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プロローグ 夕焼けの挙句に

TAT←最近ハマっている絵文字

「起きてください。お兄様」


 今日も今日とて、本日もまた、毎日変わらず。


 俺の一日は、妹の揺さぶりに起こされて始まる。

 

 顔を洗って、口を濯いで。ぼーっと……。


 颯爽と通り過ぎる時間に置いて行かれながら食卓へと足を運び、妹から受ける本日の献立の説明は海馬に刻まれず、舌に温かい情報を載せて、少しずつ意識を醒ませていく。

 

「お兄様、身なりを整えますので顔を上げてください」


 そして、いつものように世話を焼かれながら、温かい味噌汁を喉の奥に流し込む。


 妹は優秀で、こうやっていつも俺の世話をしてくれる。世話——いや、やっぱり介護とかにしておこう。そっちのほうが表現としては適切な気がする。それに、兄として、妹の献身を言い表す単語にまで甘えるわけにはいかない。


 というわけで、髪のセットから制服のリボンまでの身だしなみを妹に任せ、妹から許可が下りれば、俺は学校に登校——というのが、毎朝のルーティンだ。


「お兄様、本日もお身体に気を付けて……いってらっしゃいませ!」


「おう、いってくるよ」


 私立日高天ノ丘学園。俺と妹の住む集合住宅から徒歩十五分の場所にある、中高一貫のとても大きな学校だ。どれぐらいの広さか詳細は知らないが、遊園地を建てるのに必要なくらいの敷地はある。俺は現在、そこに高等部の一年生として在籍している。


 眠さで半目のまま、朧げな視界を使って道を突き進む。何台か、通り過ぎる乗用車の音に気を付けながら住宅街を進むと、大きな坂道に出る。これを登っていけば、晴れて私立日高天ノ丘学園の校門というわけだ。


 俺の所属するクラスは一年D組で、その教室はただでさえ大きい校舎の端にある。そのため、校門をくぐったあとも、油断できない距離を歩かされる。教室の位置を下足室の近くにしなければいけない法律は、いつ制定されるのだろうか。もう夏なので、そう長くは待っていられない。


そんなことを考えているうちに、いつの間にか教室までたどり着いた。教室まで遠いとはいえ、一応、ゆっくりと歩いて三分ぐらいでたどり着く距離ではある。まあ、そのぐらいで着いてくれなければ、移動教室だけで休み時間が終わってしまうことになるよな。

「あ、天鐘ちゃん。おはよーっ」


「天鐘ちゃん、今日もすごくかわいいよ」


「綺麗でいいなぁ……今度使ってるトリートメント教えてよー」


 教室内では、女子生徒による、いつも通りの挨拶が交わされる。


 毎日毎日、よく気持ちのいい挨拶ができるものだ。挨拶するのがしんどい日、面倒な日があったり、挨拶に飽きたりはしないんだろうか? 俺が見ている限り、いつも元気な気がするな。しかし、彼女たちももれなく、あの感じでいて、案外簡単なことで機嫌を損なうらしい。女子高生という生物は難解だ。いや、まあ、しかし——


「天鐘ちゃん天鐘ちゃん。このメイド服……どうかな、似合うと思うんだけど」


「今度みんなでカラオケとか行かね? なぁ天鐘ちゃん」


「天鐘ちゃん……もしかして髪切った?」


 うん。だからといって男子の考えていることがわかるわけではないんだよな。下心を隠す気とかは全くないんだろうか……。というか、お前はいったいどこを見て髪の毛を切ったと判断したんだ。

「ダメだよ、君たち。また天鐘ちゃんに気持ちの悪い言い寄り方して」


 朝だというのにやけにテンションの高い男子生徒の集まりを掻き分けて、ショートカットの少女がきらきらと笑いかける。


「おはよ、天鐘ちゃん。今日もお団子、すっごく似合ってるね」


 これはどのクラスにも一人はいる、『男女分け隔てなく仲良くできる女子』というやつだ。クラスメイトに「気持ちの悪い」なんて言っても許されるのは彼女のような存在だけだろう。


「……あ、あたし一時間目の準備しなきゃだから、天鐘ちゃん。じゃあまたね」


 

