522話 黒竜紳士、逃げる 05
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「いらっしゃいませ、筆頭───お疲れ様です」
丁寧に頭を下げた執事に頷き。
左手に持ったレザーバッグを軽く掲げてみせる。
用件をわざわざ口に出す必要は無い。
定期的に訪れているんだし、仕事の内容を詮索するような野暮も無しだ。
「頭首は今、何処?」
「二階の執務室でございます」
すぐさま、落ち着きのある聞き取り易い声質で返される。
本家の改装に合わせて新しく育てた執事だが一応、所作は及第点だ。
若いから、どうしたって風格は乏しいけどさ。
変に低く重々しい声で喋るのを止めさせてからは、格段に良くなったな。
素質は十分にあるみたいだし、後はもう経験だ。
年月を経ることで、次第に磨かれてゆくだろう。
いつもと同じく、案内は付けず堂々と屋敷内を闊歩する。
吹き抜けの二階を目指し、右側の階段へ。
優雅にカーブしたそれは、よれも隙間も無く、ぴったりと敷物に覆われている。
僕が自ら買い付けた、エジプト産・最高グレードの絨毯だよ。
値段も当然、僕んとこのよりもお高いやつで。
普通に買える品とは、面積当たりの『結び目数』からして桁が違う。
乱雑に歩いても捻じれや表層の『浮き滑り』を感じない、上質な踏み心地だ。
そして辿り着いた二階は───う〜ん。
全体的な格調は申し分ないんだけどなぁ。
壁面がやや、寂しいかなぁ。
昔は結構な枚数の名画を飾ってたけど、全部持ち出されちゃったもんで。
頭首の休眠中にね。
元々、『額縁入りの絵画』はお好みじゃないらしいから、新たな購入は無し。
けど、このままだとどうにも、僕の美的センスが納得しない。
燭台の間隔をもう少し拡げて、何かを挟みたいところだね。
上がり口から逆U字の廊下に沿って並ぶ左右の部屋は、ゲストルームや予備室。
そちらとは別の北側へ伸びた通路へ歩みを進めて、頭首の執務室へ。
「やあ、ファリア。
僕だ、書類の追加に来たよ〜」
ノックして声を掛ける。
だが、返事がない。
あれ??
「お〜〜い、ファリア〜??」
吸血鬼の感覚で、室内に気配があるのは分かる。
呼吸音からして、眠っているというわけでもなさそう。
だからこそ、返答が無いのは異常な事態だ。
何かは不明だけど、何かがおかしいのは確かだな。
「ちょっと、どうしたのさ?
ねぇ───ファリア〜?」
静けさに、緊張が走る。
それでもわざと軽快な口調を保っているのは、体を固くしない為だ。
予想外の何があろうと、脚が止まってしまえば『弱者』はジエンド。
無造作に下げていたバッグを、静かに腰元まで引き上げて構える。
いざという時には、これで心臓をガードするしかない。
わりと気に入ってて、傷付けたくないんだけどな。
「いいかい───入るよ〜??」
ドアノブに手を掛ける。
内側らの施錠はなく、それはカチャリと軽快に回って。
入室した僕を迎えたのはまず、『風』だった。
執務室の奥。
開かれた窓の側にファリアが居る。
やっぱり、眠ってはいなかったけど。
見たところ、普通の状態とは言い難い様子だ。
ちゃんと立って瞼を開けているのに、こちらへ顔を向けようともしない。
何だ?
本当に、どうした??
「あのさぁ。返事くらいしなよ、ファリア」
慎重に呼び掛けてみるも、その表情は変わらず、返答無し。
うーーん。
どうしたもんかな、これ。
小さく溜息をつき、それから息を吸い込んだ時。
鼻腔の奥が、室内の空気から僅かに漂う《普通とは違うもの》を嗅ぎ取った。
常習者は麻痺してしまうけど、非使用者にはハッキリと分かる、アレ。
実際の煙じゃなくて、体と衣服に染み付いた分の残り香。
”───アルが入館したのは、いつだ?あと、出たのは?”
