「亡き親友の婚約者を君の持参金で一生養いたい」と婚約者に言われたので、こちらから婚約破棄します
「今夜の君の誕生日会は、リディアを励ます会に変えた。費用も君の口座から出しておいてくれ」
婚約者のオスカーは、悪いことなど何ひとつしていない顔で言った。
私は、並べかけていた席札から顔を上げた。
「今夜は、私の二十歳の誕生日会です」
「ああ、分かっている。けれど、誕生日は来年も来るだろう?」
来年の誕生日が必ず訪れる保証など、誰にもない。
それに、今夜のために準備を始めたのは三か月前だ。
招待状も、料理も、楽団も、工房で働く職人たちへの記念品も、すべて私が手配した。
「リディアは今朝からひどく沈んでいるんだ。親友が亡くなって、初めて迎える秋だからね」
オスカーの親友は、一年半前に国境の戦で亡くなった。
その婚約者だったリディアを支えたいという彼の気持ちを、私は否定したことがない。
最初に月々の生活費を援助したいと相談されたときも、彼自身の小遣いから出すのならと賛成した。
けれど今、彼が指先で示しているのは、私の名義で届いた請求書だった。
「慰労会を開きたいのなら、別の日にご自分で開いてください」
「今日だから意味があるんだ。大勢に囲まれれば、リディアも少しは笑える。君だって彼女に元気になってほしいだろう?」
「だからといって、私の誕生日会を奪ってよいことにはなりません」
「奪うだなんて大げさだな」
オスカーは困った子供をなだめるように笑った。
「祝いの席であることは変わらない。君も一緒にリディアを励ませばいいじゃないか。君には家族も家も仕事もある。ひと晩くらい、何も持たない彼女に譲ってあげても困らないだろう?」
ひと晩くらい。
最近のオスカーは、私から何かを差し出させるたびにそう言った。
私は席札へ目を戻した。
主賓席には私の名が置かれていたはずだ。ところが今は、見覚えのない筆跡で「リディア」と書かれた札に替えられている。
私の札は、卓のいちばん端に追いやられていた。
「席順を戻します」
「エレノア」
「リディア様は客人として、私の右隣へ。慰労の言葉をかけることまで拒むつもりはありません。ですが、今夜の主催者と主賓は私です」
私は控えていた侍女に札を渡した。
「料理も演目も予定どおりに。追加された分の請求書は、オスカー様の個人口座へ回してください」
「たかが費用のことで、空気を悪くするのか?」
「費用を軽くお考えなら、ご自分で払えるはずです」
オスカーの眉間にしわが寄った。
けれど招待客の馬車が到着し始めたため、それ以上の口論はできなかった。
私も、この日のために働いてくれた料理人や楽師の前で騒ぎを起こしたくはなかった。
やがて現れたリディアは、青ざめた顔で私に頭を下げた。
「お招きくださって、ありがとうございます。オスカーから、エレノア様も私を励ましたいと望んでくださったと聞きました」
「……今夜は、どうぞゆっくりなさってください」
彼女は何も知らないらしい。
ここで責めても、オスカーが望むとおり、悲しむ女性に嫉妬する狭量な婚約者になるだけだ。
その夜、オスカーは最初の乾杯をリディアへ捧げた。
楽団には、亡き親友が好んだ曲を演奏させた。
招待客の半数は戸惑い、残りの半数は私を気の毒そうに眺めていた。
それでも私は、ひとりひとりに礼を述べた。工房の職人たちにも、約束していた記念品を直接渡した。
宴も半ばを過ぎたころ、隣領を治めるテオ子爵が到着した。
彼は私たちの織物工房にとって、いちばん大きな取引相手でもある。
「遅くなって申し訳ない。誕生日おめでとう、エレノア嬢」
テオはそう言って、細長い箱を差し出した。
「ありがとうございます」
箱に収められていたのは、彼の領地で作られた新しい染料の見本だった。装飾品ではなく、以前私が見てみたいと言ったものだ。
オスカーが横から口を挟んだ。
「ちょうどよかった。来季の注文については、僕があとで確認しよう。今夜、エレノアはリディアの相手で忙しいから」
テオは私を見た。
「工房の責任者は、エレノア嬢では?」
「結婚すれば、僕たちの事業になる」
「まだ結婚していない。それに私は、責任者本人の確認なく注文を変更しない主義だ」
