659話 通り雨 01
【通り雨】
───この仕事は、カーレースに酷似している。
仁生 晃子は、ノートPCのキーを叩く指を止めず。
その作業とは別の、《本業》について思いを馳せた。
───正に、レースである。
他者と順位を競う、という点で。
『与えられたもの』の修正、改造には上限が設けられている事も。
そして。
自分は『それ』を運用する手腕でしか評価されない、という意味でも。
《観戦する者達》にはレース開始前から、少しも期待されていない。
事実、現在の順位は、惨憺たるもの。
入賞を狙うどころか、すでに『周回遅れ』。
自分の経歴に傷が付くことが確定の、大惨事。
───こうなるのも、まあ当然だろう。
前任者から引き継いだ時点で、手の施しようがない状態で。
その上、仕事をしているのは実質、自分のみ。
メカニクスやピットクルーに該当する者が、一名たりとも存在しない。
全員、退官済みだ。
それらの分まで、自分がやらなくてはならない。
現地で任命した《補佐官》も駄目だ。
『戦力』としてカウント不能。
最初こそやる気があったが、今ではもう思考停止の状態。
《あれ》は、それなりに頭が良かったのが裏目に出た例だ。
任命された事で知り得た現状。
《管理官》である私の、熱意の低さ。
それらを踏まえてすぐに、”打つ手無し”と結論を出してしまった。
しかも、それを正しい判断だと言わざるを得ないのが、悔しいところだ。
初動段階において失敗であった事は、素直に認めよう。
───たとえ、現在は違うにしても。
───少なくとも当時、私が仕事を投げ出しかけていたのは事実である。
仁生 晃子は、小さく息を吐き。
依頼されている学術書の翻訳作業を中断した。
壁に掛けられた時計の針が、16:56を示している。
そろそろ夕食の支度をするべき時間だ。
空腹は感じていないし、食べないことで死ぬ訳ではないが。
これも『人間らしい生活』の為。
ゴミの一つも出さなければ、生活実態を疑われる可能性がある。
だが逆に言えば、『ゴミさえ出るなら』料理の品目は何でもいい。
白米を炊き、汁物を作り。
あとは肉か魚をどうにかしよう。
それらが入っていたプラ容器を捨てる事こそが、重要なのだ。
勿論、正しく分別して纏めておく、という行為も。
───気乗りがしないまま、取り敢えず立ち上がろうという時。
───目の前の空間に小さく、『横長の長方形』が出現した。
赤い縁取りは、《管理総会》からの応答確認だ。
しかも。
コード末尾の番号が表わしているのは、その中でも《最上位者》。
「・・・・・・」
とても嫌な予感がするが、無視は出来ない。
許されない。
一瞬だけ表情を歪めてから、すぐ戻し。
宙に浮いてしつこく点滅する『それ』に、指で軽く触れると。
「───ああ!
忙しいところにゴメンね、あっちゃん!」
拡大されたホログラムウィンドウに映ったのは、やはり。
可能であるなら、自分が任期を終えるまでは極力会話したくなかった相手。
第207代《総会長》レインマルト・ジーレン、その人だった。