階下の執事に、《心話》を飛ばして確認だ。
”約一時間前でございます。
そして、筆頭がいらっしゃる5分ほど前に、お帰りになられたようで”
”サンキュー”
入れ違いってコトか。
あいつめ、何かやりやがったな。
───考察しよう。
真面目でお固いファリアが、放心状態になるくらいだ。
やらかしやがった『何か』はおそらく、男女の恋愛的な『何か』。
その『何か』の極限といえば・・・う〜〜ん。
《婚約を承諾した》、なんだけども。
まあ、無いよな。
それだったら、大騒ぎのレベル。
ズィーエルハイトの慶事だ。
流石にファリアだって、呆けてる場合じゃあない。
すぐ僕に連絡する筈。
これは無い。
あと、アルはいきなりそこまで覚悟できる奴でもない。
よく分かってる。
───じゃあ、何をやった?
アルの女性関係は昔っから、そりゃもう凄いけど。
しかし、ファリアに対してはそういうのを徹底的に避けてきたフシがある。
有り体に言えば、ビビリ散らかしてる。
そういう奴が、最初の一歩として踏み出せるのはどこまでだ?
ハグならいけるか?
いけるよな?
いけるだろ、それくらいなら。
僕だって、そこまでなら到達してるんだよ。
まあ、激しく抵抗されてはいるけど。
ううああ!
つい、意識が自分のプライベートのほうに傾き始めた時。
───ファリアが、ゆっくりと僕のほうを見て。
───静かに首を振った。
『横に』だ。
『横』??
それは、《違う》っていう意味??
え??
《ハグではない》??
ちょっと待って!
それは。
そうなると、ひょっとして!
「ファリア、まさか──────『あった』の?」
あ。
しまった。
興奮のあまり、僕もマリオンみたく主語を抜かしてしまった。
言い直そう。
「『キス』が、『あった』の?」
「──────」
ハンガリー最弱の吸血鬼集団、ズィーエイルハイト。
そんな僕らを統べる現頭首、ファリア・ズィーエルハイトが。
瞼を閉じながら、右手を高く掲げた。
すっ、と真っ直ぐに。
拳を握り締めて。
それはまるで、苦難と激闘の末に頂点へと辿り着いたボクサーのように。
暴虐の乱世で、『一欠片の悔いも無い』と豪語する覇者のように。
他者には想像も出来ぬ万感の思いが、天を突く拳に込められ。
見た者が皆、後世に伝えるべしと胸に刻むような、堂々たる風格だった。
ああ。
『あった』のだ、此処で。
『キス』は、『あった』のだ。
チクショーめッ!!
それなのに。
さっき執事は、何と言ったか。
”10分ほど前に、お帰りになられたようで”。
帰ったなら帰ったで、ハッキリ言えばいい。
そうしないのは、彼がアルの退館時に居合わせず、玄関扉を開閉していない故。
───つまり、あいつはファリアとキスした後。
───余韻に浸る間も置かずに、そこの窓から逃げ出した、ってことだ。
おい、黒竜紳士!
何やってんだよ!
お前は《通り魔》か!?
せっかくキスしたんなら、ランチもディナーも共にしろよ!
そんで、お泊りしていけってんだよ!
誰もそれを邪魔と思わないどころか、大歓迎なんだよ!
キスの次は、どうするんだ!?
ええ!?
何を、いつする予定だ!?
まさか、このままで何年かやり過ごそうってんじゃないだろうな!?
ファリアもファリアだよ!
何そんな、満足しきった顔してんのさ!
まだ全然、ゴールインじゃないだろ!
最終目的は、婚姻して後継者を作ることだろ!
いい加減、正気に戻れよ!
ズィーエルハイトの命運が懸かってるんだぞ!
あと、僕がリンカとイチャLove出来るかどうかも!!