穏やかな声だったが、オスカーは口をつぐんだ。
テオは改めて私へ向き直った。
「仕事の話は後日にしよう。今夜はあなたを祝うために来た」
そのひと言で、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけた。
少なくとも、この広間には今夜が誰のための日だったかを覚えている人がひとりいる。
宴が終わり、最後の客を見送ったのは深夜だった。
自室へ戻ろうとした私を、家の会計係が呼び止めた。
「お嬢様。こちらの費用ですが、すでにオスカー様の指示で、お嬢様の個人口座から支払われております」
差し出された帳簿には、追加の料理、花、楽団への演目変更料が記されていた。
私が知らないうちに用意された、リディアへの贈り物まである。
合計は、工房の職人十人がひと月暮らせる額だった。
私はすべてを書き写し、オスカーの負担として請求書を作った。
その下に、もう一枚の書面を添える。
今後、私の財産を使う場合は、必ず事前に同意を得ること。
当たり前すぎて、婚約者へ書面で伝えなければならないとは思わなかった。
翌朝、それを受け取ったオスカーから返ってきたのは、謝罪ではない。
『君の誕生日を台なしにしたつもりはない。リディアが笑ってくれたのだから、結果としてよい夜だったと思う』
最後まで、私の誕生日がどうだったかは書かれていなかった。
◇
誕生日会から一か月後、王都で慈善夜会が開かれた。
オスカーは私を迎えに来なかった。
代わりに届いた手紙には、『リディアの体調が心配なので、彼女を迎えに行く。君はいつものように分かってくれると思う』と書かれていた。
いつものように。
その言葉に、私はしばらく目を閉じた。
それでも夜会を欠席するわけにはいかなかった。工房の冬季注文を決める大事な席でもあったからだ。
私は家の馬車で会場へ向かった。
広間へ入ると、オスカーはリディアを伴って談笑していた。
彼女を責めるつもりはなかった。
けれど、その胸元を見た瞬間、足が止まった。
深い青色の石を、小さな真珠で囲んだ首飾り。
幼いころ、母が夜会のたびにつけていたものだ。
母が亡くなったあと、私が受け継いだ唯一の装飾品でもある。
婚礼前の手入れのため、オスカーの家が使う宝飾店へ預けていたはずだった。
「リディア様」
私が声をかけると、彼女は安心したように笑った。
「エレノア様。先日は本当にありがとうございました」
「その首飾りを、どなたから?」
「オスカーです。今夜のドレスには青が合うからと、貸してくださいました」
彼女の笑顔が消えていく。
私の表情で、何かを察したのだろう。
オスカーが私たちの間に入った。
「僕が貸した。リディアには、今夜くらい胸を張っていてほしかったんだ」
「これは私の母の形見です」
「知っているよ。だからこそ、立派な品だと思った」
「私に断りもなく持ち出したのですか?」
「借りただけじゃないか。返せば済む話だろう?」
周囲の会話が、ひとつずつ途切れていく。
オスカーは声をひそめた。
「こんなところでリディアに恥をかかせるな。君にはほかにも首飾りがあるだろう。彼女には今夜つけられるような品がないんだ」
「ほかにあるかどうかは関係ありません」
私はリディアを見た。
「事情をご存じなかったことは分かっています。ですが、それは私の母の形見です。今、返してください」
「はい。もちろんです」
リディアは震える指で留め金を外そうとした。
うまく外れず、顔が赤くなる。
私は侍女を呼び、人目を避けられる控室へ彼女を案内させた。
オスカーは不満げに私を見た。
「今夜だけ貸してやってもよかっただろう」
「あなたのお母様の形見を、私が勝手にテオ様へ貸しても同じことが言えますか?」
「なぜそこでテオが出てくる?」
「男性へ貸すのは不適切で、女性ならよいと?」
「そういう話ではない。君はまた、僕とリディアの関係を疑っているんだろう」
私は彼とリディアの間に恋愛関係があると思ったことはない。
問題はもっと単純だった。
彼が自分を善良に見せるためなら、私のものを自由に使ってよいと思っていることだ。
「私は、私の所有物を無断で持ち出さないでほしいと申し上げています」
