394話 そして、必然 01
【そして、必然】
ふらふらと、前に進んで。
大きくよろけ、たたらを踏み。
何とか体勢を戻して、また進む。
ブーツが踏んでいったアスファルトに、広がる『染み』。
街灯から離れたそこでは、それが何色なのか判別できない。
だが。
通り過ぎる車のライトが一瞬だけ照らした姿の、額から頬にかけてを見るなら。
きっと同じように、昏く粘りつくような『赤』なのだろう。
───男は、手負いだ。
───周りを囲まれ、もはや勝機の無い、脆弱な命だ。
けれども、追い詰められた獣とも、絶望した敗北者とも違う表情をしていた。
感情を映さないガラス玉のような目で、男は更に一歩進む。
どん、と。
通り魔に似た唐突さで、近くの何かにぶつかり。
当たったそれは、どさりと倒れた。
代わりに男の背が切り裂かれ、またアスファルトを濡らしてゆく。
それでも、ざくり、と。
別の何かに体ごと当たって。
それを受け止めたものが、ごとんと倒れた。
男の動きはひどく緩慢で、眠りすら誘うような遅さだ。
そして、それは。
彼が知覚している世界がすでに、スローモーションであるという証明。
もう一度、何かに体をぶつけて。
───けれども、その何かは倒れなかった。
弾き返されて地に伏したのは、男のほうだった。
「何故だ・・・どうして我々が、こんなッ!」
動かない1名を抱えた、もう1名が喘ぎを絞り出した。
「ただの人間に、半数もッ!」
「おのれッ!バラバラに引き千切ってやるッ!」
最後に倒れなかった1名が、肩を押さえながら男に近付く。
「───やめろ。止めを差すな」
それを制止した者も負傷した腕をだらりと下げ、怒りに満ちた表情。
それでも、口調を荒げることなく耐えている様子だった。
「手脚の腱は切断した。回復しようにも、魔力は枯渇状態だ。
もう動けはすまい」
「しかしッ!」
「絶対に殺すな。
こんな異常個体だ、うっかり死なれて転生されたら面倒どころではないぞ。
生かしたまま『研究所』に引き渡す」
「───ああ───了解、した。
くそッ、忌々しい奴め!カプセルの中で永久に苦しめッ!」
うつ伏せた男の脇腹が、鋭く蹴り込まれて。
更にその背が、踏み付けられる。
他の者もそれに加わり、肉を叩く重い音が響いた。
「おい、だから」
もう一度制止しかけた声が、途切れる。
「───まあ、それくらいはな」
「殺さなければいいのだろう?骨くらい折れても、問題は無いさ!」
「───ん?こいつ、何か言ってるぞ?」
「何だ?今更、命乞いか?」
「好きにさせておけ。
声帯も潰してある。耳障りだからな、人間の声は」
尚も執拗に蹴られ、しかし苦鳴の1つも漏らさず。
男の唇は、確かに動いていた。
血溜まりに伏せたまま。
何度も同じ動きを繰り返していた。
それでも、全てが幻のように。
まるで別世界の出来事のように、すぐ側を誰かが歩き、通り過ぎる。
幾つも転がっている《人ではないもの》にも、何の注意を払わず。
車のヘッドライト、排気音。
遠く聞こえる街の喧騒。
誰も立ち止まらぬ世界と、誰の目も憚らない《人ならざるもの》。
一体、どちらが夢なのか。
どちらもただの、夢なのか。
降り始めた雨が、アスファルトと男の背を叩き。
そして。
傷だらけの小さなテーブルの上、同じように水滴が弾けた。
「・・・グランツ」
椅子に腰掛けた悪魔が呟く。
「愛してるわ・・・愛してるのよ、グランツ」
ドレスの襟元を掴む指が、わななく。
否。
全身が、寒さを堪えるように激しく震えている。
「貴方を助けたい。
けれど、貴方を食べたくないの」
嗚咽と共に、次々と水滴が零れ落ちた。
窓の外からやって来た風も、それらを押し流すことは出来なかった。
「・・・ああ・・・」
美しく哀しい声で、悪魔が言った。
「「・・・ああ・・・」」
首筋に咲く『もう一つの口』は、冷ややかに笑った。
「・・・だから、《贄》を」
立ち上がった悪魔の髪と、ドレスが風に揺れて。
歩いた。
歩き始めた。
何処へ。
その答えは要らない。
向かってゆく目的地に、定められた名称は無く。
「・・・エールケン・ベリ」
敢えて言うならば。
《こちら側》だった。
「・・・エールケン・ベリ」
その唇の動きは、倒れた男が繰り返すものと同じ。
嘆きと怒りを混ぜた声色で、悪魔が囁く。
世界が、ぐらりと揺れた。
まるで、『それを撮影する者』が恐怖を感じたかのように。
「エールケン・ベリ」
また世界が揺れた。
そして、震え始めた。
あたかも、壁際に追い詰められた誰かが、逃げ場を失ったかのように。
「エールケン・ベリ」
《こちら側》に迫った悪魔の顔が。
唇の端が、はっきりと吊り上がった。
涙の筋で頬を濡らし。
けれども、笑っていた。
優しく、等しく、全ての者達に。
「エールケン・ベリ」
・
・
・
・
・
・
・
重苦しい音が、響き渡る。
遥か遠くから。
そして、すぐ近くから。
風の叫びも、雨音も死んだ。
踏切の音も、いや、街全体のざわめきすらも。
それらをみな塗り潰して、大気がびりびりと揺れた。
陰鬱で無感情な『声』が。
深い穴の底で木霊するように、のたうった。
「「・・・エールケン・ベリ、エールケン・ベリ」」
「おい!───しっかりしろ、おい!!」
TV画面の前、ソファに座った2名の天使。
その肩を、もう一名が激しく揺さぶる。
「正気に戻れ!!私のほうを見ろ!!」
「「・・・エールケン・ベリ、エールケン・ベリ」」
「やめろ!!───駄目だ、捧げるなッッ!!」
虚ろな瞳で唱和する者達の頬が、何度も強く張り飛ばされ。
だが、必死に叫んでいた天使もついに、ごとん、と膝を付く。
「う───ああ───がっ───!」
ぎょろぎょろぎょろ。
ぎょろぎょろぎょろ。
激しく動き回る眼球。
糸を引いて床に落ちる唾液。
そして、それが収まった時。
「「「・・・エールケン・ベリ、エールケン・ベリ」」」
声は、3つになった。
・
・
・
・
・
・
・
「ボス、これは!!」
「《感染呪術》かッ!?」
スーツの男が慌てて立ち上がり、叫んだ。
「とんでもねぇモン、流しやがって!!」
リモコンの電源ボタンを押す。
しかし、画面は消えない。
何度押しても消えない。
「───くそッ!!残り5分、延々と『これ』をやる気かよ!?」
怒りに任せて投げ付けたリモコンが床に跳ね、破片を散らした。
「ヤバい!!何とかして放送を止めさせねぇとッ!!」
「これは・・・恐らく無理かと」
「おい、『無理』とか言ってんじゃねぇぞ!!
放送局に乗り込むか、TV塔をブッ壊すかしなきゃ、このままじゃ、」
「もう遅い」
嘲りを多分に含む尊大な声に驚き、悪魔達が振り返る。
「たっぷりと、お腹一杯に食べたわ───ヴァレスト」
いつの間にか、そこには。
白いドレスの腹部を鮮血で染めた《悪魔》が立ち、嘲笑っていた。




