婚約破棄されたので王家専用の祝福を外しました。三日後、王太子殿下の継承印が消えました
「ルナリア様! 王城から使者です。王太子殿下が、すぐ戻れと!」
新人神官が息を切らして駆け込んでくる。
私は白い祭服を洗濯紐にかけ、洗濯ばさみを留めてから振り返った。
「戻れませんよ。解除状に、二度と王城に近づくなとありますので」
「そういう問題ですか!? 継承印が消えたんですよ!?」
「でしょうね。三日目の朝ですから」
聖女もとい、元聖女である私が婚約破棄された三日後、王太子エドガル殿下の額から、金色の継承印が消えた。
王家の直系にだけ現れる、王位継承者の証である。
生まれた日から殿下の額にあったそれが、朝議の最中、貴族たちの目の前でふっと薄れ、最後には跡形もなく消えたらしい。
その報せを聞いたとき、私は大神殿の裏庭で祭服を干していた。
王家専用祝福には、三昼夜の残光がある。
聖女の交代や急病で王家の機能が即座に止まらないよう、古い契約に組み込まれた猶予だ。
解除後三日以内に次の聖女が正しく受け継げば、王冠も玉座も継承印も保たれる。
逆に言えば、三日以内に受け継げなければ、祝福は完全に切れる。
私は王都の井戸も、下町の灯も、孤児院の朝鐘も止めていない。
外したのは王家だけを守る祝福だった。
王冠の輝き、玉座の保全、毒杯に反応する銀の光。
王城地下の古い封印維持。
そして、王位継承者の正統性を示す継承印。
それらはすべて、王家専属聖女の祈りで保たれていた。
殿下はそれを「貴様の祈りなど不要だ」と言って、正式な書面で手放したのである。
*
三日前の建国記念舞踏会で、私は王太子エドガル殿下に婚約破棄を告げられた。
国王陛下は半年前から聖脈病で離宮に移り、王妃様はその看病に付き添っている。
王城の日々の儀礼や式典は、王太子であるエドガル殿下が代行していた。
ただし、それはあくまで宮廷運営の代行であって、王位継承や王族処罰を自由にできる権限ではない。
王族の監察と非常裁定権は、国王陛下から王妹アデライド殿下に預けられていた。
けれどアデライド殿下は当時、北部聖標の復旧で王都を離れている。
非常裁定権は、王族が明確に王家契約を傷つけたときに初めて発動する権限だ。
日々の舞踏会や人事のたびに、王太子の言動を見張るためのものではなかった。
エドガル殿下は、そこを都合よく勘違いしていたのだと思う。
王城に国王陛下がいない。
王妃様もいない。
アデライド殿下も北部にいる。
ならば自分が王城で一番偉いのだ、と。
「ルナリア・セイル。貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
シャンデリアの下で、殿下はよく通る声を張り上げた。
楽師の指が止まり、弦がびいんと間の抜けた音を立てる。
前列の若い令嬢たちは期待に目を輝かせ、壁際の年配貴族は「また面倒なことを」とでも言いたげに杯を置いた。
私は一拍遅れて、礼を取った。
「婚約破棄、ですか」
声は思ったより普通に出た。
けれど、胸の奥がまったく痛まなかったわけではない。
私は七年間、王家のために祈ってきた。
エドガル殿下が毒に倒れないように、王冠が民の前で曇らないように、継承印が王族の額に正しく輝くように。
それを「不要」と言われて、平気でいられるほど、私は立派な聖女ではなかった。
「そうだ。貴様は聖女の地位を利用し、王家を脅してきた。祝福がなければ王家の威光が保てないなどと偽り、私の妃の座に居座ろうとしたのだ!」
言っていない。
ただ、毎月の聖務報告書に「王家専用祝福の維持には聖女本人の同意が必要」と書き続けただけだ。
殿下が読んでいなかっただけである。