 と、ここまでが日常。毎日、俺が見ている景色。そう、この教室ではこのように、ほぼ毎日、似たようなやり取りが繰り広げられている。


 こう言うと、なんだか日常に飽き飽きしているとか、もっと刺激を求めているように聞こえるかもしれないが、俺自身、実はこんな日常にすごく満足しているのだ。


 ところで、俺がこの教室の、いったいどこにいる誰なのかというと——教室の隅で机に突っ伏している男子生徒……ではなく、その隣で愛想笑いを浮かべながら、みんなに手を振っているブロンド髪の長髪、そう、こいつが俺、日高天鐘ひだかあまねだ。腰まであるプラチナブロンドの髪は、実母が国際児のため、母方からの遺伝になる。そして、その髪の左サイドにあるお団子ヘアーは妹の趣味……らしい。このハーフアップ? とかいう髪型は、俺のきめ細やかなブロンド髪によく似合うからと言って、妹が毎日セットしてくれている。クウォーターで遺伝形質が遠いからか、妹は黒髪なのだが、俺の髪が羨ましいらしい。色々と妹には頭が上がらないので、俺の髪形は妹に一任しているというわけだ。

 

 というわけで……一応不本意ながら、生まれ持った容姿が原因で、俺は一見すると少女にしか見えないらしい。そのため、高校生活が始まって早二ヶ月、このクラスにおいて俺の立場はマスコットキャラクターのようなものとなってしまったのだ。

 

「あーまぁーねぇーし。…………相変わらず、挨拶を返したりは……しないのですね」


「開智、お前は事情を知っているだろう? むやみに会話なんてするわけにはいかないんだよ、俺は」


 教室の隅、つまりは俺の隣で寝ていたこの男の名前は勅使ケ原開智てしがわらかいち。目元まである長いパーマが特徴の男で、本当の性格や趣味、素顔など、何から何まで不明不明。毎日話している俺ですら、言葉を話すテンポが遅いことや、一人妹がいることぐらいしか知らない。実は、これでもこいつと俺は高校入学前からの知り合いだったりする。また、とある事情で俺は他人となるべく会話をしないようにしているのだが、こいつ程会話のテンポが遅い相手なら、少しぐらい会話をしても問題はないと判断した。今では、この学園内で唯一友人と呼べる存在だ。


「もちろん……、わかっていますともー。でも……そのうえでいわせてもらいますー……、やっぱり、過剰、なんじゃないかとー……そうおもいますー」


「そんなことはない、備えあれば憂いなしというやつだ。というかそういうお前こそ、俺以外の誰かと会話をしているところなんて、見たことないぞ」


「僕はいいんですよー……部活動でたっぷり会話していますー」


「嘘じゃないだろうな」


 俺がそう聞いたところで、開智は身体を起こし、じっとこっちを見つめてくる。……まあ、前髪で目元なんてほとんど見えないのだが。


「日高氏。……コミュニケーションは駆け引きや勝負じゃあないんですよ……ただの意志疎通が……そんなに怖いんですか?」


 言うじゃないか……こいつ、会話の基本である目を見るという行動を、髪で無効化しているくせに。まあ、心の内で文句をいくら言ったとしても……負け惜しみみたいになるだけか。この言葉に言い返すことはできない。開智も開智なりにこの二ヶ月、ちゃんと俺のことを見ていたのだろう。


 まあ、どちらにせよ、いずれはどうにかしなければいけない問題……か。


 開智の言葉を受け止めているうちに、校内に予鈴が鳴り響く。


 会話の途中ではあったが、ホームルームが始まるのでは仕方ない。俺は開智に「善処する」とだけ伝えて、教室の右側最後列にある、自分の席へと向かった。

 

 俺の席は開智から見て反対側、廊下側の最後列だ。よって、俺の座っている席からも、クラスの様子は無駄によく見える。後ろ姿ではあるが、授業中落ち着きのない奴、寝ている奴——等、目立つことをしている奴は、嫌でも目に入るのだ。さて、まあ物は試しとも言うし、それを参考にして(とはいっても、できるかどうかは別だが)話しやすそうなクラスメイトでも探してみるか。要は、一度試しに開智の提案を受け入れ、自主的に行動してみようというわけだ。

 

