589話 命を大事に 08
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同じ区画を歩き続ける。
グルグルと巡回り続ける。
エレベータには乗らない。
階段も使わない。
人気の無い場所へ踏み込むことは、絶対に避けたい。
そこで密かに『始末』される気がして、恐ろしい。
───いつまで、こんなのを繰り返さなければならないのか。
───どうやったら背後の《何か》が、諦めてくれるのか。
分からないまま。
脂汗を滴らせたまま、ミリアン・ベイガーは進む。
そして。
その脚が、自分の意志に逆らい『別のコース』に進み出した時。
いよいよもって、”終わりだ”と感じた。
ついに自分は、《殺される》。
どこか人目の付かない所で。
何の役にも立たぬ、価値無きゴミのように。
「・・・うぅ・・・あ・・・」
微かな呻きを上げたが、誰もそれを気に留めない。
反応しない。
手洗いの前を通り過ぎ、奥へ。
左に曲がって細い廊下に入り、更に奥へ。
こんな場所には、誰も居ない。
誰も来やしない。
警備の巡回が来るまでに、自分は《消される》のだ。
理解不能な《何か》によって、《抹殺》される。
『死』を与えるのが、自分の存在意義なのに!
怯えさせて悦ぶあたしが、恐怖に身を震わせるなんて!
自身の靴音と、狂い叩く拍動しか聴こえない、備品庫の廊下。
その途中。
亡霊のように。
聖なる死神のように───『それ』は立っていた。
「やあ───ご機嫌よう、教官殿」
白髪を撫で付けた、枯れ木のような老人。
『それ』は。
自分の心情なんて少しも気にせず、朗らかに挨拶を投げて来て。
「おっと、《スーパーお爺ちゃん》だー。
こんな場所でナニやってんすかー?」
明るく無遠慮な『嫌われ者』の仮面、普段通りのテンションで返す。
通じたのか、そうでないのかは不明だ。
相手もこちらと同じく、仮面の装着者。
何を考えてるのか伝わって来るようなら、それは《罠》か《ブラフ》だ。
「ああ、ちょっとした散歩だよ。
晴れてはいるが、外は寒そうだ。
年寄りはこうやって、暖房の効いた館内を歩くくらいで丁度良い」
「健康維持も、ままなりませんねぇー」
「いやはや、その通り」
「うっかり心臓麻痺なんか起こそうもんなら、後釜選びが大変ですよー。
えひゃひゃひゃ!」
「まあ、自分の死後を心配しても仕方ないがね」
窓辺に立つ、痩せたカソック姿。
日溜まりで寛ぐ猫のように目を細める、リスヴェン枢機卿。
ただし。
本性は真っ黒で、本来は愛玩動物などで例えてはいけない。
あたしがその表情を『ちゃんと見ている』のは、そうする必要があるから。
8名の《偉い偉いお爺ちゃん達》は、『ワイヤーフレーム』の方がフェイク。
知性を極限まで暴力化させた、あたしとは真反対に位置する《危険物》だ。
老いれば老いるほど、肉体が弱れば弱るほど。
そのヤバさが加速を付けて膨れ上がり、手の施しようが無い連中だ。
「一昨日だかに、TVでやってましたねー。
老人になったらもう、コレステロールやタンパク質は気にしなくていいとか。
まあ、放っておいても寿命が近付いてますからぁ。
合成肉じゃなく、むしろ分厚いサーロインでも食べたらどうですー?」
「そういうのは、そこそこの頻度で食べているな」
「おやぁ、意外だ!」
「甘い物も結構、口にするよ」
「好きなんですか?」
「勿論、大好きだとも」
ガラス越しに中庭の景色を見つめる横顔が、ニヤリと笑った。
まるで、信仰などとは無関係な一般人にように。
悪巧みをする子供のように。
「やるべき事や、果たすべき使命が私にはある。
それらを途中で他の者に引き渡すのも、無理な話だろう。
まだまだ、死んでいる暇など無いな」
「そりゃ、当然でしょ?
どういう理屈にしたって、死にたい奴なんかいませんしー」
「そうだな。
どういう理屈にせよ死は訪れて、誰もがいつかは息絶える。
私も、君も、それは同じ事だよ」
「・・・・・・」
「それでも、可能な限り《死》に近寄りたくないのなら。
ミリアン・ベイガー」
年齢の割りには血色の良い唇が、あたしの名を呼んだ。
周囲に誰も居ないからか。
それとも、重要な意味を含ませる為にか。
「・・・何です?」
「お互い、勇ましくも慎重に生きようじゃないかね。
未来へ向かって、正しく。
『命を大事に』な」
「・・・・・・」
柔らかな微笑みを湛えたまま。
ゆっくりと横を通り過ぎる、リスヴェン枢機卿。
その足音を聴きながら。
あたしは立ち止まったまま、振り向かなかった。
────背中に取り憑いた《何か》の気配が、消えていた。
────それでもまだ、振り返る勇気は湧かなかった。
ヴァチカン勤めの、8名の枢機卿。
そのTop of Topである、リスヴェン・ウォルト。
徳が高いかは知らないが、『御利益』はあるみたいだ。
あんな、背筋を凍らせるような。
悪魔のような《何か》を、聖書も取り出さずに祓い去るなんて。
死にかけでも、流石は枢機卿の頂点、という事か。
大嫌いだけど、今夜だけなら抱かれてもいいくらい。
奇声を上げず、ヨダレを垂らさず、白目も剥かず、真面目に相手しよう。
悦んでいるフリだってしてやろう。
そうしても割りが合う程に、助かった。
絶体絶命の危機に、死の寸前で救い出されたのだ。
凄い、凄いよ!
やっぱり、信仰は偉大なり!
沢山殺して、自分も『それ』を高めなくちゃいけない。
もっと、もっと。
自分だけの力で、あの奇妙な《何か》を退散させられるように。
殺さなくちゃ!
人間をいっぱい殺して、地獄を創造しなくちゃね!
ああ───神様!
あたしはもう一度、貴方に誓います。
いずれはリスヴェン卿も法王も、この手に掛けて。
楽園以外を、真っ赤に染め上げて。
誰であろうと止められない、《悪意の塊》となることを。
あたし自身が。
貴方を正当化する為の、《人類に対する害悪》に成り果てることを!




