523話 死ぬには良い日だ
【死ぬには良い日だ】
───某日、マレーシアのサラワク州、クチン。
昼時には些か早い、午前10時半。
一頃の暑さを越えたとは言え、それでも厳しい日差しの『市場通り』。
スマートフォンでマップを表示しながら、一人の青年が歩いて来て。
フラワーショップともカフェともつかぬ『その店』の前で、脚を止めた。
焦げるほど日に焼けた顔。
Tシャツに包まれた胸部や肩、剥き出しの腕には、はっきりと筋肉がある。
日々の労働かスポーツで培った、健康で精悍な体躯だ。
「・・・・・・」
青年はリュックを背から降ろし、やや色褪せた青いタオルを取り出す。
念入りに、顔を拭いた。
しっかりと拭いた。
額や目尻だけでなく、もみ上げや首元まで丁寧に、執拗に拭き上げた。
それから、意を決するように短く熱い息をつき。
ペペロミアやスターアニスの鉢が飾られた、オープンテラス席───ではなく。
店内の左奥、一人掛けの席に着座した。
「───いらっしゃいませ」
しばし間を開けてから掛けられた声の質は、接客業としては微妙なところ。
愛想が無くはないが、好感を持たれるレベルには程遠い。
「ご注文は、お決まりでしょうか」
レモン水のグラスを置くなり、すぐに注文を尋ねた理由は、おそらく。
『客』の視線が、少しもメニュー表に向けられなかったからだろう。
青年は、自分の膝先を見つめて石膏像のように固まったまま。
それでも、口を開いた。
結構な早口で、呪文のようにぶちまけた。
「『B定オム』デミソ、LOVEマシマシ、『コブサ』チーマシ、『オニスー』。
あと、食後に『アイコー』、『冷淡』マシマシの『平手』激マシで」
「──────」
かつん、と靴音。
それが自分の真横に来ても。
相手の表情から《なけなしの笑み》が、完全に消え失せても。
青年は、それを見ていなかった。
気付いていなかった。
「こっちを向け。さもないと、殺す」
「・・・え?」
バアァンッ!!
───とてつもない音が、店内に響き渡った。
振り抜かれた手の指こそ、ぴん、と伸ばされてはいるが。
通常の『平手打ち』が奏でる、甲高いものとは別次元。
サンドバッグを強打したような、たっぷりと重い破壊音。
しかも、青年が椅子から転げ落ちぬよう、襟元が掴まれていた。
即ち、威力を逃がす事さえ、禁じられていた。
”馬鹿野郎ッ・・・ド素人が、イキったコールを飛ばすからッ!”
”おおかた、ネットで調べてその気になったクチだろ”
”そもそも、作法が間違ってんだよ!
レンダリア様Type:Sに、オーダー順は通用しない!”
”『平手』をコールしたら即、その場で《処される》からな。
食後に『平手』希望なら、『アイコー』を持って来た時に言わないと”
入り口の右奥、四人掛けの席に陣取った常連達が囁き合う。
”アイツ、もう駄目だ。『平手』激マシなんて、人間には鬼畜過ぎる!”
”俺ら悪魔でも、明日明後日が連休とかじゃなきゃ、怖くて挑戦出来ねぇわ”
”おい、動かないぞ?死んだか!?”
”生きてても、二度と来店しないだろうよ・・・爺さんは、どう見る?”
”・・・頭がおかしい、としか思えんな”
隣の席に座った老人は、顔を上げず。
スケッチブックにペンを踊らせながら、端的に答える。
静まり返った店内。
だが。
そこから《奇蹟》が起こった。
「無礼者め。
──────けれど、貴方の蛮勇、嫌いじゃないわよ?」
紫色に腫れ上がった頬を、優しくなぞる手。
青年は目を見開き。
それから滝のように涙を流して、頭を垂れる。
「あっ、ありがっ!・・・ありがど、ございまじだあっっ!!」
「ふふ。ごゆっくり、どうぞ」
”ちょ!ちょっと待てッ!!
何で注文してないのに、『デレ』が!?”
”しかも!通常とは違う、『特別な御言葉』付き!?”
”本日は、サービスデー!?《突発イベント》かよ、これ!?”
”ひょっとして、『平手』にのみ付くサービスとか!?
どうなんだ、爺さん!?”
常連4名の視線を集め。
老人は、静かに顔を上げる。
───無言。
しかし、たっぷりと何かを含んだ、意味深な表情。
”たまらん!!追加オーダーだ!!”
”震える!!追加オーダー、スタンバイ!!”
”お前らだけに、いいカッコはさせねぇ!!同じくだ!!”
”父さん、母さん!!親不孝でゴメン!!
俺・・・・・・【鬼マシ】でいくッ!!”
”””なッ、何だとおおッ!!??”””
メニュー表を囲んで俄然がっつく常連達に、ほくそ笑む老人。
してやったり。
これで少しは、今日の売上が増える筈。
Type:M───レンダリア嬢も、喜ぶことだろう。
だが。
”・・・頭がおかしい、としか思えんな”
足元の黒猫も。
それに合わせて頷くように、小さく頭を振った。




