437話 三重奏と、伝説の道化師 01
【三重奏と、伝説の道化師】
───パリン。
高く乾いた音を耳にし、男は片方の眉を吊り上げた。
しかし、振り返らない。
現在進行中の作業は非常に重要で、慎重さと正確性が求められるものだ。
音の原因を追求している余裕など無い。
無いのだが、気にはなる。
誰かが、ガラス器具でも落としたか。
それなら、特に心配は要らない。
替えは幾らでもあるし、些細なミスを責める事もしたくない。
だが、《精製試料》の入った試験管を割ったなら。
そっちは一大事だ。
元々の量が少ない。
膨大なサンプルから分離し、やっとの思いで濃縮した貴重な微量物だ。
一滴たりとも無駄にできない。
指定された納期まで、あと一週間を切っている状態だ。
ここまできて《もの》が足りなくなったなど、笑えぬ冗談にも程がある。
まさか。
まさか。
───耐え切れず。
───男は椅子を後退させ、振り返った。
「おい!今のは、何だ?誰がやった?」
連日の忙しさで、苛立っている。
自分も、皆も。
気を付けたつもりだが、どうしても尖った口調になってしまう。
隣の席に座っていた者が、びくりと背を震わせ、慌ててこちらを見て。
後悔と面倒臭さで、また心がささくれる。
「ああ、いや。怪我をしていなければ、いいんだが」
咄嗟に口から出たのは、思ってもいない事だ。
怪我なんか、どうだっていい。
大切なのは、《もの》だ。
《もの》が無事なら『平の研究員』くらい、どうなろうと構いやしない。
しかし、自分がついた嘘で隣の『平』は、僅かに安心したようだ。
「六班のほうからですよね、さっきの音」
「そうだな。
それにしても、割った奴は返事くらいしたらどうなんだ。
私の声は小さかったか?」
怒りを溜息に隠して誤魔化し、『平』に問う。
だが。
その答えが、返ってこない。
「おい、お前まで無視か?」
睨み付けたが、『平』の表情は変わらず。
きょとん、とした顔のまま。
───首が落ちた。
それを認識して。
1秒以内に《非常警報》のボタンを押したのは、責任感からではない。
恐怖のせいだ。
そして、何故か警報のベルは響かず、照明が切れて。
すぐに非常用電源に切り替わるが、それも駄目だ。
ゆっくり、ゆっくりとではあるものの、次第に室内が暗くなってゆく。
悲鳴と絶叫が、あちこちから入り混じって響いた。
知っている声ばかりだ。
それが、聞くに耐えない苦痛と狂騒を含んで突き刺さる。
───”次は、お前の番だぞ”、と。
暗い。
どんどん暗くなってゆく。
おかしい。
やっと気付いた。
照明の光度は、落ちていない。
人間などとは違い、光学的な情報は眼球以外の器官からでも得られる。
そちらのほうの感覚でなら、周囲は暗くなどなっていないのだ。
今も通常の明るさで室内が満たされているはずなのだ。
それなのに、『見えない』。
こうしている間にも、更に視界が狭まる。
『視覚』自体が黒い霧に包まれ、犯されてゆくように。
───ひゅん。
何かが、眼の前を高速で横切った。
かろうじて見えたのは、細く赤い『糸』のようなもの。
───ひゅひゅん。
「だ、誰だっ!?
何処にいるっ!?───出てこい!!」
高等法印を刻んだ短刀を鞘から抜き放ち、男は叫んだ。
「何処だ!?」
もう一度、吠えるように問う。
『糸』を操っている奴が現れたなら、倒す。
どうやってでも倒す。
《非常警報》のベルが鳴らない以上、他の区画は異変に気付いていない筈だ。
救援が来ることに期待は持てないし、待っていられない。
「私が管理者の、バーファル・キア・ヴィエムだ!!
出てこい、曲者めがっ!!」
───ひゅん。
瞼に風を感じるほど近くを、『糸』が通り。
反射的に短刀を振るうが、手応えは無い。
”───ここにいるよ?”
「!!??」
耳元で囁く声。
慌ててその位置を突いたが、やはり当たらない。
”ここにいるよ!”
