548話 学習帳 2ページ目 02
「勿論、私は余計な事なんてするつもりはなかったさ。
前回のように、ふらふらと山へ入って山賊に撃たれるつもりは無い。
任務遂行こそ、最優先───日々、人の世の道理を学んでいるからな!」
得意気に宣言しつつ。
男はグレーの中折れ帽を、くい、と映画俳優のような仕草で直す。
眼球からハイライトが失われてゆく、相棒のネズミには気付かずに。
「───しかしだね、ラッチー。
『何もなかった』で、悠々と帰途について良いものかね?
我々も、職務として台湾まで来ている。
どれだけ難易度の低い任務であろうと、だ。
《同志》の話によれば、殉職してしまう特務員もいるらしいじゃないか。
それなのに、報告書へ『異常無し』と一行だけ書くのは申し訳なかろう?」
”・・・・・・”
「だから、一応は《その図形》を書き写しておき、資料として添付しようと。
彼等が解散した後で私は姿を現して、じっくりと《図形》を観察し。
世界中に愛好家を持つM社製の手帳に、P社製のペンを走らせてみたのだが。
そうしている内に、ふと違和感を覚えた」
”・・・気付かなければ良いものを”
「落書きじみた《その図形》に、危険要素などは特段含まれていない。
されど、もしも『本当は何らかの力がある』とするならば。
デザイン的な───シンボルとして以外の『意味』があるとすれば。
なんと言うか、魔力線の途絶えた召喚陣ではないけれども。
『こことここが繋がっていなければ、おかしい』。
『この部分は本来、こうあるべきだ』。
そういう感じの修正点が見えてきたのだよ」
”有能な『うっかり者』ほど、恐ろしいものはないな”
「ははは。そんなに褒めるのはよしたまえ、ラッチー。
いや、オブラートに包んだ嫌味であるならば、続けても構わないがね。
そういうものに対しても、『死せる賢者』は耐性が高い」
”・・・・・・”
「勿論、ジョークだが───うん?
どうした、ラッチー。顔色が優れないようだが?」
”・・・う、うう・・・今、少し意識を失いかけていた、ようだ・・・”
「おいおい、それはいかんな!
どれ、もう1つ2つ、補助的なやつを重ねておこう」
男の痩せて骨ばった手が、ネズミの頭に翳され。
アクアリウムを照らすような薄蒼い光が、ゆっくりとそこに吸い込まれる。
「───どうだ、気分は良くなったかね?」
”・・・ああ、助かった。
しかし、この場合は気を失えない事を喜ぶべきか・・・それとも呪うべきか”
「ふうむ。
そういう判断に迷う時は、とりあえず笑って『有難う』と言っておけばいい。
なあに、細かい事を思い悩むより、まずは形式。
それこそが、世の中を上手く渡ってゆく秘訣なのだよ」
”ご主人が言うと、はらわたが煮えるほどに説得力があるな”
「そうかね?
私も君にならって、ゆくゆくは司祭職を目指すべきか」
”・・・・・・”
「───まあ、そんなこんなで。
《連中》は、『此処に来てしまった』わけなのだが」
”・・・ああ”
もはや、生き物がまともに立ってはいられぬ程の異常な低温下で。
ガレージいっぱいに、《それ》は『のたくって』いた。
白い粘土質のものが凍りもせず泡立ち、隆起し。
バスケットボールのように膨らんでは、弾けて、また膨張し。
壁面にも天井にもおびただしく張り付いて、ぞぞ、と流れ落ち。
金属を擦り合わせた、鳥のような囀りで啼いていた。
時折、その身に黒い血管じみた何かを浮かべたり、消したりしながら。
”・・・ご主人。《彼等》は一体、何なのだ?”
「うむ。さっぱり分からんな!」
見るもの全てを苛つかせる清々しい笑顔で、男は即答。
「正体はおろか、どこから来たのかも不明だ。
地球上の生物ではない、としか」
”何となく、《彼等》は怒っているように感じるのだが。
それはやはり、『捧げ物』に該当する物品が無かったせいだろうか?”
「いいや、違うな。
私にも《連中》が話している言葉は、あまり解釈出来ないのだがね。
それでも。
こう見えて『言語学』には、いささかの心得がある。
長く生きているが故、その手の知識量は膨大だ。
おまけに『死せる賢者』であるからして、頭の出来も悪くない。
未知の言語とて、全く理解が及ばぬわけではないのだよ。
ある程度というか、ニュアンスくらいであれば伝わってくる」
”そうなのか。ならば、怒っている理由は?”
「私が『善意で手直ししてしまった図形』はだな。
どういう経緯で《電脳異界倶楽部》の面々に伝わったのか謎だが。
どうやら、《救援要請》の信号らしい」
”《救援》??”
「それも、かなり高レベルな、緊急性を伴うもののようだ。
《生命の存続に関わる》、《至急、最大限の応援を求む》的な」
”・・・・・・”
「そうして此処へ呼ばれたのが、《連中》だ。
まあ、簡単に言うとだな。
すわ一大事!、と血の気の荒いのをかき集め、完全武装で出撃してきたわけで。
しかし来てみれば、《救援要請》を送った筈の仲間は居ない。
君と私だけが、ぽかん、と立ち尽くしている。
それはもう、爆発寸前の怒りを収められないのも当然であろうよ」
”・・・・・・”
「───どうした、ラッチー?」
脈動する白くおぞましい粘液に、膝下まで浸かりながら。
男はただ、不思議そうに首を傾げて。
そのコートにしがみ付いたネズミは、もはや聴き取れぬ程の小声で呟いた。
”・・・すまない”
「うむ?」
”・・・また意識を失いかけて、いた・・・”




