12.潜入捜査(11)香り(セント)
12.潜入捜査(11)香り(セント)
深い溜息のあと、廊下を歩きながらゆっくりと深呼吸した。
ぼくの手はべっとりと濡れていた。
ミランダがナプキンで拭いていたけれど、匂いも残っていた。
香りの主成分がなんであれ、光や音と違って残ってしまう。
(アイドルと握手したときに「一生洗いません」とかいうファンがいるというけれど、不衛生でしょうに。アイドルはそのあと絶対にアルコール消毒をしているはずだし、けれど消毒をしたからといって汚れそのもの――分子自体を消すことはできない……)
そんなことを考えながら、旧館の化粧室に向かった。
隣にならぶ男子寮は古く、新館近くの女子寮は新しかった。
(トイレ問題か……)
昔のパブリックスクールは男子のみだったから(もちろん教官も)、女子トイレはないので共学校になった元男子校の女子生徒は職員用を使う場合が多いらしい。
茶泉学院も戦前は男子校だったから、魔女――珠子さんにそう聞いたことがある。
(もうすぐ夜か……)
夕闇がせまっていた。北緯五二度〇九分四二秒。かなり北にある。
稚内市が北緯四五度二四分五六秒だから、まだ上だ。
そして、寒い。日が落ちるとすぐに冷えこむ。
トイレに入って、右後ポケットに手をまわして、思いとどまった。
かなり手が濡れているので、このままだと唾液が付いてしまう。乾けば銀色に鈍く光ってしまう。
濡れた手のまま蛇口レバーをまわして、洗い流した。
(御褒美と言えなくもないけれど、ああしたことは愛する者どうしがすることであって……。まだヌメってる……)
好奇心から匂いをかいでみた。
確かに高貴な女性の香りがした。
(こうやって変態に染まっていくんだろうな……)
備え付けの手洗い洗剤に手をのばしたけれど、こちらも躊躇した。
(ダメだ……)
香料がキツすぎてぼくの肌なら赤くなってしまう。
よく洗ってからハンカチーフで水気をおとして、左後ポケットから除菌ウェットティッシュを取りだした。
(これは……)
出入口にあるアルコールスプレーで再度匂いを落とした。
無駄だった。
(これが本当の唾をつけるだな……部屋に戻りますか……)
シャワールームが男子寮にもあるけれど、タオルはないだろう。
(物陰に三名……)
夕日で影が長くなっている。
(手にバット? 銃はないな……)
校内で銃を所持しているのは警備部の者だけだ。
近づくにつれて、頭のなかで模擬行動をくりかえした。
相手も「いいか?」と囁いている。
(一、二、三!)
踏みだすと同時に、踵を返した。
ぼくがいた影に、三名のバットが振りおろされた。
空振り。
手がしびれて動けないところに、体を反転させたぼくの蹴り。
――とみせかけて、走り去った。
びっくりして倒れた先頭の一人に押され、三名とも尻餅をついた音が後ろから聞こえた。
人の気配がない男子寮の入り口に飛びこんだ。
寮内には監視カメラがある。
ぼくの視線に、カメラがこちらを向いた。
走ってきた三名が入り口の前で立ち止まった。
(あそこが境界線なのか)
ぼくを中国人だと思って嘲笑した生徒だった。
手にしたバットが折れていた。
「地球が球体だからって、それじゃあ打てないよ? 支点をあげようか?」
梃子の原理は、アルキメデスだ。
「決闘だ!」
代表が口にした。
「いいだろう。今夜、零時プラス1にボクシングで決着をつけよう。競技場の前で待っている。――ああ、逃げるなよ?」
「逃げるか!」
「思い知らせてやる!」
「血を見ることになるぞ!」
立ち去る三名を見ながら、ゆっくり後をつけた。
境界線を越えたぼくが、いきなり走りだした。
追いかけてきたぼくに、三名が立ちすくんだ。
持っていたバットを落とす者までいる。
三名を通りこすと、そのまま走り去った。
折れたバットを投げる音がした。
振り返り、蹴り落とす。
もう一度走ろうと動作をした瞬間に、三名が逃げ出した。
ぼくは笑顔で見送ったあと、素の表情に戻った。
(子守りは疲れる……)