殿下は私から視線を外し、隣に立つ令嬢の手を取った。
桃色のドレスをまとった侯爵令嬢、セリーヌ・ローヴェル。
最近、宮廷で「奇跡の乙女」と呼ばれている方だ。
小鳥に祝詞を聞かせたら肩に止まったらしい。
小鳥はパンくずにも止まる。
「新たな聖女はセリーヌだ。彼女こそ、真に清らかな魂を持つ女性である」
「エドガル様……私、怖いです。でも、この国のためなら頑張ります」
セリーヌ様は潤んだ瞳で殿下を見上げた。
会場のあちこちで拍手が起きる。
心からの拍手もあった。
空気を読んだ拍手もあった。
皿の上の肉を食べ終えてから事態を把握しようとしている者もいた。
私は深く息を吸った。
「確認してもよろしいでしょうか」
「命乞いか?」
「いえ、業務確認です。私、ルナリア・セイルは本日をもって王家専属聖女の任を解かれる。そういう理解でよろしいですね?」
「当然だ」
「王冠の聖別、玉座の保全、王族個人に付与した毒避けと病避け、王城地下の古い封印維持、そして継承印の保持も、すべて解除ですね?」
そこで初めて、殿下の眉が動いた。
「しつこいぞ。貴様の祈りなど不要だと言っている」
「書面にしましょう」
私は懐に手を入れ、指先が解除状の紙に触れたところで、ほんの少しだけ止まった。
七年分の朝の祈りが、この一枚の内側で固く乾いている。
私はそれを取り出した。
こういう日が来る気はしていた。
ここ半年、殿下は私の報告書を読まず、セリーヌ様の祝詞ごっこばかり褒めていたからだ。
王家専属聖女は、王族の命令だけでは外せない。
聖女本人、王族代表、大神殿の証人。
三者の署名がそろって、初めて王家専用祝福は切り離せる。
王太子は宮廷儀礼の代行者として署名できるが、その署名が王家契約を傷つけた場合、監察権を持つ王妹アデライド殿下へ自動的に聖別異常が届く仕組みだった。
もちろん、殿下は知らなかったのだろう。
報告書の三枚目に毎回書いていたのだけれど。
私は会場の端に控えていた大神官補佐を呼んだ。
彼は夕食前に仕事を増やされた人間の顔で、しぶしぶこちらへ来た。
「殿下、こちらに署名を」
「くだらん。そんな紙切れがなくとも、私は貴様を追放できる」
「追放はできます。ただし台帳上では私が王家専属聖女のままですので、退職後も毎朝四時に王城へ祈る義務が残ります。未払い手当も発生し続けます」
「未払い、だと?」
「七年分です」
壁際で誰かが咳き込んだ。
咳にしては、少し笑いが混ざっていた。
殿下は顔を赤くし、乱暴に羽ペンを取った。
「いいだろう。署名してやる。その代わり、二度と王城に近づくな!」
「承知しました」
私は解除状を差し出した。
セリーヌ様も、証人欄の隣に美しい文字で名を書いた。
彼女は自分が何に署名しているのか、たぶん分かっていなかったのだと思う。
隣で殿下が頷けば、それが正しいことになる。
そういう場所で、そういう風に生きてきた人なのだろう。
最後に大神官補佐が印を押す。
解除状が淡く光り、私の胸元にあった王家の紋章が音もなく割れた。
頭上の聖灯がひとつ消える。
王家専用の灯だ。
古くから王城と大神殿をつなぐ標として吊るされていたもので、消えたところで舞踏会の明るさはほとんど変わらない。
けれど、厨房長は無言で銀皿を下げた。
老侍女は袖の中で十字を切り、銀器係の少年は一瞬だけ私を見て、すぐ目を逸らした。
知っている者は知っていた。
王城で本当に動いているものを、誰が毎朝起こしていたのか。
「では、王家専属聖女ルナリア・セイルは退任いたします。長い間、お世話になりました」
「二度と戻るな」
「はい。戻りません」
私は笑顔を作った。
本当は、少しだけ悔しかった。
