一目惚れが確信に。
オールド管轄の領土の中央、地球の自然管理のため、旧時代の遺物であるロストテクノロジを使うことが許される場所。
ミライが住んでいた街であり、巨大な要塞でもあるそれが、変形し地上を走る、巨大な船へとなる。
まさしく移動要塞、人のみを運ぶ、方舟だろう。
水陸両用の船は、他国の攻撃から避難するという建前の元、変形し北へ向かっていた。
オールド管轄の街に残った人を全て乗せ、それは今なお地上を走っていた。
だから時間稼ぎのため、ミライは戦うことになったのだ。
その方舟の部屋の一つ、ミライクラシックの部屋で、ミライは何をするでもなく、ソファーに座りながら虚空を見つめていた。
今は他国もいったん手を引く、策を考える為に引いてくれたので、こうして休憩するぐらいの時間は取れている。
が、魔物は相変わらず攻めてくるし、緊張状態がないわけではない。
ミライは無気力な状態が続き、何をするわけでもない、何を命じられるわけでもなく、強いて言えることといえば呼吸と栄養食を齧る食事。
その他にせいぜい次の油絵の構想と勉強と運動とソルトとのデートとボランティアぐらい。
いつものミライに比べれば、3割ぐらいの活動量だった。
「腹減ったな……」
だが、何かを食べようとは思えない。
肉を見れば、自身が殺した魔物を思い出す。
赤い血を見れば、自身が殺した人間を思い出す。
そして思い出せば、脳はその血みどろだけを考える機械へとなる。
「戦争に、飲み込まれた」
横になり、天井を見つめる。
窓の外は、移り変わっていく景色が広がっている。
「街が船になって、地上を駆けているのに、私はそれに関心を持つことも出来やしない」
アパシーな、他人や自身のことを考えられない、無気力状態で思考を続けても、それはグルグルと弧を描くような思考が続き、やがて内向きで意味のない結論と呼べるのか怪しいものを生み出す。
飲みかけていたミルクを飲み干して、洗い場に置く。
そして、流れで扉に手をかけ押し開ける。
今は何も考えず、外に向かって歩くべきだ。
さすれば思考も一緒についてこよう。
そう思って行動できれば、人間とは不思議なもので一定の成果はすぐに出る。
(あの魔物を殺したとき、私にはアレが味わったモノを同じように味わった。アレは何なのか)
廊下を歩き、すれ違う人を目で見送りながら、目的地へ歩を進める。
数分歩き、灰色の壁と何本もの剥き出しのパイプが見える、鉄臭い場所につく。
「どうした?なんか用か?」
アニマドールの待機場所、発射カタパルトには、絶え間なく動く人で溢れている。
その一人、顔見知り程度の男が話しかけてくる。
「自分の……フォックスドールの整備チェックです。自分でも確認したくて」
「お前も、パイロットじゃなくて整備士だものな。シンギュラリティなら、あっちの方に移動されたから気をつけろよ」
指を刺した方向を記憶して、会話を再開する。
「はい。ところで、他のアニマドールの修復の進捗はどれぐらい捗っているんですか?」
「ようやく半分……ぐらいかな。まあお前一人が戦うなんてことにはならないからな、安心しろよ」
今なお攻め続けてくる魔物に対しては、他の人が対処している。
「噂の、新型のアニマドールがあるらしいですね」
道中で聞いた話を出す。聞けばそちらに人員が割かれ、修復はローペースで進ませるしかないとか。
「ああ。恐らく4か5世代の物だから、あっちが優先されるしなぁ」
勘弁してほしいぜ、と付け加えたあと、再度フォックスドールがある方向を指差す。
「同じ方向にあるから、暇なら見てみるといい」
「ありがとうございます」
軽い会釈をし、この場を去る。
数分、同じような景色を眺め続け歩みを進めると、目的の白い鉄人形を見つける。
「隣のが、噂のやつ」
その隣、緑と青のメインカラーで、巨大なキャノンが四門、他にもバルカンやミサイルの発射口が見て見える。
コックピットへ入るため、そこへ繋がれた階段を登りながら、じっくりと品定めをする。
(モチーフは……わからない。亀か?高火力を主軸とした制圧型なのは見てとれるが、そこまでの高出力なら、四世代よりは後の性能か……?)
