663話 夜の、もうひと頑張り 01
【夜の、もうひと頑張り】
エレベーターから降りて、欠伸を一つ。
すでに施錠されている正面扉をカード認証で開け、外へ踏み出せば。
恐ろしく粘りついた熱風が吹いてきて、げんなりする。
もう本当に、最悪だ。
たった数歩で、たちまち肌が汗を帯びてゆく。
エアコンに慣れた体が堪え切れず、つい顔を歪めてしまう。
梅雨明け宣言が出されたのは昨日のこと、いまだに空気は湿気ったまま。
虫の音も、カエルの啼き声も、心地良さとは真反対。
夏の悪いところだけをかき集めたような、どうにも不快指数の高い夜だ。
───夕食を摂らないまま、時刻は21:10。
───これほど遅くまで学内に残るとは、予想していなかった。
学生達に講義し、テストを採点。
提出された課題の問題点を指摘、評価。
それらを単位取得を認めるか否かの段階まで積み重ねるのが、教員の職務。
討論形式のゼミだって、資料集めには時間が掛かる。
野外での実地調査となれば、許可申請など更に厄介だ。
『卒研』の経過を確認し、盛大なミスをやらかす前に助言することも必要だ。
そして、その隙間を縫って。
学会発表に向けた自身の研究を僅かにでも進めるのが、教授の本分である。
そういう、日々の《ルーティン化した忙しさ》の中。
突如割り込んできた、特殊な仕事。
───『某山の東側における、土地開発と住宅建設に関する地域説明会』。
その壇上に立ち。
”環境や生態系への影響について、《有識者》として発言してほしい”。
公的機関の部署から打診され、「まあ、これも経験」と承諾した直後。
何処から情報が漏れたか、すぐに『とある市民団体』から接触があった。
要は、”開発中止という方向で登壇しろ”、と。
正義感だけで裏付け無しの与太話を延々と聞かされ、精神を病みかけた。
現状がどうであるかは加味しない、結論ありきの一方的な主張だ。
抗議の為なら他者の見解を捻じ曲げることも辞さないという、傲慢な態度だ。
勿論、好き好んで彼等の仲間になるつもりはない。
適当な相槌で聞き流し、最後はキッパリと『お断り』しておいたのだが。
まあ、あれだ。
率直に学問の徒として判断すれば。
某山の学術的価値は、さほど高くない。
繋がりが不明確だった時代の地層が露出しているわけでもなく。
研究対象となり得る遺跡が発掘されたというでもなく。
地質学的にも、考古学的にも、大した魅力を伴わない。
はっきり言って、《普通》。
加えて、動植物の生態も特筆すべき点は無し。
あるならとっくに、そっち関係の偉い先生達が押し掛けているだろう。
現時点でそういう事が判明していないなら、『そういう事』なのだ。
躍起になって未発見の昆虫とかを探すのは、請け負った仕事ではないのだ。
───とは言えど。
───ごく真っ当にやるとしても、かなりの情報と計算が必要となる。
日照や水捌け、大雨の際の斜面強度といった想定部分。
これらに関しては、”大丈夫です”という口約束だけでは済まされない。
それなりにシミュレートして、具体的な数字を示さねば意味が無い。
自分の専門からは少し・・・いや、結構外れているのだが。
どうやら《有識者》として出席するのは私だけらしく、逃がれようがない。
そういう門外漢なところまで、何とか形にしなくてはならない。
(大方の『道筋』は、出来上がったけれども)
(これ、完成するまでにどれだけ掛かるんだろうなぁ・・・)
見上げた夜空に、夏の大三角形。
そして、風情など何処吹く風と鳴り響く、腹の音。
いやはや、空腹感も凄いが、いよいよもってアルコールが足りていない。
このままだと血中の『焼酎濃度』が低すぎて、何かしでかしてしまいそうだ。
交番に突入した挙げ句、警察官を逮捕するとか。
一応、大学教授というお固い職業だからなぁ。
結構大きなニュースになるだろうなぁ。
(急いでウチに戻って、いつもの倍飲もう)
足早に東校舎の裏、教職員専用の駐車場へと向かい。
更なる熱気が立ち込める軽自動車の中に乗り込んでから。
───ああ。
───『ちょっと油断していたな』と、思わずこめかみを押さえた。
「藤田先生、お疲れ様です!」
後部座席で身を起こした学生が、如何にもマトモっぽい台詞を言うが。
咄嗟に返す言葉が見つからない。
「・・・・・・」
「あれ?
どうしたんですか、先生?」
助手席との隙間から身を乗り出し覗き込んでくる姿に、軽い目眩。
分かんないかなぁ。
聞こえるように、しっかりと大きく溜息をついたんだけども。
どうして君は、察してくれないかなぁ。
蜘蛛のお嬢さん。




