開花
「…咲いた」
たった一輪だけ咲いた薔薇を見て思わず出た言葉が自身の耳に届いた時、ハーヴィス王国のステファン王子は素早く周囲に自分達以外は誰もいないことを確認した。
もとより王室の人間のみが入ることを許されている庭だ。護衛騎士達は遠くに控えているため、王族達の会話はもとより独り言など耳に届くはずもない。
唯一ステファン王子の妹姫であるアリシア王女がその言葉を耳にする機会を得ていたが、当の姫は最近凝っている茶葉と菓子との組み合わせに夢中になるあまり、兄が自分の目の前に未だ着席していないことにすら気付いていなかった。
この様子では、茶会が始まるのは夕刻になりそうだ。
ステファン王子はそう心の中で呟いて、小さく溜息を洩らす。
「いけない。クリームを準備してもらうのを忘れてしまったわ」
「茶に入れる為になら、私は不要だが」
準備をこれ以上遅らせない為でもあるが、実際、ステファン王子はあまり茶の味に興味はない。たとえ政治絡みでも大抵の茶会は断っている。政治抜きの茶会に参加するのは、妹姫のアリシア王女と二人きりの時だけだ。
「エルマ王女から勧められたのです。今日準備したお茶菓子にはクリームを入れたお茶の方が合うと」
そう聞いて、ステファン王子は並べられた菓子を一瞥する。あまり甘くなさそうな菓子ばかり揃えられているのは、ステファン王子の嗜好に合わせてあるからだろう。妹姫は綿雲のようなクリームや色鮮やかなジャムをたっぷり使った、もっと甘ったるい菓子が好みの筈だ。
「他にも足りない物があるなら、衛兵に言付けるが」
これでは妹姫が満足出来ないだろうと判断したステファン王子が近衛兵をちらりと見遣ると、アリシア王女は慌てて引き止めた。
「クリームはまた別の機会に試すことにします。お持ちしても、お兄様は使われないのでしょう?」
クリームではなく甘い菓子の方が必要だろう、と心の中でつい反論したが、敢えて口に出すのはやめておくことにした。こちらの嗜好に合わせてくれた妹姫の配慮を無下にするのが憚られたからだ。
茶にクリームを入れることも、エルマ王女がそのように勧めているのならば試すことも吝かでないが、今更前言撤回するのはばつが悪い。
「そうだな」
「ではお兄様、お掛けください」
妹姫に促されて、ステファン王子は腰を落ち着ける。目の前のテーブルの上には淹れたての紅茶と、改めて見ると様々な種類の焼き菓子が所狭しと並んでいる。
「先日の茶会では、こんなに出てきたのか?」
つい最近、妹姫は彼の国から招待された茶会に出席し、いたく感銘を受けて帰国したばかりだ。
「今回はお兄様のお好きそうなお菓子を揃えてみたのです。リブシャ王国では、王様のお気に入りのお菓子をエルマ王女や王妃様が手作りされることがあるのですって」
他国の茶会について何故か自慢げに胸を張る妹姫の無邪気さに、ステファン王子はつい微笑む。
「わたくしもお兄様のお好きなお菓子を自ら作ってみたいのです。ですから、どのお菓子が一番お気に召したか、教えてくださいね」
「それは楽しみだな」
「上手に作れるようになったら、エルマ王女にもお出ししますわ」
流れるような動作で紅茶を飲もうとしていたステファン王子の手元が突如狂う。
がちゃん、と響く思いのほか大きな音に、アリシア王女は目を丸くした。
「…お兄様?」
「失礼した」
噎せなかっただけでも儲け物だ、と心の中で胸を撫で下ろしながら、ステファン王子は妹姫に非礼を詫びた。
「良い考えだとは思うが…しかし、いくら仲が良くとも、我が国が主催する茶会の席に素人が作ったものを出すのは感心しないな。料理人達にも面目というものがある」
「ですからこの庭でのお茶会だけです」
「ここは王家専用の庭だ。外交には使わない」
「リブシャ王室の方々は王家のお庭に招いてくださいましたわ。お兄様もお招きに与ったことがおありではありませんか」
あの薔薇を譲り受ける経緯となった茶会のことを指摘され、ステファン王子は眉を顰めて妹姫を見た。
「アリシア」
「はい」
「それはリブシャ王室の流儀であって、我が王室の流儀ではない。この庭は、他国の王族には開かない」
いつもならば拗ねたように項垂れるだけの王女は、この日は珍しくステファン王子を見つめ返した。
「わたくしはまだ、エルマ様を王妃としてこの国にお迎えすることを諦めておりません」
「その話は人前では厳禁だ。リブシャ王は、我が国でリブシャの薔薇が花開くことはないとお考えなのだから」
翠色の美しい瞳が溢れんばかりに身開かれて、ステファン王子をひたと見詰める。
「…ですが、咲きました」
その言葉に明らかに動揺しているステファン王子の様子に、アリシア王女は上機嫌の笑みを浮かべた。妹姫はステファン王子よりも早く薔薇の開花に気付いていたのだ。
「おめでとうございます、お兄様。このことはいつ、リブシャ王へお知らせするのですか?」
「いつ…とは?」
「まだ一輪だけですから、ある程度咲くようになってからでしょうか。それとも、もっと株を増やしてからの方が良いかしら? 調印式の頃なら、城門付近にも咲かせる事が可能だと思いますわ」
自分の事のように嬉しそうにはしゃぐ妹姫に、ステファン王子は二の句が継げない。
そうできればいいと、心から切望していたのは本当だ。しかし、リブシャ王にはああ告げたものの、この過酷な土地では到底無理だと諦めてもいたのだ。
「そう思われませんか、お兄様?」
アリシア王女に再び尋ねられて我に返ったステファン王子は、気持ちを落ち着ける為に紅茶を一口飲んだ。
「そうだな…その頃であれば、心置き無く同盟国の面々も招待出来るな。この庭まで招くかどうかはまた別の話だが」
そして城内で咲き乱れる薔薇をエルマ王女に披露する姿を夢想して、今度は満足そうに深い溜息を吐いた。
安定の仲良し兄妹っぷりです。
アリシア王女が病弱な頃からずっと二人きりのお茶会を続けてきたのならば、お茶菓子の好みなんて既に分かりきっていると思うのですが…。お互い妙な気遣いをしてきているので、確信が持てないのでしょうね。
まぁ、妹姫の手作りならば、この王子は何でも「美味しい」と言っちゃうんでしょうけれど。