 このままいつまでも誰とも会話しない状態が続けば、妹に心配をかけるかもしれないし、な。


 ホームルームが終わってすぐに授業が始まったが、朝の気怠さに抵抗できず、ぼーっとしてすごすうちに終わっていた。二時間目の授業は別教室で行われる、休み時間の内に次の教室まで移動しなければいけない。この学校はその広さ故、教室を移動するのですら一刻を争う。そのため、クラスメイト達は、こぞってテキパキと俊敏な動きで準備を整え、次々に教室をあとにする。みんなこの二ヶ月で、すっかりこの環境に慣れたようだ。勿論、急がなければいけないのは俺も同じ。クラスメイトたちの様子を横目に、自分の教科書と筆記用具はきっちり準備していた。筆記用具、ノート、教科書、ファイルを重ねて一つにまとめると、諸々が零れないようにそれを持ち上げる。


(まあ……誰が話しかけやすそうな相手かなんて、こんなにすぐは分からないよな)


「やあ、天鐘ちゃん。一緒に行こうよ」


 うおッ、びっくりした。


 急に背後から声をかけられることに慣れていないんだよ、俺は。どうか驚いたことに気付かないでくれよ。もし、これでイジられたりなんてしても、俺は対処法を知らないからな。

 

 さて、いったいどんな奴が不躾に俺を誘ったのか見てみよう——と振り返ってみれば、そこには先程複数の男子を掻き分けて俺に声をかけたショートカットの少女がいた。


 彼女の名前は牧原亥羅まきはらいら。容姿端麗、成績優秀……なんて人物の説明にはありきたりな四字熟語を当てはめるのにはもってこいの文武両道少女だ。しかし、満点続出の成績優秀者とはいえ、苦手な英語と数学では学年ワーストだったらしく、得意と苦手の差は激しいみたいだ。恐らく、記憶能力が優秀なのだろう。と、上から目線に解説してはみたが、実際のところどんなものかは知らない。噂話を盗み聞きしただけだし、まだみんな入学して一度しかテストを受けていない。一人の人間を評価する根拠としては、期間も試行回数も大きく足りていないだろう。


 その牧原亥羅なんだが……現在、なぜか口元を抑えて目を輝かせている。もう少し賑やかな性格だと思っていたが——というか何に感動しているんだ、こいつ。


「ねぇ……、今のもっかいやって」


——今の? 今のってなんだ、何もやってないけどな。


「ほら、フワって、見返り美人って感じのやつ」


「……え? なんのことを言っているんだ? それは」


「い、今の振り返り。……ほら、きゅるんって感じの、キラッ! フワっ! って」


 むしろ怪訝な表情で振り返ったつもりだったんだが、何を言っているんだこいつは。だって背後から奇襲を受けたようなもんだったんだぞ。そんな煌びやかな効果音付きで振り返るわけなかろうて。


「これで男の子だなんて。あたし……ナニかイケナイ扉を開いてしまいそう」


 唐突に変態設定を召喚して即攻撃してくるなよ。俺の気遣いと前述の丁寧な解説を返してくれ。


「そんなことより牧原、早くしないと遅刻するぞ」


「あ、そうだった。じゃあ……いこっか」


 流れで仕方なく……というか、まあ、開智に言われたわけだし、少しは積極的にコミュニケーションをとっていこうと思い、俺は、この牧原亥羅と共に次の授業に向かうことにした。


「それにしてもあれだね……ふふっ」


「どうしたんだよ」


「いやね、天鐘ちゃん……ちゃんと会話してくれるの初めてだなーって思って。いっつもお上品に微笑みながら手を振ってくれるだけだから」


 いったいどこの誰の話をしてるんだよ、仕方なく身振りで挨拶を返しているだけだし、俺のあれは引き攣った苦笑いだぞ。


 にしても、確かに、今まで沈黙を貫いていた人間が、突然会話を試みるのも不自然だよな……なんか適当に言い訳しとくか。


「べつに、今日はそういう気分ってだけだ」


「そうなんだー、でもいいよ。これからもたまにそういう日があってくれるとうれしいなー。でも大丈夫、どっちでもちゃんとかわいいから」


 なんだそれ、『かわいい』の前では思考放棄するのが普通なのか? もしかして、二ヶ月間手を振っただけでなんでも許される存在に昇華したのか? 俺は。


「いやあ……でも天鐘ちゃんってそんな感じなんだね」


「そんな感じ? 何か違和感でもあるか?」


「うーん。まあ存在自体がいい意味で違和感……っていうか、何だかあたしの常識が無理矢理書き換えられていく、みたいな」


「はい? ……具体的になんの話なんだ?」


「いや、天鐘ちゃんがその感じでちゃんと男言葉を使うもんだからさ——それにちゃんと声も低いし。美少女からしっかり男の人の声が聞こえて、脳がチカチカして常識を塗り変えられちゃう。性癖が歪んじゃったらどうしよう……みたいな」