けれど、ここで泣けば、殿下はきっと勝ったと思う。
セリーヌ様は清らかな涙だと勘違いする。
周囲の貴族は、聖女も女だと面白がる。
だから私は、最後まで仕事の顔で言った。
「王家の皆様が、祝福なしでも健やかに過ごされますように」
殿下はその言葉を皮肉とも警告とも受け取らなかった。
セリーヌ様の手を握り、勝ち誇ったように笑っていた。
*
一日目、王冠の中央に嵌められた紅玉が曇った。
二日目、王太子殿下の毒避けの銀環が鳴り止まなくなった。
調べてみると、毒があったのは食事ではなく、殿下が毎朝使っていた香油だったらしい。
誰が混ぜたのかまでは、もう城を出た私の知るところではない。
私が祝福を解いたあと、殿下の香油を毎朝検めていた者はいなかったはずだ。
王城内には、王太子が思っているほど味方が多くなかったということだ。
そして三日目の朝。
残光の猶予が切れる前に、セリーヌ様は新聖女として王冠を聖別するはずだった。
王太子殿下は朝議の場でその儀式を行い、自分こそ正しい継承者だと貴族たちに見せつけるつもりだったらしい。
結果は、逆。
セリーヌ様がいくら祈っても、王冠は応えなかったという。
白い光の代わりに黒い灰が上がり、王冠の内側の聖句は一文字ずつ沈黙していったらしい。
そして朝議の全員が見ている前で、エドガル殿下の額の継承印が薄れ、消えた。
王太子殿下は、自分の頭を何度も触ったそうだ。
「戻せ。今すぐ戻せ」
最初にそう命じた相手が、偽聖女ではなく私だったというあたり、殿下も少しは理解していたのかもしれない。
*
その日の昼過ぎ、大神殿で公開聖別審問が開かれた。
場所が大神殿になったのは、私が王城へ戻れないからだけではない。
王家専用祝福の解除によって、王城側の聖別記録が信用できなくなっていたからだ。
中立の台帳と証人がそろう場所は、大神殿しかなかった。
聖別台帳は、署名を写すだけの帳簿ではない。
その場で交わされた誓約を、声ごと刻む。
神殿には人が詰めかけていた。
貴族、神官、騎士、商人。
後方には下町の人間も混ざっている。
全員が立派な目的で来たわけではない。
面白いものを見に来た者もいれば、自分の家名が帳簿に載っていないか確かめに来た者もいる。
前列の男爵など、席に着いた時点で顔色が悪かった。
「見ろ、あれが元王家聖女だ」
「思ったより普通の娘さんだな」
「普通の娘が王太子の印を消せるか?」
「消したんじゃなくて、向こうが捨てたんだろ」
整った沈黙など、どこにもなかった。
人は不安になると黙るとは限らない。
余計なことを言い、隣の反応を確かめ、少しでも自分の立場を安全な方へ置こうとする。
やがて、エドガル殿下が入ってきた。
額には何もない。
金色の印が消えた顔は、昨日までと同じはずなのに、ひどく頼りなく見えた。
隣のセリーヌ様は桃色のドレス姿だったが、裾に黒い灰がついている。
偽の聖油を使って儀式をした者には、よく出る汚れだ。
祭壇前には、王妹アデライド殿下が立っていた。
灰色の髪を後ろで結び、飾り気のない黒い礼服をまとっている。
腰には細身の剣。
王族というより、遠征帰りの将軍に近い。
「始める」
低い声が通ると、さすがに人々は口を閉じた。
「本日の審問は、王家専属聖女ルナリア・セイルの退任、およびセリーヌ・ローヴェルの新聖女任命に関するものだ。なお、国王陛下は病床にあり、王妃殿下は離宮で看病を続けておられる。陛下の署名を受けた非常裁定権により、この場の審理は私、アデライド・リオ・ファルセインが行う」
エドガル殿下が一歩前に出た。
「叔母上、これは茶番です。ルナリアが王家への祝福を勝手に止め、私の継承印を奪った。反逆罪で裁くべきです」