白い鉄人形のコックピットへ入り込み、思考を切り替える。
座り心地のよいシートに背中を預け、目の前のメインモニターの電源をつける。
「インターネットには繋がっているのだから、電子書籍を私のアカウントで読めるはず……」
慣れない操作に苦戦しつつ、タッチパネルのキーボードでパスワードを入力する。
「サインインは出来たから、あとは調べ物をするだけか」
無線のイヤホンを登録し、音楽を流す。
やはり思った通りというか、メインモニターが既存の、この再生期におけるPC類より性能は比較にならない媒体だ。
「この機能だって、補助的なものであって、本来の用途は機体のスペックを表示するためのものだものな」
通販サイトの、電子書籍の欄を見て、気に入った本を購入する。
何冊か、人の生態、特に脳の部分について記述されているであろうものを、読み漁る。
あの魔物を手にかけた時の感触は、脳がリアルに味わったモノが体にフィードバックしたもので、脳に何らかの異常が発生しているというのが、ミライの考えである。
そうして、音楽を聴きながら時間と共にページを進め、終わったら次のを読む。
知識を身につけ、必要な結論に一歩近づく。
これこそが教育の意味でもあり、このオールド管轄が実質的な独裁体制を持つ再生期における人の生き方でもある。
西暦の人類は、知識を身につけず、考えもせず、ただ堕落的な人生を送るだけだと聞く。
だから視野狭窄に陥り、個々の利益を追求する資本主義の社会を作り、そのシステムを進化も改良もせず、形骸化させ地球を食い潰す大きな蛆虫をへと変貌した。
そしてその結果、能力のない無知なモノが、感受性がやたらと強く、感情だけで物事を判断するモノが、政治の実権を握ってしまうまでにはいたった。
恐ろしいモノで、そのころには人類殆ど全てがそのレベルに陥ったのだ。
その頃、お頭の良い人は、宇宙へ逃げたらしい。
目の前の異常気象を自然と受け入れ、何者にも縛られない無秩序を自由と履き違え、満足の行く教育を子供に受けさせてやらないのだから、未来への兆しは見えない。
だから核戦争のボタンは軽く押されたのか?それともまだマシな自律的思考力のある人間がリセットするため渋々押したのか?
過去を知れるのだから、その過去を踏まえそこから明日の地球を、本来人間が管理せずとも変化を続ける自然との共存のための道を探すのが、この再生期なのだ。
「リンクスキル……?」
西暦3000年に作られた本、その一文に気になる物があった。
気になる理由は、単語が指す内容が、嫌に自分にマッチしているからだ。
「他者の思考の電波を、傍受しそれを脳が再思考する。よって、他人の感じたことを自分も感じることができる」
要約すれば、こういうことだ。
その後も、それが生まれた理由、それが持つポテンシャル、それに対して筆者が考えたこと。
国語の教科書にでも乗れそうな内容だ、コレは。
「仮に、コレが今の私に発現したものと同じだとして」
なぜ発露したのか、ということになる。
複雑化を進める資本主義社会に対し、適応を進めるため脳が相手の思考を読み取る力を手に入れた、と本にはある。
「なら、リンクスキルではないのかも」
この再生期において、社会を回すのは共産主義である。
社会が行きすぎた生産をしないよう、国が資本を管理する。
国の元に会社は成立し、自然の元に国は成り立つ。
だから、社会は自然に対し暴力を振るうことはないのだ。
そして国が社会を管理するのだから、下々の我々は言われたことをこなせばいい。
