとは思わない。
ただ最近、特に頻繁に『皇子』と呼ばれるようになってから、どうしても言いようのない違和感と嫌悪感が拭いきれないのだ。
僕は僕だ。
『一代で国を築き上げた皇帝の息子』でもなく『ハモーニ国の皇子』でもなく、僕は『アジェン・ストリングス』なのに。
「……皇子」
無意識に握り締めていた拳に、大きな手が重なった。
手の甲に感じるその感触は、無骨で痂皮や肉刺のごつごつしたもので、リュートがどれほど剣の稽古に身を入れているかを無言で語っていた。
「皇子が何者かは、このリュートが誰よりも存じております」
「……」
今日、初めてまともに顔を見る。
物心ついたときから一緒に育ったリュート。凛々しい眉に通った鼻筋、頑固そうで真っ直ぐな眼差し。昨日と何も変わらない顔が、そこにはあった。
「皇子の呼び名が何に変わろうと、皇子が何方になろうと、リュートはわかってます。ですから……」
不安になるな。途切れた言葉の先にアジェンはリュートの声を聞き、思わず頷いた。
足元を見る。
地面は遠く、ここには地上の窮屈なルールは及ばない。
アジェンは自分の思いつきに小さく口元を綻ばせると、顔をあげた。
「だったら、みんなの前での呼び名は勘弁してやる。これから授業だって受けてやる。その代わり……」
「やっぱり、条件付ですか?」
リュートは困ったような楽しそうな、笑みを堪えた複雑な顔をする。
「当たり前だ。僕がお前のいう事を聞いてやるんだから、お前も僕の言う事を聞け。いいか、二人でいるときは今までと同じ『アジェ』で呼べ。それから『ビスケット』にはこれまで通り付き合うんだ」
「え? 『ビスケット』はまだお続けになるつもりですか?」
二人だけの暗号に声を上げ慌てるリュート。アジェンはニヤリとして頷く。
「当たり前だ。それが約束できないなら、一人でここを降りろ」
「皇子ぃ」
「アジェ」
ったく、この石頭。アジェはほとほと困り顔のリュートの額を軽く弾く。黒髪の皇子の唇からは再び軽やかなメロディが歌い始めた。
それは春を誘う風に乗って流れて行く。