「言い方を変えているだけで、結局は嫉妬じゃないか」
呆れた声を残し、オスカーはリディアのいる控室へ向かった。
私を置き去りにして。
「帰るか?」
背後から聞こえた声に振り返ると、テオが立っていた。
「オスカー様と一緒に、私を笑いに来たのですか?」
思ったより刺々しい声が出た。
それでもテオは気分を害した様子を見せなかった。
「あなたが笑われる理由はない。帰りたいなら馬車を用意する。残るなら、誰にも邪魔されず商談ができる席を探す」
勝手に私の望みを決めない。
どちらがよいかを、私に尋ねている。
「残ります。今夜、二件の注文をまとめると決めてきました」
「分かった。では商談の席を探そう」
彼は腕を差し出さなかった。
私が自分から手を添えるまで、ただ待っていた。
その夜、私は予定していた二件の注文を成立させた。
翌日、母の首飾りも無事に戻ってきた。
だが、それでなかったことにはできない。
私はオスカーと両家の代表者を呼び、書面を一枚ずつ配った。
そこには、私の財産を私の同意なく使用してはならないこと。
再び違反した場合、婚約はオスカー側の責任で解消され、共同事業も清算されることを記した。
「ここまでする必要があるのか?」
オスカーは書面を指で弾いた。
「口頭でお願いしても、聞いていただけなかったからです」
「分かった、分かった。署名すれば安心するんだろう?」
彼は内容を読み返そうともせず、署名した。
「僕は君を傷つけるつもりなんてない。親友を失ったリディアを放っておけないだけだ。優しい君なら、本当は分かってくれていると思うよ」
私は、その言葉を信じたかった。
幼いころから知っている彼を、私は確かに愛していた。
父が整えたこの婚約には、両家の共同工房も結びついている。理由もなく私から破棄すれば、多額の違約金が生じるだけでなく、工房で働く四十を超える家族の暮らしが揺らぐ。
感情だけで投げ出すことはできなかった。
だから口頭で抗議し、書面でも境界を示した。
これで分かってくれるなら、やり直せる。
そう思ったことまで、愚かだったとは思いたくなかった。
◇
二か月後、私は織物工房の事務室で冬の帳簿を確認していた。
向かいの席では、テオが来季の発注書を読んでいる。
「この布は、昨年より少し値が上がるのか」
「染料の価格が上がりました。ただ、仕上げの工程を見直したので、耐久性も上がっています。見本を洗っていただければ分かります」
「値上げを隠さず、理由と利点を先に示す。相変わらず、あなたとの商談は分かりやすい」
「褒めてくださっているのですよね?」
「もちろん」
彼は口元を緩めた。
以前の私は、男性と二人で仕事の話をして笑うことに、かすかな罪悪感を覚えていた。
オスカーが知れば、必要以上にテオを警戒するからだ。
けれどオスカー自身は、私が何を感じるかなど考えず、リディアと二人で行動していた。
なぜ私だけが、仕事相手と話すことまで遠慮していたのだろう。
扉が叩かれ、王都の公証人から使いが来た。
差し出された封書には、私の署名と印章を求める印がついている。
「何か大きな契約を進めていたか?」
「いいえ」
封を開き、最初の一行を読んだ。
そこに記されていたのは、私の持参金に含まれる王都の屋敷だった。
屋敷と、付属する三軒の貸家。
そこから得られる収入を、リディアが生きている限り、彼女の生活のために提供する。
そんな内容だった。
「これは……」
手の震えを、机の下で押さえた。
その屋敷は、母の実家から譲られたものだ。
貸家の収入は、工房の注文が減る冬に、職人たちの賃金を保証するためにも使っていた。
婚約しても、所有権は私に残ると契約で定めてある。
「オスカーから話は聞いているか?」
「いいえ。何も」
テオの表情が硬くなった。
使者に尋ねると、オスカーはすでに王都の救済会で、リディアへ終身住居と生活費を提供すると発表したという。
救済会は彼の善意を称賛し、次の会計役に推す話まで出ているらしい。
残っているのは、私の署名だけ。
つまりオスカーは、私が断れないところまで話を進めてから、財産を差し出させるつもりなのだ。
「返事は保留にしてください」