”ここにいるよ!”
”ここにいます!”
”ここだよー!”
バラバラの位置から、複数の声がした。
それらは全て同じ───明るく無邪気な少女の声色。
”ここにも、いるよ?”
───パリン。
すぐ後ろで、ガラスの割れる音。
もしかして。
自分が先程まで作業していた《精製試料》の??
「うっ!?」
振り向く間も無く、腹部から細い『糸』が飛び出し、抜けていった。
赤い『糸』。
《精製試料》。
自らが溢す、朱。
「まさか───『血液』の中から出現したのか!?
お前は、レンダリアかっ!?」
”ちがうよ!”
”ちがうよ!”
”ちがいます!”
”ちがーう!”
「だっ、だったら、一体!?」
”わたし、アールデルテ!よろしくね!”
”わたしも、アールデルテ!よろしくね!”
”アールデルテです!よろしくです!”
”アールデルテだよー!よろしくー!”
”───でも、死んでね?”
「!!!」
またもや、すぐ側で囁かれる言葉。
死の宣告。
ほぼ暗闇と化した室内。
聞こえてくる苦悶の叫びが、少なくなっている。
もう半分以上の『生体反応』が途絶えている。
殺されている。
侵入者の正体は不明でも、それだけは明確な事実だ。
男は───バーファルは、『責任者としての努め』を放棄した。
より正確に言えば。
自身さえ生き延びれば責任は果たせる、と都合良く解釈することに決めた。
足元に素早く転移陣を展開し、この惨劇から逃れようと───
したが。
作動しない。
「!?」
転移先を変更し、もう一度。
失敗。
更に変更。
どれも駄目だ。
この区画から外部へ転移する事が、『特級権限で禁止されている』。
「何故だっ!?」
そこまできて、ようやく。
バーファルは最も誤解していた現象を、正しく認識した。
───この不可思議な暗闇は、何者かの能力によるものではない。
───単純に、侵入者の隔離用に散布される『認識阻害物質』。
つまり。
自分が《非常警報》を押す前にもう、区画一帯が《非常隔離》されていたのだ。
誰かの思惑によって。
手から離れた短刀が床に落ち、からん、と音を立てた。
バーファルは、観念した。
《非常隔離》を発動させたのが、アールデルテと名乗る侵入者だとは考えない。
そこを間違えぬだけの分別はあった。
研究と称して、散々に後ろ暗い事を続けてきた自覚。
これまでに何十名に及ぶ同罪者達が消えていったことも、忘れてはいない。
自分は。
いや、自分が最高責任者を務めるこの研究所は、負けたのだ。
アールデルテとやらに殺されるにしても、それはただの死因に過ぎない。
根本的には、派閥の政治闘争に敗北したのだ。
それ故、ここで生き残ったとしても、裏で消されて終わりだろう。
『処分を受ける筈は無い』だとか、『後ろ盾がある』だとか。
そんな言い訳は通用しない。
どれほど偉い方々に支援されていても、それごと吹き飛ぶことなんてザラだ。
そういう世界だと分かった上で踏み込み、美味い汁を吸ってきたのだ。
ああ。
『未来は閉ざされている』と理解したら、抵抗する気が失せた。
生への執着も消えた。
もはや何も見えぬ、完全な暗闇だ。
深い深い、夜の底に落ちてしまった気分だ。
「はは───もういい───殺せ」
”そうだね!殺すよ!だけど、少し待ってね!”
”待ってね!”
”待っててください!”
”待っててー!”
何でも面白がってはしゃぐ、子供特有の楽しげな嬌声。
娘の産んだ子も、今は丁度あれくらいの歳だったか。
滅多と会わないから、もう自分の顔なんて忘れてるだろうな。
娘も孫も、いや、妻でさえ、本当の自分が何をやってきたのかを知らない。
知られないまま死ねるなら、それは幸せな事だ。
それなりの財産も残してやれたし、まあ恨まれやしないだろう。
はは。
何だ、意外とマトモに終われるじゃないか、ええ?