アデライド殿下は、すぐに私を庇わなかった。
まず王家側の書記官を呼び、聖務解除状の印影を確認させる。
次に大神殿の台帳係が、私の持参した聖別台帳と照合した。
手続きには時間がかかった。
その間、エドガル殿下だけが苛立っていた。
セリーヌ様は落ち着かない様子で手袋の指先をいじり、王家の会計官は汗を拭き続けている。
貴族席からは、「長いな」「いや、長い方がまずいんだろ」という囁きが聞こえた。
やがて書記官が顔を上げた。
「印影、署名、ともに真正です」
台帳係も頷く。
「聖別台帳の記録と一致します。解除日は三日前、建国記念舞踏会の夜。残光猶予は本日朝鐘をもって終了しています」
アデライド殿下は、そこで初めて私を見た。
「ルナリア・セイル。説明を」
「三日前、私は王家専属聖女の任を解かれました。こちらが聖務解除状です。王族代表としてエドガル殿下、立会人としてセリーヌ・ローヴェル様、大神殿の証人として大神官補佐の署名があります」
写し鏡に解除状が映し出された。
エドガル・リオ・ファルセイン。
セリーヌ・ローヴェル。
大神殿証人印。
見物席の空気が、少しだけ変わる。
先ほどまで興味本位で見ていた者たちが、身を乗り出した。
「殿下の署名だ」
「セリーヌ様も書いてる」
「戻れって命令したの、どの口で言ったんだ」
エドガル殿下が叫んだ。
「私は王家専属から外すと言っただけだ! 継承印まで消せとは言っていない!」
私は聖別台帳を開いた。
「殿下。記録を読み上げても?」
「黙れ!」
「読み上げます」
台帳は嘘を嫌う。
私が該当箇所に指を置くと、紙面が淡く光った。
そこに残された声が、祭壇の上に再生される。
『王冠の聖別、玉座の保全、王族個人に付与した毒避けと病避け、王城地下の古い封印維持、そして継承印の保持も、すべて解除ですね?』
私の声だった。
続いて、殿下の声が響く。
『しつこいぞ。貴様の祈りなど不要だと言っている』
誰かが小さく吹き出した。
すぐ隣の貴族に肘でつつかれ、慌てて口を押さえる。
笑いたい者、青ざめる者、目を伏せる者。
反応はばらばらだったが、エドガル殿下を信じ切っている者は、もう少なかった。
殿下は歯を食いしばった。
「言葉の綾だ。聖女なら、王家を守る義務がある」
「退任後もですか?」
「王家に逆らわない範囲でだ!」
「その範囲を書面にしていただけなかったので、台帳に従いました」
「貴様、私を罠にはめたな!」
「確認しました。隠していません」
「同じことだ!」
「違います。罠は見えないように張るものです。私は全部、声に出しました」
アデライド殿下が片手を上げた。
「そこまででいい。次に、セリーヌ・ローヴェル」
呼ばれたセリーヌ様は、びくりと肩を震わせた。
「はい……」
「三日目の朝、あなたは王冠の再聖別に失敗した。ここでもう一度、同じ儀式を行え」
「い、今ここでですか?」
「新聖女を名乗るなら、当然できるはずだ」
「私は、まだ正式な引き継ぎを受けていなくて……」
セリーヌ様は私の方を見た。
その目に、初めて責める色ではなく不安が浮かんでいた。
少し遅すぎる不安だった。
「ルナリア様が意地悪をして、何も教えてくださらなかったんです」
私が口を開く前に、大神官補佐が書類を掲げた。
「引き継ぎ資料は三度送付されています。受領印もあります」
「読んでいません!」
セリーヌ様は泣きそうな声で叫んだ。
「だって、エドガル様が、そんな難しいものは読まなくていいと。聖女に必要なのは、清らかな心だって……」
エドガル殿下の顔が引きつる。
「セリーヌ、黙れ」
「でも、そう言ったじゃありませんか!」