私は使者へ告げた。
「この書面には署名しません」
使者が退出した直後、入れ替わるようにオスカーが入ってきた。
「書類は届いたようだね」
彼は晴れやかな笑顔だった。
「驚かせたかったんだ。リディアも、これで将来の心配をせずに済む」
「驚きました。私の屋敷が、私の知らないところで他人のものになりかけていたのですから」
「他人だなんて冷たい言い方をするなよ。リディアは、亡くなった親友が僕に託した家族同然の人だ」
「家族同然の方を養いたいのなら、ご自分の財産をお使いください」
「僕の領地収入は、これから僕たち二人の暮らしに必要だろう?」
あまりにも自然に言われて、返す言葉を失った。
彼の金は、私たちのため。
私の金は、彼が助けたい人のため。
オスカーの中では、それが公平なのだ。
「君にはほかにも屋敷がある。結婚後は僕の家で暮らすのだから、あそこを使う予定もないじゃないか」
「貸家の収入は、工房の冬季賃金に充てています」
「それくらい、工房の利益から出せばいい」
「工房の帳簿をご覧になったことがありますか?」
「細かなことは君が得意だから任せている」
任せているのではない。
押しつけているだけだ。
彼は私の仕事を知らないまま、その成果だけを自分のものだと思っている。
私は机の引き出しから、二か月前の書面を取り出した。
「私の財産を無断で使えば、婚約を終える。あなたはここに署名しました」
オスカーは書面を一瞥し、ため息をついた。
「今回は事情が違う。首飾りを一晩借りるのとは違って、ひとりの女性の一生がかかっているんだ」
「違うかどうかを、なぜあなたひとりが決めるのですか?」
「君は考えすぎている」
彼は、またあの笑顔を浮かべた。
私なら最後には折れると信じ切った、優しい笑顔だった。
「救済会にも発表してしまったんだ。今さら断れば、リディアが恥をかくし、僕まで嘘つきになる。君なら分かってくれるだろう?」
「私が署名しなければ、困るのはあなたなのですね」
「そういう意地の悪い捉え方をするな。これは人助けだ。嫉妬で善意を邪魔したら、君だって後悔するよ」
私の中で、何かが静かに終わった。
怒鳴りたいとは思わなかった。
泣いて理解を求めたいとも、もう思わない。
私は書面を二つに折り、公証人の封筒へ戻した。
「では、私をあなたの善意から外します」
「何を言っている?」
「明日の朝、両家の代表者と公証人をお呼びします。婚約と共同事業を、契約どおり清算いたします」
オスカーは目を見開いたあと、小さく笑った。
「また大げさなことを。ひと晩眠れば落ち着くさ」
「いいえ」
私は彼をまっすぐ見た。
「これ以上ないほど、落ち着いています」
◇
翌朝、オスカーは予定の時刻に遅れて現れた。
私が本当に公証人を呼ぶとは思っていなかったらしい。
会議室には、両家の代理人と工房の会計係がそろっていた。私の求めに応じ、テオも取引先の証人として同席している。
「エレノア。こんな見せつけるような真似はやめないか」
オスカーは私の隣の椅子を引いた。
私は向かいの席を示した。
「あなたのお席はそちらです」
「まだ怒っているのか?」
「怒っているから婚約を破棄するのではありません。あなたを信頼できないからです」
公証人が、これまでの記録を読み上げた。
誕生日会の無断変更と費用の引き落とし。
母の首飾りの持ち出し。
そして、持参金の屋敷と収入を、私の同意なくリディアへ提供すると公に約束したこと。
オスカーは途中で口を挟んだ。
「どれも悪意があってしたことではない。困っている女性を助けようとしただけだ」
「その費用を、なぜエレノア嬢に負わせたのですか?」
公証人の問いに、彼は不思議そうな顔をした。
「結婚するのだから、僕たちの財産でしょう」
「婚姻前です。婚姻後も、該当の屋敷はエレノア嬢の個人財産であると定められています」
「夫婦になるなら、その程度は融通し合うものだ」
私は、持参していた婚約指輪を机に置いた。
「あなたの考える融通とは、私だけが差し出すことです」
「エレノア」
「善意はご自分のお金でどうぞ」
会議室が静まり返った。
私は指輪から手を離した。
「私の婚約も援助も、今日で打ち切ります」