立派なものだ。
悪くないじゃないか、こういう結末も。
しかし。
バーファル・キア・ヴィエムが自身を納得させられたのは、そこまでだった。
”お前は、燃えちゃえ!”
”お前は、潰れちゃえ!”
”お前は、千切れなさい!”
”お前は、凍って砕けろー!”
”お前は、ゆっくりと腐れ!”
”お前は、遠い星から来たナメクジ達に脳を食われろ!”
”お前は、自分を食べて消化して排便して、それをまた食べなさい!”
”お前は、脚の先から少しずつ雑巾みたいに絞ってやるー!”
何で。
何故だ。
どうして、普通に殺さないんだ?
どうして、段々と惨たらしいやり方になってゆくんだ?
自分は、いつ殺される?
どんな方法で?
これは、どういう順番でやっているんだ?
もしかして、自分が一番最後なのか??
それは、どれほど残忍な───
バーファルは、心臓の位置に手を押し当て、自決しようとした。
爆発系の法術は確かに発動したが、何故か死ねなかった。
体に傷ひとつ付けられなかった。
はは、はははは!
恐ろしい『お子様達』だ!
本当に、僅かな慈悲も無い!
殺すことが、そんなに好きでたまらないのか!
部下の何名かも、同じように自決を試みて失敗したに違いない。
おそらく、自分の番は最後。
きっと最後だ。
運が良かった。
管理者だと名乗ったから、最後に回されたのだ。
それならば、まだ出来る事があるぞ。
バーファルは。
震えながら両腕を上げ、自分の頭を左右から掴んだ。
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煌めく赤い線が、幾らか薄まった闇の中を踊り回り。
合計4本が、床に座り込んで項垂れた男の前に整列する。
”あっ!?やられちゃった!”
”こいつ、自分で自分の心を壊してる!”
”死ぬんじゃなく、その手がありましたか!”
”でもこれ、わたし達は悪くないしー!”
4本目の線の拗ねる声を合図に、ぐるりと線達は周り。
男の背後にいた《5本目の赤い線》を取り囲んだ。
”見張ってたのに、どうして止めなかったの!”
”そうだ、そうだ!”
”止めないと駄目です!”
”こんなので連帯責任なんて、嫌だー!”
口々に責める声。
5本目は、居心地悪そうに身を捻じらせながら言う。
”だって・・・見てたら何だか、可哀想になって”
”『優しくしちゃ駄目』って、アニーにお願いされてるじゃん!”
”約束破り!”
”勝手な判断は困ります!”
”アールデルテの面汚しだー!”
”そんな!・・・でも・・・だって”
次第に小さくなってゆく、言い訳にならない声。
沈黙。
そして───
”””””あはははは!!!!!”””””
5本が揃って、一斉に笑い出した。
”へんてこな《術》とか使っても、完全じゃないよね!”
”その《術》を最後まで安定させるには、どうしたってね!”
”正気の部分が絶対に、少しだけ残りますよね!”
”こいつ、今のわたし達の会話、聞こえてるかもー!”
”はーい、みんな!わたしに注目!”
5本目が、嬉しそうにクルクルと回って言う。
”わたしね!こいつの机の上から、凄く純度の高い《血》を頂きましたー!”
””””それで、それで??””””
”量が少ないから、飽きるまでとはいかないけど!
あと1時間くらいは、延長で遊べまーーす!!”
”やったぁ!”
”そうこなくっちゃ!”
”流石、アールデルテさん!”
”面白くなってきたー!”
”壊れた心の治し方は、知らないけど!”
”時間を巻き戻すとか、良く分かんないけど!”
”わたし達が口にした事は、全部本当になります!”
”何百回でも、元通りにしちゃえるー!”
”それじゃあ、綺麗に全部戻して!
死ぬ寸前まで苛めて、また戻して!
みんなで、楽しい1時間にしようね!
さあさあ!
どうやって苦しませるか、よぉく考えないと!”
”””””いひひひひィ!!!!!”””””
黒い霧の晴れた室内の、壁と床。
尖った歯を持つ無数の『口』が、ざわざわと這い回っていた。