アデライド殿下は表情を変えず、侍女に王冠を運ばせた。
中央の紅玉は黒ずみ、金の縁には細かな亀裂が入っている。
三日前まで毎朝、私が聖別していた王冠だ。
セリーヌ様は震える手で聖油を取った。
「天の光よ、王家を照らし、清らかな冠に祝福を……」
祝詞は合っている。
声も綺麗だった。
けれど、聖女の祈りは声だけでは動かない。
何を守るのか。
誰のために祈るのか。
その覚悟を、聖脈は見る。
セリーヌ様が王冠に聖油を落とした瞬間、白い光ではなく、黒い灰がぼふっと上がった。
彼女は短い悲鳴を上げ、その場に尻もちをつく。
桃色のドレスの胸元に、灰で文字が浮かんだ。
――虚飾。
前列の貴族令嬢が顔を覆った。
後ろの方では「小鳥の件、やっぱり餌だろ」と誰かが言い、別の者が「今それ言うな」と低く返した。
セリーヌ様は首を振る。
「違うの。私は騙されたんです。エドガル様が、私の方が聖女らしいって。ルナリア様は地味で、民に夢を見せられないって」
「セリーヌ!」
「祝詞を覚えればいいって言ったのはあなたでしょう!? ドレスも宝石も、聖女らしく見せるためだって!」
その言葉に反応したように、聖別台帳のページが勝手にめくれた。
地下保管庫の記録。
救荒費の流用。
戦災孤児院への寄付金の未払い。
大神殿への聖油代の未納。
そして、セリーヌ様の装飾費として処理された王家財の支出。
会計官が椅子からずり落ちそうになった。
後列の男爵は、自分の名が載っていないかを確かめるように首を伸ばしている。
私は、その中身を知らなかった。
王家専属聖女に命じられていたのは、地下封印の維持だけ。
閲覧権限は王族と会計長官に限られていたからだ。
それでも、封印を保っていたのが私の祈りだったことは事実である。
アデライド殿下は、すぐには裁かなかった。
まず会計官を呼び、記録の出所を確認させた。
次に、王家の書記官へ写しを取らせる。
王族の不正を認めることになる手続きだ。
簡単な顔ではできない。
殿下は目を閉じた。
ほんの一呼吸だけ。
王家の人間として恥を受け止める沈黙だった。
「王太子エドガル」
「叔母上、これは誤解です。私は国のために――」
「国のためという言葉を、ここで使うな」
低い声だった。
「お前が失ったのは継承印ではない。王家を継ぐ資格だ」
エドガル殿下の膝がわずかに揺れた。
「王妹アデライドの名において宣言する。エドガル・リオ・ファルセインを王太子位から解く。継承権は凍結。北部修道砦にて十年間、救荒帳簿と聖務報告書の写本作業に従事させる」
「写本……?」
殿下の顔から血の気が引いた。
アデライド殿下は少しも笑わなかった。
「お前が読まなかった報告書を、死ぬほど読め」
誰も大声で喝采はしなかった。
けれど、空気がゆっくり抜けていくような音がした。
安堵のため息。
押し殺した笑い。
誰かが椅子を引く音。
王太子に賭けていた者たちが、一斉に損得を計算し直す気配。
その中で、銀器係の少年だけが、柱の陰から小さく親指を立てた。
私は見なかったふりをした。
「セリーヌ・ローヴェル」
アデライド殿下の視線が移る。
セリーヌ様は床に座ったまま震えていた。
「あなたには聖女詐称、および王家財の不正使用への関与がある。ただし、聖務の中身を理解していなかった点、王太子の虚言に乗せられた点は考慮する。侯爵家での謹慎後、大神殿にて三年間、聖油瓶の洗浄と台帳写しを行え」
「洗浄……私が?」
「清らかな水には毎日触れられる」
後方で誰かがむせた。
笑ったのか、咳き込んだのかは分からない。
私はセリーヌ様を見た。
気の毒だとは思う。
けれど、彼女は私が毎朝四時に祈っていたことを知っていた。