オスカーの顔から、初めて余裕が消えた。
「待ってくれ。工房はどうする。僕の家の羊毛がなければ困るだろう?」
「現在お預かりしている羊毛については、正当な代金をお支払いします。今後は別の仕入れ先と契約します」
「職人たちは?」
「全員、私の伯爵家との直接契約へ移ることを選びました。賃金も仕事も変わりません」
私は、感情だけで婚約を投げ出すつもりなどなかった。
二度目の警告書を作った時点で、もしもの場合に備えていた。
工房を分けても職人を路頭に迷わせずに済むよう、仕入れ先と資金を確認し、雇用契約も見直した。
テオが口を開いた。
「来季の注文は、引き続きエレノア嬢の工房へ出す」
オスカーが彼をにらんだ。
「僕たちの婚約がなくなると知って、最初から彼女を奪うつもりだったのか?」
「侮辱する相手を間違えるな」
テオの声は低かった。
「私は責任者と契約を続けるだけだ。あなたはこれまで、一度でも納期や原価を説明したことがあるのか?」
オスカーは答えられなかった。
「テオ様」
私が呼ぶと、彼はすぐに黙った。
私の代わりに争うつもりがないことを、分かってくれている。
公証人が婚約解消の証書を差し出した。
私は迷わず署名した。
テオは証人欄に署名する前に、私へ尋ねた。
「進めてよいか?」
「お願いします」
彼が印章を押す。
乾いた音が、私の七年間の婚約に終止符を打った。
オスカーは最後まで署名を拒んだが、彼自身が交わした違反条項がある。彼の同意がなくても、婚約解消は成立した。
会議が終わるころ、羊毛商からの返書が届いた。
今後、オスカー個人の署名だけでは掛け売りに応じられないという通知だった。
これまでは私が帳簿を保証していたため、信用取引が許されていたのだ。
「こんなに早く手を回したのか」
オスカーが青ざめた顔で私を見た。
「手を回したのではありません。私の保証を外しただけです」
「同じことだろう!」
「違います。あなたは今、ご自分の信用だけで取引を求められているのです」
私は立ち上がった。
背後で名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
建物を出ると、秋の空気が思いのほか冷たかった。
胸は痛んでいた。
愛していた時間まで消えたわけではない。
だから悲しくないはずもなかった。
「馬車を呼ぼうか?」
少し離れた場所から、テオが尋ねた。
「いいえ。今日は歩きたいです」
「分かった」
彼は慰めようと肩を抱かなかった。
泣いているかを確かめるように、顔をのぞき込むこともしなかった。
ただ私の半歩後ろを、黙って歩いた。
その距離が、今はありがたかった。
◇
婚約を解消して十日後、リディアが工房を訪ねてきた。
彼女は飾りのない服を着て、大きな鞄を自分で持っていた。
「突然申し訳ありません。これをお返ししたくて」
机に置かれたのは、王都の屋敷の鍵だった。
続いて、誕生日会でオスカーから贈られた腕飾りと、使われずに残っていた生活費が並べられる。
「オスカーは、すべて自分のお金だと言っていました」
リディアは青ざめた顔で続けた。
「お誕生日会も、エレノア様が私を励ますために一緒に開こうとおっしゃったのだと。首飾りも、いずれ夫婦になる二人の家の品だから、借りても問題ないと」
「疑問には思わなかったのですか?」
優しい嘘で慰めるつもりはなかった。
リディアは唇をかんだ。
「思いました。あの夜、エレノア様のお顔を見れば、歓迎されていないことは分かりました。それでも私は、自分がかわいそうだから許されるのだと、都合よく考えました」
彼女は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「あなたに使われた費用は、オスカー様へ請求しています。だまされて受け取った分まで、あなたへ返済を求めるつもりはありません」
「ですが、残っているものまで持っていることはできません」
「では、確かに受け取ります」
私は鍵と金を引き寄せた。
「顔を上げてください。謝罪を受け入れます。ただ、今後は誰かが私も同意していると言ったら、私に直接確かめてください」
「はい」
リディアの目から涙が落ちた。