 なんで変な方向性で常識を歪めようとしているんだよ。お前たちには、俺がいったいどういう生物に見えているんだ? あとそういうのは間に合ってるんで。一人物凄いのがいるんで。頼むから勘弁してくれ。


 よし、ここはさっさと話題を逸らしてこいつの性癖を死守しなければ。


「そういえばなんで今日は俺に声をかけて来たんだ?」


「あーそうだよね。いきなり声なんてかけちゃうのもおかしいよね」


「べつにおかしくはないと思うぞ。どのタイミングだって話しかけなければ、人間関係は始まらないからな。ただ理由が気になっただけだ」


 そう、まさに今、俺もそうやって人間関係に取り組もうとしている。勿論、試しにだけどな。


「実はさ、こうみえてあたし、友達と呼べる相手があんまりいなくてね。交友関係は広く浅くだからさ。でね、あいつ……最近学園に来てないじゃん。だから気軽に『ご一緒しましょう』って言える相手がいなくてー。あいつ以外の友達作んなきゃだからさー、天鐘ちゃん、このままお友達になってよー」


 なるほど、確かにそうだ。牧原の言う『アイツ』というのは恐らく成田考人なりたこうとのことだろう。成田考人は、所謂爽やか系イケメンというやつで、男女ともに分け隔てなく柔和に接するため、自然と周りに人が集まるタイプだ。牧原とはそれぞれ男子、女子のバスケットボール部に所属していた……が——先日、突如として成田はバスケットボール部を辞めてしまったのだ。クラスではその事実にみんなが大騒ぎしていたが、成田本人はそれから一週間、一度も登校していない。取り巻きの中でも、最も仲のいいはずの牧原なら、何か事情を知っているのだろうか……


「で、どうなのよー。ねぇー」


「え、なにが」


「あたしとお友達になってよー、天鐘ちゃーん」


 ああ、そういえばそんなことを言われていたな。


「うーん……まあ、いいか」


「え、ほんとに⁉ ……ありがとー!」


 これは案外、意外も意外だが、牧原は俺が現在抱えている悩みとは相性がいいようだ。開智と比べると、言葉を発するスピードにおいて、自転車と新幹線ぐらいの差があるのだが、ほぼ一方的に牧原が話しているうえに、俺は相槌のような返答をすればいいだけだ。会話に慣れるトレーニングとしては、難易度がかなり低い。これなら、たとえ休み時間の度に話しかけられたとしても問題ないだろう。


「じゃあ……これからたまにお話しにいったり、教室を移動する時に一緒に行ってもいいの?」


「べつにいいけど……成田が戻ってきたらそっちを優先してくれ」


「えー、べつに三人一緒でもいいじゃん。それに……考人のやつ、いつ戻ってくるかわかんないし、なんでこないのかも知らないし。もしかしたら、このまま学校辞めちゃうんじゃないかな……」


 なるほど、牧原でも成田の現状は知らないわけか。まあ、まだ高校生活も始まって二ヶ月だから、そこまで信頼されている関係でもないのは当然か。


「そう、帰ってくるといえばさ、天鐘ちゃんは知ってるかな? 織原さんのこと」


「ん? あーあの、まだ一度も登校して来ない女子生徒か」


「そう。最近聞いたんだけど、校内でそれらしき生徒を見かけたって人がけっこういるみたいなんだよね」


「同じクラスのはずだよな? 教室では一度も見かけていないな」


「まあまだ噂の段階なんだけどねー。でも、もし本当なら、保健室登校? ってことになるのかな」


 校内ゴシップとしてはなかなかに興味をそそられる見出しではあるが、実際気にしても仕方がないことなので、一旦忘れてもいいだろう。学園に来ているならそのうちいろいろ分かるだろうしな。