つまり社会はそこまで複雑ではないのだ。
「今は個々人の欲を捨て、自然を見守る時代だものな」
国に管理されるのも、自然のための主義と理解されれば働く意義は見出せる。
しかし最後のページを読むと「これは発達した脳の機能の一つであり、実際に見られるのは何世代も後の、才能だけが人を決める世の中になった時だろう」とある。
「この本は、事実だ?」
直感はそう告げる、理論の予測はそうかもしれないと言った。
間違っていたとしても、それを確かめる手段はないのだからどうしようもない。
ともかく、私は頭がいいのだから、この本に乗っとればリンクスキルは確かに私にあるのだろう。
「だから私だけが、これに乗れる」
リンクスキルがフォックスドールに乗る条件なのか。
特別な機体なんだから、そういった確認用の機能がない物だろうか。
開発データの一つでもあれば良いと、フォックスドールの蓄積されたデータ内を手当たり次第読み漁る。
本を読むのは辞めてこの機体について調べることにしたのは、マニュアルにある機能にだけ知って、本来の用途を知らないからだ。
もしかしたら戦争用ではないのかもしれないと、そう考え。
過去についてすぐ調べるのは再生期の人類の特徴である。
過去の過ちを繰り返してはならないという遺伝子的なトラウマがあるためであるからだ。
「41世期から台頭し始めた共感性の高い人類(俗称・リンクスキル・クロスラウンドなど)にのみ動かせるコードを搭載した第六世代アニマドールの企画書」
そう書かれた、この機体最古のファイルを見つけ、開く。
第六世代型アニマドール、フォックスドールシンギュラリティ
これから迎えるであろう再生的な時代に対し、番人の役目を果たす内の一体がこれである。
意思決定能力を持たせた人工知能を搭載し、それに人類を見守らせる為の器としては、光波推進システム、クリーンシステムなど人類の叡智を詰め込んだものが必要である。
またもう一体のカラス型のアニマドールとの共鳴もつけるつもりである。
なので最低条件は人工知能とそれが外を観測するためのカメラ、リンクスキルを判断するための装置、一万年は持たせるためのレアメタルや貴重金属を用いた装甲、そして新素材のX物体を使い操縦者と人工知能を繋ぐための半強制的リンクスキル増幅装置である。
報告書、いや初期の構想と言うのが一番近いモノを見て、意味がわからないと思ったのは、ごく普通のことである。
失われた黒歴史、人の技術の最高峰を想像しろなど不可能だ。
ましてコレがリンクスキルを増幅させる装置を持っていると言うのは、なおのことだ。
しかしリンクスキルにより、実体的に、つまり搭載された機能がなにを行うのかは理解できた。
「コレに乗るから、私の頭はぐちゃぐちゃになる……!」
怒りが、沸々と湧いてくる。
コイツがミライのリンクスキルを半強制的、元々の潜在的な才能があったにしろ、人為的に覚醒したリンクスキルがミライクラシックに悲劇を投げつけただけなのだ。
あのリアルな死を脳と体が味わう感覚は、言語化できやしない。
「苦しかったんだぞ……」
モニターを割ろうと考え、すぐに止める。
天井を見上げ、息を吐く。
気付けば辺りは電気の光が殆どで、日光は無くなっていた。
数秒間一点を見上げると怒りは治る、いや抑えた。
抑えて耐えるしか、そういう生き方しかできないんだ。
番人とは何なのだろう?
この再生期の為に作られた第六世代型のアニマドール、フォックスドールシンギュラリティ。
人類の叡智そのものが、何を守る、何を見定める?