「亡くなったあの人は、貧しくても、他人から奪ったもので私を飾るような人ではありませんでした。オスカーは親友の約束を守っていると言いますが、あの人の名を使って、自分が褒められたかっただけです」
オスカーが最も聞きたくない言葉だろう。
彼女を守ることが自分の責任だと言い続けた彼は、その本人から拒まれたのだ。
「これから、どうなさるのですか?」
「地方に住む老婦人の話し相手を募集していると聞き、応募しました。住み込みで、お給金もいただけます。採用の返事が来たので、明日発ちます」
「ご自分で見つけたのですか?」
「はい。今度は、自分で暮らしてみたいのです」
その表情は、これまで見たどの夜会のときよりも穏やかだった。
「オスカー様は、ご存じなのですか?」
「昨日、お別れを伝えました」
リディアは一瞬だけ迷い、続けた。
「エレノア様に婚約破棄を取り消すよう、私から頼んでほしいと言われました。私のためにしたことなのだから、私が説明すれば分かってくださるはずだと」
最後まで、彼は自分で責任を負おうとしないらしい。
「お断りしました。もう彼の庇護を受けるつもりも、お会いするつもりもありません」
オスカーは、私だけでなくリディアの信頼も失った。
彼が何度も優先した相手さえ、彼の選択を善意とは認めなかった。
リディアが帰ったあと、救済会から使者が来た。
オスカーが発表した援助について調査するため、証書と支払い記録を確認したいという。
私は写しを一部ずつ封筒へ収めた。
そこに書かれているのは、誰かが仕組んだ罠ではない。
すべて、オスカー自身が選んだことだった。
◇
王都救済会の会長を務める伯爵夫人は、人の善意を、差し出した金額だけで測ることを嫌っていた。
銅貨一枚でも、自分の夕食を削って差し出したものなら尊い。
反対に、どれほど大きな屋敷を寄付しても、それが他人の所有物なら寄付とは呼べない。
会長室の机には、オスカーが提出した書面と、エレノアから届いた記録が並べられていた。
「あなたはこの屋敷を、自分の財産だと説明しましたね」
「いずれ妻となる女性の持参金です。夫婦になれば、僕にも管理する責任が生じます」
会長の前に立つオスカーは、まだ自分が正しいと信じているようだった。
「しかし、発表した時点では婚姻前です。婚姻後も、所有権はエレノア嬢に残る契約でした」
「彼女は十分に裕福です。屋敷を一軒譲っても、暮らしには何も困りません」
「困るかどうかを決めるのは、所有者です」
「リディアには住む場所すらない。より必要としている者へ回すのが、慈善ではありませんか?」
「それならば、あなたの屋敷を差し出せばよろしい」
オスカーが口をつぐんだ。
会長は次の帳簿を開いた。
誕生日会の費用。
リディアへ贈った腕飾り。
母親の形見の首飾りを貸し出した記録。
どれもオスカーの財産ではない。
「リディア嬢からも証言をいただきました。彼女は、援助の出どころについて虚偽の説明を受けたと話しています」
「僕は彼女を安心させたかっただけです」
「安心させるためなら、嘘をついてよいと?」
「悪意はありませんでした」
「当会が問題としているのは、あなたの心の中ではなく、あなたが実際に行ったことです」
会長は、銀色の徽章を机へ置いた。
救済会の会計役へ就く者に与えられるはずだったものだ。
「あなたを次期会計役とする推薦は取り消します。先日の表彰についても、寄付が成立していなかったことを公表します」
「そんな。僕の評判まで傷つける必要はないでしょう」
「当会の信用を使い、所有者へ署名を迫ろうとしたのはあなたです」
会長は呼び鈴を鳴らした。
話は終わりだった。
「ご自分の財産で人を助けられるようになってから、改めてお越しください」
救済会の訂正文が出ると、影響は早かった。
オスカーが他人の財産を自分のものとして約束した事実を知り、商人たちは掛け売りを断った。
工房の利益もエレノアの管理分だったため、彼に入っていた報酬はなくなった。
信用を重んじる王宮の慈善担当官への推薦も撤回された。
父親は彼を後継者から外しこそしなかったが、家の帳簿と小遣いを監督下に置き、領地の倉庫管理から学び直すよう命じた。
