彼女が愛した彼の代わりに
アデリナは私の親友だ。
初めて会ったのは、同年代の令息令嬢が集められた、カミーユ第二王子の六歳の誕生日パーティーの会場だった。婚約者候補や、側近候補の選定を兼ねた集まりで、両親以外のたくさんの大人に見守られながら初めての社交をこなす。会場には伯爵家以上の面々が揃っていた。
相性が良ければカミーユ殿下とお近づきになれるかもしれない。ただ、三つ上に第一王子のケイマン殿下がいらっしゃる。カミーユ殿下とのご縁を頂いても、野心溢れる両親を喜ばせることはなく、なんなら気に入られない方が良いと考える家もあった。明確な派閥があるというわけではないが、どちらがより王太子に近いのか、それを考える家もあったということだ。
そんな中で、私がカミーユ殿下に気に入られてしまったのは不幸せな出来事だったのかもしれない。裕福なキュレーター侯爵家令嬢のアデリナ、新興のサンタル伯爵家令嬢のジュディス、古くからあるワイオミン侯爵家の一人娘の私。私たち三人は一緒に王子妃教育を受けることになった。
私はセイディ。私の家のワイオミン侯爵家とジュディスの家のサンタル伯爵家は不仲で有名だった。先代、私の祖父が輸入品の権利で揉めて負けたとかで、怨嗟の言葉を聞いて育ったという父はサンタル伯爵を毛嫌いしている。そんな父もまた彼に商売で負けた。
サンタル伯爵は私の母に恋心を募らせていたらしく、横から掻っ攫った父の事を嫌っているという噂があった。父は恐らく当時はサンタル子爵だった彼の人への嫌がらせで母を娶った。両家の争いの中で一番割を食ったのは母だと思う。私には良い両親である彼ら夫婦の間に、微妙な壁があるのに気付いたのはいつの頃だったか。
社交の場で父から母への甘い言葉や献身的な行動は有名だったようで、何度か羨ましかったとおばさま方に聞かされた。普段の冷めた二人を見慣れた私には、母を堕とすための、攻略するためだけの言動だったのだろうと思えた。
母は結婚したらこんなものと納得しているようだけど、時々寂しそうな目をしている。母はサンタル伯爵を愛していたのではないかと考えたこともあった。愛し合う人との結婚に夢を見た少女の想いをズタズタにしたのであろう男の、くだらない満足感。そんな風に思えて仕方なかった。でも父も母も私を愛しているのは間違いない。とても大切に育ててくれた。大好きな二人の間にある何か分からないものに傷ついていたのかもしれない。
カミーユ殿下の本命は私、と殿下は言う。恐らく王家の本命はアデリナ。キュレーター侯爵家は貿易で財を成した家で、膨大な持参金と共に人脈を王家にもたらすと言われていた。私の母は現キュレーター侯爵の異母姉。キュレーター侯爵位はバーレ公爵家が持っている爵位の一つで、母はバーレ公爵の前妻の娘であった。アデリナの父親は母の異母弟。そう、私とアデリナは同い年の従姉妹だった。
私の生家、ワイオミン侯爵家は家の歴史が長く、元々持っている財も大きい。父の代になってからは少しずつ減少してはいるが、まだまだ数代は保つ。ただ、その財は性質上王家が使い込むのは難しく、動かせるお金が多そうなキュレーター侯爵家を望んでいると噂されていた。
もう一人の候補者、ジュディスのサンタル伯爵家は新興の貴族家で、父が負けた輸入品の販売を元手に、子爵家から伯爵家に陞爵した家だ。サンタル伯爵夫人の生家が金に物を言わせて捩じ込んだとも言われていた。王家からしたら単なる数合わせ。しかしジュディスは快活で、私たち三人の中では一番愛らしい見た目をしていた。
三人の王子妃教育が始まってから数年後、殿下の側近候補のアルバン・バーレ公爵令息とクリストフ・ディダム侯爵令息を加えた六人での交流が始まった。彼らは私たち三人がカミーユ殿下と結ばれなかった場合の婚約者候補でもあった。もちろんアルバンは私とアデリナの従兄弟だ。元々はジュディスの婚約者候補だったのだろう。
王宮に六人で集まり、このベルメルク王国の歴史や近隣諸国の言語、文化、論理的思考や、交渉の仕方など、次代の王を支える集団としての英才教育を施されていた。仲間内で結婚してくれれば都合がいいと思われていたのだろう。