それについては、考えることでしか答えを出せないのは、仕方ないことでもある。
「少し、いいですよね?」
ミライが父親の所へ向かい、やや不機嫌な調子で話し始めている。
ミライの機嫌を父であるイジョウが理解しているのか、それはわかりようがなかった。
「まだ九時だと言うのに、随分元気だな。そんなにアニマドールを動かすのは楽か?」
この男は、朝に弱い夜行性の人間だ。
だからミライだけではなく、イジョウも不機嫌で、お前はいいよな朝から元気でと嫌味を含め言う。
「あの女の人、まだ解放しないんですか?何日も監視するような人……何ですよね?」
「は?」
二週間ほど前に見た、裸の女性。
まだ牢屋で監視されているらしいと聴き、なんとか会えないものかとイジョウをわざわざ頼りに来た、というのがミライの行動である。
しかし親に対し「あの女性に会わさせてください」ということすら言えないので、「あの人を何日も監視するなよ」と「そうすれば僕はあの人に堂々と会いに行けるんだぞ!」とそういう意味を込めて言ったのだ。
それをわからないほど、イジョウという男はバカではないのだが、この時代でもやはり他より自己を優先するのが人類なのだ。
「ほおーそんなにあんな田舎者の女が好きか。貴様も滅んだ田舎出身だものな!シンパシーってやつか!?」
だから煽られたら、煽り返す。
これはこの二人の仲が悪いだけで、どちらも礼節弁えるぐらいには、正しい人間ではあるのだ。
ただイジョウはミライを道具としてしか見ていないし、ミライはイジョウを以上なカスと見ている。
二人には分厚い壁が作られてしまったのだ。
「残念だが、アレを出すわけにはいかない」
「なぜです?特に危険な所は……」
「ない。ないのだが、不審な点が多い」
「なんですかそれ」
「義務教育で習うようなことがわかってない」
「えぇ?」
「この再生期の成り立ち、オールド管轄が持つ役割と意味、アニマドールという鉄人形などの過去の遺産、つまり現在の社会構造を何一つ知らない、そういうやつなんだ」
それは、信じられないことである。
この再生期において、どんな場所、人を問わず全員が同程度の教育を受けることができるし、それは義務でもある。
再生期が成り立つためには、人が皆この時代の意味を知る必要がある。
意味を知るには、知識が必要だ。
個々が感情や利益だけを求める時代ではない。今は地球を回復させ、我々はその地球と共存するための方法を暗中模索する時なのだ、と。
それは教育という知識より、宗教的な教えとして守る物として受け継がれてきた。
無論近年になり、そのタブーを破らんと、技術の発展をしようという人間が増えているのは事実なのだが、彼らもこの時代の成り立ちぐらいは知っているはずなのだ。
「いや……あの女と会ってみるか?面会ぐらいはさせてやれるぞ?」
イジョウがそうだ、と言わんばかり突拍子もなく言った言葉は、ミライが望んでいた物であった。
「いいんですか?」
このときのミライが嬉しそうなのは、平静を装い隠しきれていない感情を出しているのは、誰にでもわかることではあった。
「ミライ、クラシック。成績は優秀で、人当たりも良く俗に言う優等生」
「そんな大層なものでもないですよ」
方舟の中、割合としては5割を占める居住スペース。
そこにミライと、捕虜の女性がいた。
街並みをそのまま方舟の中に内包してみせているのは、過去のテクノロジーの賜物である。
唯一、太陽が見えないことだけが、人々の不安を掻き立てる要素ではある。
(移動要塞として、四方八方の守りを固めるのはわかるけど、こうも太陽の光を浴びれないとなると……!)
ホログラムの空と太陽が忌々しい。電子の光は再生期のタブーそのもの。
人は社会生物だ科学的な生物だ、なんて言っても生活のルーティンは太陽が放つ光の色によって、強さによって決められているのだから、苛立ちを覚えるのは仕方のないことではある。
今は何時?外の天気は?
わからないと不安になる、未知が人の恐怖を作り出す。
しかしこんな空間でも和気藹々と遊ぶ子どもたちはいるのだから、不満を口に出す人はいない。
それを言えば子供より適応力がないと認めるからだ。
こんな時代でもプライドはあるのだから、みんな我慢をし生活を続けている。
「太陽がないのに、よく暮らせますね……」
いた、我慢できない奴が。
さっきから、無神経な言葉を投げかけるこの女は、マリー・ガーネット、とか言う名前らしい。
この時代の名付けの範囲を飛び出ているもので、しかもマリーアントワネットを真似たような名前から、恐らく偽名であろうと予測できる。
さらに記憶喪失、なんて言うらしく、それが胡散臭さに拍車を掛けている。
記憶喪失の癖に都合よく名前を覚えているし、普通記憶喪失の人間はこんな無遠慮でもない。
調査部、昔で言えば警察の見立てによれば、火事場泥棒だと。
この時代にそんな罰当たりなことをする奴がいるというのも驚きだが、その結果裸で私の前に現れたのは自業自得で、だから捕まったのだ。
今はミライが監視をすれば、という名目で許可をもらい、こうして出歩いている。
日々の成果が認められて、大人から許可をもらえたのは嬉しいが、こうも無遠慮な奴とは思わなかった。
そしてそんなやつに私は惚れている、見惚れている!