「お、着いた。じゃあね天鐘ちゃん。」


 いつの間にか化学室に着いていたようだ。俺と牧原の班は机がけっこう離れた場所にあるから、ここでお別れということになる。


(ふう……この数分で何日分もの会話をしたな。今日はもうゆっくりしよう。極力、人を避けて、帰ったらすぐにでも寝るとするか)


「ん。じゃあ」


「あっ次の休み時間、あたしをほっていかないでね」


まじかよ



 

「——ふぁーっ、んぐ」


 俺はスラックスのポケットから懐中時計を取り出すと、机に突っ伏して首を傾けたままの姿勢で、時間を確認する。


——時刻は十八時十二分。


 あのあと、結局休み時間の度に牧原に付き纏われ、昼食すら一緒に摂ることになった。このまま帰りも同行されることを恐れた俺は、ホームルーム終了と同時に、最も人通りの少ない棟の多目的トイレに籠った。そしてしばらく時間を置いてから、前に教師の一人から自由に使っていいと言われていた空き教室があったので、そこで念のために時間を潰していた。そして、そのまま寝てしまっていたようだ。……まあいいか。牧原はともかく、あの要注意人物だけはいつどこから湧いて出るか分からないからな。できるだけ時間を使って対策するに越したことはない。


「よしっ」


 状況を整理して完全に目が覚めた俺は、机から立ち上がり精一杯身体を伸ばす。二時間ぐらい寝ていただろうか。伸びをするだけで、まるで、肉体に蓄積されたすべての疲労を忘れられるような解放感だ。


 さて、通学鞄をもってそろそろ帰るか——と思ったが、空がいい感じに朱色に染まっている。


「少し夕陽でも眺めていくか。……屋上って解放されていたんだっけな」


 空き教室を出て、突き当りの階段をゆっくりと登っていく。この階段だけ最上階である四階に続きの階段があり、その先が屋上となっている。そして俺は運がいい。なぜなら、この無駄に広い校舎の中で、唯一屋上へと続く階段が一番近かったからだ。あまりに遠いと屋上まで上がる気を失うからな。……ところで俺、この数秒でいったい何回、「階段」という単語を使った?


 屋上へ続く階段を登ると、他の教室や部屋には使われていないような、碧色の重厚な扉が、まるで俺を出迎えるように構えられている。これは、解放されていないかもな。


 取り敢えず……ものは試しだ。ドアノブを捻ってみよう——あ、開いた。


 思ったより簡単に扉が開いて、なんだか拍子抜けだ。


 心地よい風の涼しさが頬を撫でる。風圧に前髪が持っていかれて、太陽による今日最期の輝きを直接受ける瞳に、掌で傘をつくりながら、ゆっくりと重厚な扉をくぐる。流石は巨大な校舎だけあって、屋上もかなり広い。一応、人間が立ち入れないようになっている場所はあるが、それでも漫画やアニメですら見たことのない広さだ。でも……、転落防止用の柵がない。恐らく何かのミスで空きっぱなしになっているだけで、こんな危険な場所は勿論解放されていないだろう。まずいな、念のためもう屋上には近づかないようにしよう——と考えたその瞬間。


 俺の眼に信じられないものが映った。


「——人だ」


 誰かが屋上の端にある膝丈程の塀に座って、下を覗いているようだ。……これは、飛び降る気か⁉ 緊急事態だ。早急に飛び降りを諦めさせなければ。……とはいっても、いきなり声をかけたりなんてすれば、それこそ驚いて転落……、なんてこともありえる。取り敢えずは、対象の飛び降り行為に直接、尚且つ物理的に干渉できる位置まで、気付かれずに接近する必要がある。それに、できればやりたくはないが……、最悪、相手の身体に飛びついてでも飛び降りを阻止しなきゃいけないだろうしな。それを考慮して、接近はなるべく遠回りで、左側から行こう。


 一歩、また一歩と対象までの距離を少しずつ縮めていく。


(頼むからこっちを向かないでくれよ……、まだこの距離じゃ最悪の場合に対応ができないからな)