その未来に翳りが見えるようになったのは十三歳。王立学園の中等部で共に学び始めた頃だった。三人の男性とジュディスの距離が妙に近い。私たちはカミーユ殿下の婚約者『候補』であり、婚約者ではない。ハッキリとした関係ではないのだから、個々人が親しくするのは憚られる関係のはずだった。三対三になるはずが、一対三とそれ以外という構図が出来上がった。
男性三人とジュディス、それ以外の存在になった私とアデリナ。聡明かと思われたカミーユ殿下も、従兄弟であるはずのアルバンも、冷静だと思っていたクリストフも、全てにおいてジュディスを優先する。カミーユ殿下がエスコートをし、その後ろにアルバンとクリストフ。その後ろを私とアデリナが歩く。
なぜか六人で行動し続けなくてはならず、ジュディスの気分を害するという理由で私とアデリナは意見を言うことを禁じられた。拘束力のない決まりとはいえ、カミーユ殿下にそう言われてしまえば逆らうわけにもいかない。いつからか私とアデリナはコソコソと手紙をやり取りするようになった。
最高位の人に従い、自分よりも家格が下の女性の機嫌を取る。矛盾した状況下で見つからないように送り合う手紙は、生活のちょっとしたスパイスのようなものだった。『候補』でしかない私が一言『辞退する』と言えば終わる。カミーユ殿下は引き留める権利を持たない。
自分よりも家格が下の女性に負けるのが嫌だったのか、カミーユ殿下が好きだったのか、アデリナと一緒にいたかったからなのか。ただ、六人でいることにこだわっていたように思う。決断をしなかった。
その手紙がジュディスに見つかり、なぜジュディスを仲間はずれにするのだとカミーユ殿下に叱責されるまでは。ひどいと泣くジュディス。冷たいと罵る彼ら三人。私を保っていた何かが壊れ、笑顔など作れないままカミーユ殿下に告げた。
「婚約者候補を辞退させていただきます」
傷付いたような顔をするカミーユ殿下の気持ちが分からない。傷付ける側にいたから私とアデリナの受けた屈辱が分からないのだろう。自分よりも下位の令嬢からの棘を受け入れて、場を丸く収めてきた私たちの努力が霧散した瞬間だった。
ジュディスの言葉が思い出される。
「愛のない結婚は苦しいのでは?」
「カミーユは私が一番可愛いといつも言うのよ。王家に伝わる宝石も私に身に付けてもらうのを待っているだなんて。やっぱりそういうことなのかしらね」
「いつまでも縋り付いているのはみっともないと思うわ。愛されていないのなら辞退するべきよ。あなたが言えば終わらせられるのだから」
私はカミーユ殿下に恋心を持っていたとは思う。見た目が整った彼は優しくて素敵な人だった。幼い私が夢見た王子様そのもの。けれど、彼は私の心を守らず、場の雰囲気を優先させた。幼い恋心などズタズタに切り裂かれてどこかへ飛んでいってしまった。側近の二人との婚約も固辞し、私はその五人から逃げた。
両親は相談もなく結果だけ伝えた私の決断を受け入れ、辛い状況に気付けなくてすまないと抱きしめてくれた。しばらくは家でゆっくりするといい、学園も別に卒業しなくて構わない。何なら隣国マキュバルリに留学を、とトントン拍子に話が進み、本当に留学することになった。
アデリナは両親から大きな期待を寄せられていて、何なら私が辞退したことで、王子妃に内定してしまった。やはり経済的にも王家にとってキュレーター侯爵家は魅力的だったようだ。逃がさないという圧を感じた。
六人の輪から私が外れたことで、標的はアデリナだけになった。愛されていないのに王子に縋り付いているという噂が流れた。アデリナからの手紙でそれを知った私はある計画を実行することにした。
マキュバルリにアデリナを招いたのだ。私の両親が娘に会いに行く旅程への同行という形で国境を越えた。貴族女性が一人で国境を越えるのは難しい。ましてや未来の王子妃。伯母と姪の関係が役に立った。
私にはアデリナはマキュバルリでの生活を楽しんでいるように見えた。「水が合うってこういうことなのね」と解放されたように笑うアデリナ。そう、彼女は笑顔が似合う人だった。
ベルメルクとマキュバルリ、山を挟む二国は短い時間で行き来ができる距離にあるのに考え方や価値観が異なる。アデリナも私もマキュバルリの方が水が合うのかもしれない。息がしやすい。私がこちらで知り合ったイグナーツと彼の友人。四人で過ごす時間はあの六人で過ごした時間よりも馴染んだ。