それを理解すると、自分の女の趣味の悪さに嫌気がさす。
そうやって、勝手に自己嫌悪に陥っていると、彼女は言う。
「ミライクラシック、私に勉強を教えてくれませんか?」
「はぁ」
無愛想に、呆れたようにしか声を返せないのは、意外だったからだ。
彼女が見に纏う、紺青のワンピースを使いカーテシーを行う姿が、やけに様になっているのに、言葉を失うしかなかった。
一目惚れした女性が、理由はどうあれど自身を求めているのを無碍に断ることができるだろうか。
少年は頷き、さらに言葉を重ねる。
「いいですよ」
知識を求める人がいるのなら、手伝うべきだと、本能ではなく理性で判断して返事を返した。
自分の返事に笑顔で返され、心臓が飛び跳ねる。
揺らぐ自己、自己の決定権が薄れ掛け、今ならこの人の言うことをなんでも聞きそうになってしまう。
(ここで本当に言いなりになってしまったら、この人は私に惚れてくれるはずがない!)
だから、意識を改め気持ちを抑える。
なあなあと、思考停止の態度ではなく、自分の意識を、考えを、礼儀を持ってこの人に接するべきなのだ。
それができなければ、礼儀を持って教えを乞う人に失礼なのだ。
恋愛感情は後回しにして、今はこの人の他人として関わろう。
(私には、それができるはずなんだ)
本能を抑える知性を育てる、そのための義務教育はうけたのだから。
何日経ったのだろう、あれから。
あの星々の輝き、吹き荒れる風、そういった平凡な感想で表せた、あの夜。
それが今では薄暗い、感動のない日々に変わっていた。
暗闇の、毛布の上でマリーは呟く。
「ミライってやつのせいだ…………」
この元凶はミライクラシック、あの夜私を倒したフォックスドールとかっていうの。
カフェの中、夕陽が沈む時間帯は、優しく賑わっていた。
「何日あの女を匿うのよ」
「匿ってないよ」
淡々と、いつも通りのミライクラシックと、その一応の彼女であるソルトが数日振りに話している。
怪訝な様を見せ、ミライを見つめるソルト。
「あのマリーとかって、何がいいのさ!」
「ゔっ」
それを言われると、何も言えやしない。
彼女の根源的な、マリーという社会的立場を存在させるものは、あまりいいとは言えない。
だが、そんなことはどうでもよいのだ。
「……顔だよ!」
一目惚れしたってことは、その人は綺麗な人だったってことだ。
男から見た女と言うのは、大体が外見で決まる。
そもそも世の中の女、いや人間の殆どはまともな部分がある。
誰かを好きになるのに、一番理由をなすのは外見の、顔つきなんだ。
「その女に言われて、勉強を教える。楽しそうですこと」
「ソルトには関係ないだろ」
先程から、さっきからこのように嫌味タラタラな、つまり不機嫌な様子を隠そうともせず、むしろ曝け出し言葉を投げてくる。
大体がトゲのある言葉だし、聞けば多少精神はすり減る。
だから、突き放すような言葉が出る。
「ソルトには、悪いけれどもう付き合えそうにない。好きな人がいるのに、君に付き合うのも私と君の両方望まないだろうし」
「なっ……」
優しさを感じさせながら別れを投げ掛けるのは、鋭利な刃物を投げつけられるより胸に刺さる。
「……帰る」
ナイフを投げた自覚があるから、席を立ちそそくさと出口に小走りで向かうのを、何もせず見送る。
涙で今にも垂れそうな目を、見送ったのだ。
「恋愛において私は天才ではないかもしれん……」
ソルトの優しさに甘えた行動を、少しばかり後悔するのと同時に、それ以外の方法が無かったと心に言い訳した。
「悲しそうな目をさせたのは、私が悪い」
別にそんなことはないのだが。
