670話 兎と虎が、啼き止まず
【兎と虎が、啼き止まず】
───重い水流に引き摺られて、浮上する感覚。
───突然に耳朶を打つ、《無音》という新しい刺激。
フォンダイト・グロウ・フェネリは瞼を閉じたまま、静かに息を吐き。
覚醒したばかりの意識で、己の状態を確認した。
右前頭部に、軽い痛みがある。
これはまあ、起き抜けの偏頭痛であり、大したものではない。
時間経過と共に、いつの間にか知覚できなくなるだろう。
では。
それ以外はどうか、と言うと。
(これは・・・・・・実に、よろしくないな)
いつも通り、7時間程度は横になっていた筈だが。
どうにも全身が気怠い。
力が入らない。
おまけに、気力のほうも似たような有様だ。
睡眠による『肉体と脳疲労の軽減』が、殆ど感じ取れない。
これでは全く、就寝した意味が無い。
(どうした事だ、一体)
(まさか・・・睡眠中、私の身に何かが?)
ぎりり、と眉間に皺が寄ってゆく、その途中。
フォンダイトの意識に、記憶という名の濁流が直撃し。
様々に、《蘇った》。
蘇ってしまった。
───いやいや、『どうした事だ』ではなかろう。
───どうにもこうにも、『やらかしてしまった』のだ。
(・・・・・・)
血の気が引くような思いの中、自身の荒ぶる拍動が聴こえる。
それに加え。
非常に近い───超近接な距離から、35.6度の熱源を感じる。
ああ。
夢ではない。
自分は、『やらかした』。
この世に生まれ出て、当年587歳。
ついに、女性というものを知ってしまった。
体が休まっていないのも、当然である。
『あれ』は。
気力が尽きるも自明の、『一大事だった』のである。
・・・女性は。
・・・女性との触れ合い、というものは。
自分の予想と大きく異なった。
『愛しい』だとか、『心地良い』だとか。
精神的、肉体的な充実が、無かったとは言わぬ。
あるか無いかで言えば、あった。
確かに、あったのだが。
それにしても、あまりに想像とかけ離れていた。
事が終わり、こうやって朝を迎えた時に、自分は。
薄く口角を上げるものだとばかり、思っていた。
頭の中で行為を反芻し、だらけた笑いを浮かべ。
けれども男として、どこか誇らしく感じるような。
そういう事になるだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。
───しかれど、『現実』は違った。
違ってしまったのが、悪い事なのか。
自分が何か、間違えたか。
それとも、相手のほうか。
一切、丸ごとが分からない。
何せ初めての体験である故に、比較し得るデータの持ち合わせが無い。
とにかく、ただ。
『あれ』は思っていたような感じではなく。
思っていた以上に、疲れ切った。
有り体に言えば、精も根も尽き果てた。
”もう一度したいか”と訊かれても、頷くのを躊躇うほどであった。
(・・・・・・)
懸命に瞼を閉じたまま、フォンダイト・グロウ・フェネリは考える。
隣にいる、密着すれすれの彼女からは、規則正しい寝息。
どうやら、まだ目覚めていない様子だ。
もしくは。
自分と同じく、そのタイミングを見計らっているのか。
彼女が起きた時、自分は何と言葉を発するべきだろう?
《稀代のモテ男》として、どんな台詞を。
いや。
そもそも私の経験不足など、完全に露呈しているではないか。
だからこそ、あんな。
あんな具合に、一方的に、向こうが『積極的』だったのでは?
(うう・・・うう、む!)
よからぬ情景と、幾許かの恐怖が蘇り。
額に汗が滲む。
口角はやはり、微塵も上がらない。
上がるわけがない。
まずいぞ。
起床予定時刻が迫っている。
あと5分ほどしか、猶予は無い。
自分は彼女と何を話し、どう行動すれば良いのか。
ベストなのか。
元首としての威厳。
個としての責任。
この先の悪評価は全て、地獄もかくやの苛烈さで我が身を焼くだろう。
そうなった場合、《独立国家・『地上の星』》は。
文字通り超新星のように爆発し、終わってしまう。
後世の歴史家に、”元首が最低な男だった為、云々”などと解説されるのだ。
それは、あんまりではないか!
女性経験が無くて、何が悪い!
『ひょうたん』とて、生きておるのだぞ!?
───昂ぶる感情を声には出せず、胸中で叫び散らしていると。
───不意に、すぐ側で音がした。
「・・・うぅ・・・んっ・・・」
夢うつつにしても、妙に甘やかで官能的な吐息。
そして、寝返りどころか。
伸ばされたその腕で、しっかりと抱き寄せられて───
(しましまウサギが、にゃーにゃーにゃー!!)
(まっくろタイガー、わんわんにゃー!!)
咄嗟に出て来たのは、懐かしき《天界法・第241条》。
その主たる判例の根拠と賠償額を並べた、渾身の『語呂合わせ』だった。
よし、流石はエリート!
素晴らしき我が記憶力!
要するに。
どれほど控え目に表現しても、発狂寸前である!
───もういっその事!アレをこうして、実力行使はどうだ!?
───有無を言わさず!むしろこちらから、『ファイト』を仕掛けるとか!
06:00まで残すところ、3分弱。
いつ彼女が目覚めてもおかしくない、危機的状況の最中。
フォンダイトは必死に、己の《獣》へ打診してみるのだが。
どうにも芳しい返答は───戻ってこなかった。
当然ながら、経験の無さ故に。
(にゃーにゃーにゃー!!)
(わんわんにゃー!!)