イグナーツはマキュバルリのキャマス侯爵家の嫡男で、なるべく遠い関係の女性を結婚相手として探していた。その難題のきっかけを作ったイグナーツのお祖母様は占いがお好きなのだそうだ。好みの女性に出会えるとは思っていなかったから必死だったのだと頬を染める彼は愛らしかった。
イグナーツとの婚約話が進む中で、私たちはたくさんの話をした。性格や考え方は正反対なのに、アデリナ以外でこんなに話し易く、趣味が合い、感情の感覚が似ている人は初めてだった。せっかちとおっとり。理論派と感情派。猫好きと犬好き。でも、同じタイミングで同じことに笑う。許せないと思う内容。大切にしたいと感じること。
カミーユ殿下からの私とアデリナへの態度を聞いて、彼はこう言った。
「それは屈辱的だったろうね。そういう態度を取るのは理解できないな。セイディの関心が欲しくて嫉妬されたかったのか、縋られたかったのか。いや、それとも単にそのジュディス嬢の色香にやられたのか。いずれにせよ稚拙としか言えない。気の毒に」
良かった、彼はこちら側の人だと私は安堵した。
「僕だったらもっとセイディのことを大切にするのに……セイディの配慮にも気付かず、自分の甘さにも気付けないような鈍感なその男が王族でいることの意味とは何だろうね」
考え込んだイグナーツは私が用意したお菓子を食べ続けている。甘党のようだ。険しい顔で可愛らしく少しずつお菓子を頬張る姿。彼を見る自分が微笑んでいることに気付いた。彼が愛おしい。幼い恋心とは違う感情。
微笑んだ私を見たイグナーツは心底嬉しそうに笑った。
「セイディは笑顔が似合うよ」
ああ、私はカミーユ殿下の婚約者候補として過ごすうち、いつから笑うのを忘れていたんだろう。我慢するのが当然。機嫌を取るのが当然。自分の感情を仕舞い込むのは当然。
ジュディスやカミーユの機嫌が何だというのだ。お互いに尊重し合えない関係になぜ盲目的に従っていたのか。『私』は『私』を無視していたのだ。誰より『私』を守る立場にいるというのに。
私とイグナーツの婚約が整い、秘密裏にワイオミン侯爵家の財産をマキュバルリに移し始めた。共に在りたいと望んでくれた使用人も少しずつこちらに家族ごと移り住む。ワイオミンの執事家族が来るのに合わせてアデリナが再来した。
こちらで体調を崩したと伝えて時間を稼ぐ。未来の王子妃の体調不良の理由が何だったら両王国間に遺恨を残さないか、何度も話し合った。私たちはこちらの国の方が医療が進んでいることに目を付けた。
慣れない旅の疲れから季節病を患ったアデリナ。十分な体力があれば発症しないその病。過労のせいか発症してしまい、王子妃として相応しくない状況になったので婚約を解消したい、とカミーユにだけ不妊を匂わせた。
こちらの思惑通りに騒ぎ立ててくれたカミーユのおかげで、婚約は白紙になった。カミーユは嬉々としてジュディスを婚約者に据え、無用とされたアデリナは両親から勘当された。
そのままイグナーツの家の養女に収まったアデリナはアデリナ・キャマスとしてイグナーツの友人の一人との婚約が結ばれた。伯爵位の彼はアデリナに一目惚れだったと後から知った。
私の両親はマキュバルリに亡命。先祖からの財産は移せる限りは移した。残りは領地ごと国に納めたからか、手際よく手続きは済んだ。キャマス家が所有していた子爵位を譲られ、父はマキュバルリ王国のワイオミン子爵となった。
私とアデリナはマキュバルリで残りの学生生活を楽しみつつ、こちらの国での人脈を拡げていった。知的で洗練された同級生に囲まれ、好奇心を十二分に満たす、素晴らしき日々だった。キラキラとした青春の思い出。
そんなある日、ジュディスの父親、サンタル伯爵が我が家を訪ねて来た。たった一人で、闇夜に乗じての訪問だった。通された居間でサンタル伯爵を初めて間近で見た私は本能的に『似ている』と感じた。普段、鏡の中で見る素顔の自分に。
動揺したまま、ソファに座った。サンタル伯爵が慈愛の籠った眼差しで私を見た時、ああ、間違いないと思った。
「おとう、さま?」
私がそう零した瞬間、母は顔を覆って泣き始めた。父も泣くのを我慢するような辛そうな顔で上を向き、懸命に涙を堪えているようだ。