 まるで一発アウト、掛け声なしの『だるまさんがころんだ』だ。しかも、できるだけ早く近づかないといけないタイムアタックでありながら、足音をたててはいけない縛りあるのハードモードだ。距離は五十メートルもないとは思うが、それでもかなり長く感じる。体力測定などでは数秒で駆け抜けていたような距離が、この条件下だと、持久走でもやっているような忍耐を要するとは思わなんだ。加えて、この学園指定の上履きはスリッパなんだが、これが動きづらい上に、浮いた踵の部分が地面を鳴らしそうで、常に気を配らなければいけないため神経を使う。煩わしいったら——はあ、俺も体育の授業で使う室内スニーカーを上履きとして常用していればよかった。何人かの生徒はそうしているし、室内スニーカーなら校則でも許可されている。


そろそろ保護対象の十数メートル後ろぐらいまでは距離を縮めただろう。入口からは人型程度にしか認識できなかった対象も、今ははっきりと姿形を言語化できる程の範囲にいる。夏服の後ろ姿だったので断定はできなかったが、今なら断言できる……、対象は、この学園の女子生徒でやせ型、髪は栗毛のサイドテール。まだ後ろ姿だけしか確認できてはいないが、こんな特徴の生徒は見覚えがない。上級生……なのか?


 そろそろ左に回り込むか、ここまで接近すると気配を察知されたりしないかも心配だ。重心の移動に気を配りながら、歩幅は大きく、ゆっくり移動しよう。


 ゆっくり、丁寧に回り込み、塀からは一メートルちょっと、保護対象の女子生徒からは十メートル弱程の距離を位置取る。これ以上は接近するだけで気づかれるかもしれない。慎重に……、ってどうすればいいんだ? 勢いで飛びつくしかないのか? でもどちらにせよ気付かれるなら、無理矢理にでも……、か? 


 失念していた。接近したあとのことは考えていなかった。いや、まあなんの準備もなしに行動を起こさなければいけない状況だったのだから、仕方がないことではあるのだろうけれど……でも、ここまできてしまったのだから、やるしかない状況なのも事実だ。そう、本当のところは、なんだかんだで平和的に解決なんて、御伽噺のように済む状況じゃない、なんていうことは解っていたんだ。だけど、失敗と死がイコールで繋がっている以上、簡単に次の一歩を踏ませては貰えない。タイミングを……よく見るんだ。観察は駆け引きの……基本だろ。


 

——俺はこのとき、二つ忘れ物をしていた。


 

 一つは常識。もう一つは心得。


 常識とは、当たり前のこと。目の前にいる相手が独立した思考で動く生物であること。だから突然立ち上がったり、両手を広げたりもするということ。そして常識を忘れていると、身構えてはいなかった『当たり前』のことに、その行動に、動揺や焦りが出てしまうこと。


 つまりは意図しないタイミングで飛び込まなければいけなくなったということ。


 そして、もう一つは心得。


 自身を知り、分析し、己の弱点を心得ること。つまりは今、自分の置かれている状況を思い返し、自分が今、精神を患っていること、問題を抱えていることを常に念頭に置くべきだということ。



 結果、——簡単に自分の死が用意できる場所へ来てしまったということ。



 少しだけだった。ほんの一瞬、脳裏をよぎった。ただそれだけだった……のに。


 ふわっと、浮かんだ。浮かべた。だけだった。


 この場所から落ちたら——「死んでしまえる」と、


 その瞬間、俺の身体は前傾姿勢のまま硬直した。


 べつに死にたいだなんて思ったわけじゃない。ただ少し脳裏をよぎっただけの、選ぶつもりの毛頭ない選択肢だった。だが、その選択肢は——他のすべての選択肢を執れないようにしたのだ。

 そう。それは、自殺衝動。


「——えっ、なに⁉」


身体を動かせなかったわけじゃない。すべてを諦めたわけじゃない。ただ、何も選べなかった。神経が細かく震えるような感覚が全身に広がり、感電でもしたように情報が閉じられる。脳は考える気力を失い、自分は動けない錯覚、そんな気がするだけだという事実の認識だけが、真っ白な頭の中に漂っている。



 上半身が空にもたれかかる、どこにも引っ掛かることなく、そのまま真っ逆さまに……



(綺麗な夕焼けだ。この夕陽に何度も癒された。落ち着く……この瞬間だけは、心の痛みを忘れさせてくれるんだ)


 地平線を染める大きな朱。黄金に似た輝きと、肌を包む温かさを放つ。夜を呼ぶ光。



 そうだ……、俺は、こんな夕焼けで死にたかったんだ。



「——やっと息が吸える」





更新は、時間ができたら、いつかすると思います。

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