その上で、「祈るだけなら誰でもできる」と笑った人でもある。
なら、三年くらい瓶を洗ってもいいだろう。
最後に、アデライド殿下は私を呼んだ。
「ルナリア・セイル。前へ」
私は祭壇前に進み出た。
「あなたには、王家専属聖女への復帰を――」
「お断りします」
一瞬、場が止まった。
アデライド殿下の眉が上がる。
「まだ言い終えていない」
「失礼しました。復帰という単語が聞こえたので、反射で」
「王家への復帰ではない」
「では聞きます」
殿下の口元が、わずかに緩んだ。
「王家から独立した聖女として、大神殿直轄の聖務長に任じたい。王都の公共聖別、国境聖標、孤児院と井戸の祝福を統括してほしい。王家は今後、聖務に口を出さない」
人々の視線が私に集まる。
私は七年間、王城の奥で祈ってきた。
王冠が輝くように。
玉座が保たれるように。
王族が毒に倒れないように。
継承印が正しく続くように。
でも、私が本当に守りたかったのは、毎朝パンを焼く人や、夜に井戸水を汲む子供や、寒い日に鐘の音を待つ老人たちだった。
王家だけを守る祝福なんて、もういらない。
「報酬は?」
私が尋ねると、神官たちの何人かが目を丸くした。
私は真面目に続けた。
「清らかな心だけでは、聖油は買えませんので」
アデライド殿下はそこで初めて声を上げて笑った。
「年俸は王家専属時代の三倍。未払い手当七年分も支払う。専用の執務室と助手を三名つける」
「休暇は?」
「月に六日」
「少ないですね」
「八日」
「契約書にしましょう」
「そう来ると思った」
その場で契約書が作られた。
今度は私が先に署名した。
続いてアデライド殿下、大神殿長、書記官。
聖別台帳が淡く光り、大神殿の大鐘が鳴る。
ごおん、と腹の底に響く音。
偽りのない誓約を祝福する鐘だった。
エドガル元王太子が騎士に連れて行かれる。
彼は最後まで私を睨んでいた。
「ルナリア! 私を見捨てるのか!」
私は振り返った。
「殿下」
もう殿下ではないけれど、最後なのでそう呼んだ。
「私は一度も、あなたを見捨てていません。七年間、毎朝祈りました。報告書も出しました。署名の前にも確認しました」
元王太子の目が揺れる。
「それでもあなたは、自分で私を捨てたんです」
彼は何かを言おうとした。
けれど、言葉にはならなかった。
騎士たちが彼を連れて行く。
その背中は、金色の継承印があった頃よりずっと小さく見えた。
セリーヌ様も別室へ運ばれていった。
桃色のドレスからは、まだ黒い灰が落ちている。
*
審問が終わったあと、大神殿の外はよく晴れていた。
王城の方角には修理用の足場が組まれ始めている。
玉座の肘掛けにも黒ずみが出たらしく、王家の職人たちが慌てて補修しているそうだ。
新しい玉座には、聖女の祝福をかけないことになった。
王は自分の尻で、椅子の固さを覚えるべきだ。
後日、北部修道砦から一通の写本が届いた。
差出人は、元王太子エドガル。
中身は、私が七年間出し続けた聖務報告書の写しだった。
余白に、震える文字で一言だけ書かれている。
『読んでおけばよかった』
私はその手紙を読み、机の引き出しにしまった。
返事は出さない。
代わりに、今日の聖務報告書を書いた。
王都東区の井戸、異常なし。
下町夜警灯、異常なし。
孤児院の朝鐘、よく鳴る。
旧王太子の継承印、再発現なし。
最後の一行だけ、少し筆圧が強くなった。
私は羽ペンを置き、窓の外を見る。
大神殿の庭では、洗いたての祭服が風に揺れていた。
胸元に王家の重たい紋章はもうない。
その代わり、銀の鐘が軽く鳴る。
あの方の継承印は、三日で消えた。
でも、私の新しい居場所は、そう簡単には消えそうにない。