サンタル伯爵は泣き笑いのような顔で首を横に振った。
「……いいえ。あなたのお父様はこちらのワイオミン侯爵、いえ、今はキャマス子爵でしたか。彼があなたがお父様と呼ぶべきただ一人の人物ですよ」
と言った。私の両の目にも涙が込み上げた。
「……どう、して?」
「ある男の昔話を聞いてください。その男には誰より愛する女性がいました。しかしその男は身分が足りず、経済的にも利点がなく、結ばれることは叶いませんでした。その男にはある友人がいました。家同士の仲が悪く、表立って仲良くすることは叶いませんでしたが、誰よりも気が合う親友でした。こっそりと仲を深めた二人はお互いの悩みを語り合いました。親友は子を作れる体ではなく、男には駆け落ちをする以外結ばれない最愛がいると。その男たちは表面上は対立している。だから誰にも疑われない。そう判断した彼らはある決意をしたのです」
まさか、托卵……。
「なぜ、それを私に伝えたのですか?」
「自白剤を使われる可能性があるのです。それと、最期に愛する者たちに一目会いたいという望みを叶えるために」
母が嗚咽した。
「近々、その娘と両親は取り調べを受けるでしょう。十中八九自白剤を使用されます。その娘はやり過ぎました。ある男性を操ってその男性の兄の立場を狙ったのです。その男はその娘の父親が誰なのかは知りません。書類上の妻が嫁いで来た時にはもう他の誰かの子を身籠もっていたのです。代わりに、彼女の持参金は莫大なものでした。それを元手に貿易の争いに勝った。その結果、その男は愛する女性と結ばれるに足る爵位に達した。人生とは何と無情なものだと彼は思ったそうです」
私は叫びそうになる口を押さえた。こちらの国で充実した毎日を過ごしていた間、ベルメルクの情報は見ないように、聞かないようにしていた。こちらの国にとっては取るに足らない小国である。自分から情報を取りに行かないと伝わってはこない。
「その男は娘のやらかしを知るや否や、金目の物を持って愛する者たちのもとへ駆けつけました。不名誉な事実が愛娘に伝わったとしても、望まぬ事態が起き、全てを自白してしまう前にせめて自分の口から真実をと思ったのです」
涙が溢れた。私は顔を覆った。涙が後から後から零れ落ちていく。
「セイディ嬢、お願いです。たった一度でいいのです。抱きしめさせてください」
私は頷くしかなかった。ゆっくりと近付いて来たサンタル伯爵は、ゆっくりと手を伸ばし、私を恐る恐る抱きしめた。声を上げないように泣く彼の腕に力が入る。誰かが私たちを抱きしめた。もう一人加わり、私たち四人は泣きながらしばらくそのままでいた。
部屋の時計が一回鳴った。それを合図に私たちは離れた。持っていたハンカチはもう役に立たない。サンタル伯爵が私に刺繍入りのハンカチを渡した。濡らしたくなくて困っていると、母がタオルを渡してくれた。その時、サンタル伯爵は母を抱き寄せた。父に促された私はその部屋を出た。
「セイディ、僕の愛おしい娘。僕には君を大切に育てたという自負がある。どうか、幸せになってほしい。歪な友情に巻き込んでしまってすまない。彼らは皆、その巻き込まれた子を心底愛しているのだと知っていてほしい。生きる希望であったその子に心底感謝してもいる。お陰でここまで生きてこれた。愛しいセイディ、今夜はゆっくりおやすみ」
私の額に優しく口付けて、父は母がいる部屋に戻って行った。
私が部屋に戻ると、出迎えた侍女は泣き腫らした私を見て驚いた。濡れタオルを貰い、目を冷やす。泣き疲れた私はそのまま眠ってしまった。
翌朝は昨日のことは夢だったかのようにいつも通りだった。ああ、両親は私が成長する間、ずっとこうして平穏な家庭を演じ、本当に愛する人や友を守り続けて来たのだと思った。私も結婚間近の幸せな娘を演じた。そうするのが最善だと思ったから。
あの夜から一週間が過ぎた頃、アデリナからカミーユたちに何が起こったのか知らされた。王太子妃の座を狙ったジュディスがカミーユに第一王子の婚約者を襲わせたのだと言う。そういう治療に使われている薬を二人に盛り、既成事実を作らせたらしい。しかし第一王子はジュディスにつけ入らせなかった。婚約者はそのまま第一王子に嫁ぐのだと言う。