まだ熱いコーヒーを一口飲み、少し待ってサンドウィッチを食べ始める。
(あいつが、ソルトが私を本当の意味で好きなのはわかってる)
だから私に恋愛ではなく、合理的な関係として近寄って、確実に私と付き合おうとした。
(それは、互いによくない、望む以下の関係だったはず)
正式に付き合えているわけでもない、ただ一人の友人として付き合えたわけじゃない。
しかし、望み以下なのはお互いわかっていて、今日まで来たのだ。
なあなあの関係を利用したのはお互い様で、ただ私が、マリーにアプローチをするのを、ソルトは快く思わないはず。
だから、私のことはキッパリ諦めてもらうしか無かった。
(そうなんだけど、正しいはずなんだけど)
本能は、良心で判断をしたい自我はそれを否定する。
どれだけ私が正しくても、私が彼女を悲しませたのは、どう足掻いても事実なのだ。
手放したのを惜しむのは、強欲なのだろう。
目の前のパンが一口で食べ終わってしまうように、この関係もいつか終わるはずだった。
そう考えよう、それが今日だったというだけなのだろうと。
どれだけ鮮明な思考でも、やがて訪れる衰えに勝てはしない。
だから、徹夜で疲れ果てた脳は思考を停止し、脳が停止したのなら、記憶は曖昧でいつのまにか朝にもなる。
「十一時だ……」
もう昼も近く、太陽は真上に見えている。
起きて、顔を洗って、うがいをして、冷蔵庫に向かう。
ミルクとパンを食べ、軽く腹が満たされる。
少し休憩し、服を着替えて髪を整える。
歯磨きと化粧をすませ、完璧な、綺麗なルックスである自分を鏡で確認する。
何もかも、完璧にして、何もかも、上手くいく。
そういう言葉だけ聞けば理想的な生活を、何年やってきただろう。
不和を産まず、周りに嫌悪感を与えず、つまり他人に配慮した生活を続けてきた。
それなのに、自分は女を泣かせた。
「父親以外で、そういう顔を見たのは初めてだ」
あの父だって、普段は冷静で面倒見がいいので、口喧嘩だってしたことなかった。
だから否定はまた違うが、拒否とでも言うのか、つまり他人を不幸にさせたのは、自分という概念が他人の不幸を作り出したのは、初めてなのかもしれない。
それは誰が乗ろうと同じ結果を出す高いパフォーマンスを持ったアニマドールに乗ることはわけが違う、自己の意識の判断の結果なのだ。
そして他人に対し礼儀を払ってきた自分を、あの涙は否定した。
自分とは、自己とは、他人との関係性から生み出される観念的なものであり、つまり自己を否定されたのは自分が思う自己には相違的なものがある。
なら、私はどう言う人間なのか?
わからない、と言うことはわかる。
今まで発言できた自己のアイデンティティが今では霧のように掴めない、はっきりとしないものに成り下がった。
「フォックスドールに乗ったから……なのか?」
環境の変化により、関係性の変化により、自己象徴であるものに変化が生じた。
それは学生だったミライクラシックが、人殺しと魔物狩りをする軍人になった、ということだ。
父の野心が見えたのも鉄人形を動かしたから、マリーさんにあったのもフォックスドールを使ったから。
だとすれば、ソルトが泣いたのも、機械人形のせい?
「そんなわけないか」
無責任な発言を訂正し、今日もまた外へ出る。
考えてわからないのは、当たり前なのだ。
自己の変化とは自己の知識の外側に意識が向かうこと、つまり今の自分の知恵では見えもしないし掴めない。
それを判断したければ、知恵を増やすしかない。
経験を積み、考えを深め、自分の知識を増やす。
さすればその知恵は変化した自分を捉えるはずである。