住む家も、食べるものも残された。
ただし、もう他人の金を自分の善意として使うことはできない。
救済会から私物を運び出す日、オスカーは一冊の古い帳簿を抱えていた。
寄付者の好み、家族の記念日、商人ごとの支払期限。
すべてエレノアの筆跡で書かれている。
彼が人付き合いに長けた好青年として褒められてきた裏で、誰が忘れないよう支えていたのか。
オスカーは長い間、その帳簿を見つめていた。
だが、気づくのが遅かったことまで、誰かの責任にはできなかった。
◇
婚約破棄から三か月が過ぎた。
工房の仕事は、以前と変わらず続いている。
オスカーの家から仕入れていた羊毛は別の領地から買うことになったが、品質も価格も安定していた。
私が突然、有能になったわけではない。
これまでと同じ仕事を、今度は自分の名前でしているだけだ。
テオは、私が交渉した価格を勝手に下げることも、彼が守ってやった契約だと吹聴することもなかった。
変更を求めるときは理由を説明し、返事を待つ。
私が断れば、別の方法を探す。
そんな当たり前の積み重ねが、私には新鮮だった。
ある冬の午後、オスカーから面会を求める手紙が届いた。
以前なら、彼は私の予定を尋ねずに訪ねてきただろう。
手紙には希望の日時が三つ書かれ、都合が悪ければ断っても構わないとある。
私は工房に併設された応接室で、彼と会うことにした。
久しぶりに見たオスカーは、華やかな上着ではなく、実務用の地味な服を着ていた。
「時間を作ってくれて、ありがとう」
「お話を伺います」
彼は膝の上で両手を握った。
「謝りたかった。君の誕生日を奪ったこと。お母上の形見を勝手に持ち出したこと。君の屋敷を、自分のもののように約束したこと」
初めて、ひとつずつ自分の行動を口にした。
「僕は、君が何でも持っていると思っていた。強くて、仕事ができて、僕が少しくらい頼っても困らないと」
「頼ったのではありません。決めたあとで、従わせようとしたのです」
「ああ。今なら分かる」
オスカーはうつむいた。
「僕は、君がしてくれることを愛情だと思って受け取りながら、君が何を望んでいるか、一度も考えなかった」
謝罪が聞けたことに、安堵はあった。
かつて愛した人が、最後まで何も理解しないままでいるよりはよい。
けれど、胸はもう高鳴らなかった。
「謝罪を受け取ります」
オスカーが顔を上げた。
その目に、期待が浮かぶ。
「それなら、もう一度やり直せないだろうか」
やはり、そこへ行き着くのだ。
「僕は変わる。倉庫の仕事も、最初から学んでいる。救済会の役職は失ったけれど、いつか信用も取り戻してみせる」
「それは、あなたご自身のために続けてください」
「君なら、最後には僕を許して戻ってきてくれると思っていた。誰より長く、僕を知っているのは君だろう?」
最後の甘えだった。
私なら待つ。
私なら分かる。
私なら、彼が反省したというだけで、失った信頼まで差し出す。
「許すことと、もう一度信頼することは別です」
私は、はっきりと告げた。
「私はあなたを愛していたから待ちました。誕生日を奪われても、形見を持ち出されても、理解してくださる日を待ちました」
オスカーの顔がゆがむ。
「けれど、待ち終えた今、あなたに戻る愛はありません」
「テオがいるからか?」
「違います」
すぐに否定した。
それだけは、勘違いさせてはならない。
「私は、ほかの男性を選んだからあなたを捨てたのではありません。あなたが私を、心を持つ人間ではなく、何度使っても拒まない財布として扱ったから離れたのです」
オスカーは、何も言えなかった。
「私との婚約に戻ることは、二度とありません」
「……そうか」
長い沈黙のあと、彼は立ち上がった。
扉の前で一度振り返ったが、もう私に許しを求める言葉は口にしなかった。
「幸せになってくれとは、まだ上手に言えそうにない。それでも、謝罪を聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして」
扉が閉じた。
私は深く息を吐いた。
苦しくないわけではなかった。
けれど、それは復縁したい苦しさではない。
かつて確かに好きだった人と、ようやく別れを終えた痛みだった。