何か言ってくるような輩は我々の敵だ、と第一王子が噂を流した。なぜならジュディスによって、兄の婚約者への横恋慕という物語は言いふらされた後だったからだ。無防備にもジュディス自ら。薬を盛った直ぐ後の夜会で、なぜカミーユのエスコートではないのかを説明し、婚約者の入れ替えを匂わせた。その衝撃的な物語は一夜のうちに知れ渡ってしまった。
第一王子はそれを単なる噂だと蹴散らせ、彼の婚約者を貶めるようなことをすれば家門ごと潰す、暗にそう仄めかした。見せしめのように、発端となったジュディスと両親が処刑されることになったのだそう。ただし、父親のサンタル伯爵は金目の物を持って出奔後行方不明。物語の主人公であるカミーユは離宮で密かに監禁されているという。生かさず、殺さず、喋らせず。
仲の良かった時もあったカミーユとジュディス、一週間前に会ったばかりのサンタル伯爵。彼らの辿り着いた人生の終焉に何と言っていいのか分からなかった。イグナーツが私を気遣ったのか、私の肩を抱いた。肩を撫でて慰めようとしてくれる。今日は四人で学校をサボろうと、アデリナの婚約者も誘って四人で街に繰り出した。
観劇をして流行りのスイーツを食べ、街をただ歩く。こちらの国は警備が行き届いていて余程の裏道にでも入らない限りは安全だ。ただ、四人とも今日の記念になるような品は一つも買わなかった。
家に帰ると母が泣いていた。今日の午後サンタル伯爵家の指輪を口に含んだ男性の遺体が発見されたそうだ。この国からは遠い街の片隅で、身包み剥がされた状態だった。私は黙って母を抱きしめた。彼女が愛した彼の代わりに。本当の彼の姿は私たちだけが知っている。
それからは平穏が続いた。イグナーツと結婚した私は三児の母に、イグナーツの友人と結婚したアデリナは二児の母になっていた。その幸せがずっと続くと思っていたある日、アデリナが襲われた。犯人はカミーユの母、ベルメルク国王の側妃だった。
側妃は王太子殿下の粛清の手から逃れて、こちらの国の友人を頼って亡命していた。王都のカフェでたまたま幸せそうなアデリナを見て、手元のナイフで襲い掛かった。非力な女性の犯行であったこと、一緒にいたアデリナの夫がすぐ取り押さえたことでアデリナの怪我は小さかった。王子妃教育の時には見たことのないような笑顔で幸せそうだったのが、腹立たしかったのだそうだ。
その時、アデリナの子供たちはまだ幼かった。子どもを自分の手で育てていたアデリナは恐らく過労状態だった。新しい環境で、頼れる両親もおらず、小さな頃から自分の力で問題を解決してきた彼女は、無理をするのが当たり前になっていた。
その小さな傷は、アデリナに深刻な状態をもたらした。寝たきりになってしまったのだ。それを重く見た側妃の友人は、側妃をベルメルクに帰国させた。友だと思って心を砕いた自分の顔に泥を塗ったと、かなりお怒りだったそうだ。
側妃はマキュバルリの貴族からの抗議を受け、ベルメルクの正妃の監視下に置かれた。国からの謝罪の言葉と共にアデリナに慰謝料が届けられた。しかし治療の甲斐なくアデリナは旅立った。この出来事は私たちを悲しみの海に突き落とし、生きる気力を失わせた。人はこんなに簡単に生きる気力を失うのだと、あの時父に言われたことを思い出した。
成長期にあった子どもたちは毎日変化していく。彼らの生きるエネルギーに、私たちは無理をしてでも気力を漲らせる以外なかった。アデリナの夫は再婚はしないまま、私や彼の両親、私たち家族を支えに子育てに奮闘した。みんなとにかく必死に生きた。
古くからあったベルメルクの貴族は徐々に数を減らし、新興の貴族家が増えた。それに伴い、切り売りされた領地は段々と小さくなり、国力が衰えたと言われている。マキュバルリでは議会ができ、王族と、国で選出された議員とが国について話し合うようになった。決定権は王にあるが、議会からの提案が有用でこちらの国はどんどん発展している。
アデリナの娘と私の息子の合同結婚式の日に友を想う。共通の友人も多く、家族のように過ごしてきた私たちらしい、和やかな結婚式だった。二組の新婚夫婦が幸せそうに笑っている。
テーブルの上に飾られたアデリナが、私に微笑みかけたような気がした。
完