その一週間後、テオが来季の契約書を持って工房を訪れた。
商談を終えても、彼は席を立とうとしない。
「まだ何か?」
「仕事とは別の頼みがある」
珍しく、彼は緊張しているようだった。
「今度の休日、私と茶を飲んでくれないだろうか。取引先としてではなく、ひとりの男性として誘いたい」
私は少しだけ考えた。
彼は答えを急かさなかった。
沈黙を都合よく了承と受け取ることもなく、待っている。
「では、三日後の午後に」
テオが目を見開いた。
「本当に?」
「一度のお茶で、一生の約束まではいたしません」
「もちろんだ」
「それでもよろしければ」
「十分すぎる」
彼の笑顔につられて、私も笑った。
誰かに望まれたからではない。
かわいそうな人を安心させるためでもない。
私は初めて、自分が会いたいと思った人との約束を、自分で選んだ。
◇
翌年、私は二十一歳の誕生日を、王都の屋敷で迎えた。
かつてオスカーがリディアへ与えようとした、母から受け継いだ屋敷だ。
改装した一階には工房の展示室を設け、二階は遠方から来た女性職人が安全に泊まれる部屋にした。
誰かを助けるために使うことを、私は嫌っているわけではない。
自分のものを、自分の意思で差し出したいだけだ。
今年の誕生日会について、テオは三週間前から何度も確認してきた。
招待客は誰にするか。
料理は肉と魚のどちらがよいか。
楽団には何を頼むか。
何かひとつくらい勝手に決めてもよいのではないかと笑うと、彼は真顔で答えた。
「あなたの誕生日だ。私が喜ぶ会にしてどうする」
今夜の卓の中央には、私の席札がある。
前菜も、温かなスープも、私が選んだものだ。
最後には、子供のころから好きだった洋梨の菓子が運ばれてきた。
工房の職人たちから贈られた布には、それぞれの得意な模様が刺繍されている。
私は一人ずつ名前を呼び、礼を伝えた。
誰も私を卓の端へ追いやらない。
誰も、私の祝いを別の人のためのものへ変えない。
最初の乾杯が終わったあと、テオが小さな箱と一通の書面を差し出した。
「贈り物が契約書なのですか?」
「色気がないのは自覚している」
箱には指輪が収められていた。
書面は婚姻契約書だった。
私の屋敷と工房は、結婚後も私が管理すること。
互いの個人財産を使用するときは、必ず本人の書面による同意を得ること。
仕事を続けるかどうかも、住む場所も、二人で相談して決めること。
すべて、テオが先に署名したうえで、私の欄は空白になっていた。
「あなたが断っても、工房との契約は変えない」
彼はまっすぐ私を見た。
「今夜、返事をする必要もない。何日でも、何か月でも考えてほしい」
「それでは、ひとつ質問があります」
「何だろう」
「結婚後、困っているご友人が現れたら、私の屋敷を差し出しますか?」
テオはしばらく黙った。
やがて、慎重に答える。
「まず、自分の空き部屋と収入を確認する。それで足りなければ、あなたに相談する。断られたら別の方法を探す」
「私が裕福でも?」
「あなたがどれだけ持っているかと、私が勝手に使ってよいかは別の話だ」
期待していたとおりの答えだった。
いいえ。
私が期待していたからではない。
この一年、彼が何度も行動で示してきたことと、同じ答えだった。
私は用意されていたペンを取った。
「エレノア?」
「何日でも考えてよいのでしょう?」
「ああ」
「では、一年かけて考えた分も含めて、今お返事します」
私は婚姻契約書へ自分の名を書いた。
テオが息をのみ、それから、信じられないほど嬉しそうに笑った。
「指輪を、つけても?」
「お願いします」
彼は私の手を取った。
それでも、指輪をはめる直前に一度止まり、私の目を見る。
私はうなずいた。
指輪が指に収まると、楽団が私の選んだ曲を奏で始めた。
「一曲、いただけますか?」
テオが手を差し出す。
その手は、私が選ぶのを待っていた。
「喜んで」
私は自分から彼の手を取った。
今夜の音楽も、灯りも、祝福も、誰かに譲るためのものではない。
私を尊重してくれる人と、自分で選んだ未来を祝うためのものだ。
温かな拍手の中、私は自分の足で、彼との最初の一曲へ踏み出した。




