382話 危険な男 06
「ちょっと───ちょっと、待って」
地上で溺れる魚のように、息絶え絶えに言った。
「とても、優秀なのよ?
それに───あと少しで独立して、出てゆく予定で───」
「『独立』とは?」
「地位を買って、新設部署の長になるのよ」
「貴女と同じように?同等の地位に?」
「ええ、だから」
「ならば、尚のこと。確実に殺しておくべきだ」
真っ直ぐにあたしの目を見て、少しも瞬きをせず。
老人は、とても。
とても優しく微笑んだ。
「ど、どうして───」
「『それ』は貴女にとって、損害をもたらす手札だからです。
『それ』が貴女を裏切るにせよ、黙って手中から出てゆくにせよ。
最終的に残るのはただ、損害に他なりませんな」
ここで言う『それ』とは勿論、ディシャリスのことだ。
優秀で、上昇志向を持つ者。
その両方を、高いレベルで備えるのは。
ディシャリス以外に、思い浮かぶ顔が無い。
「独立後は、味方にすることも───」
「計算結果に願望を足せば、全てが上手くゆくように思えるもの。
されど、共闘したところで、捕食者の群れから身を守れはすまい。
そう出来ないようにするシステムが、すでに確立されていると思うべきだ」
「システム?」
「そうです。
今、こうして私達が話をしていられるのは。
彼等にとって貴女は《獲物》であれど、急いで食べる必要が無いからです。
互いが互いを敵視し、牽制し合う中、余計な隙を見せたくない。
だから、泳がせている。
けれども、『それ』が新しく参入してきたならば。
貴女は即座に、喰い潰される。
取っておく《獲物》は、一匹のみ。
それで十分。
そういう『取り決め』なのです。
《新たな獲物》に恐怖を植え付ける為にも、丁度良い出し物だ」
「!!」
「『それ』を所持している間のメリットは、もう十分に得たはず。
独立が間近ならば、早急に処分するべきです。
出て行きたがる、けれど、手放すこと自体が危険な手札だ。
確実に、最大限、有意義に殺してしまいましょう」
「───殺す───有意義、に───」
「不肖、この私に少しだけ助言させていただけるなら。
例えば。
机の上に金のインゴットを積み上げて、外出するのです」
「──────」
「”手を伸ばすだけで、自分の物になる”。
”あと少し、あと少しと努力してきたけれども”。
”もう『あと少し』を耐えなくても、これさえ手に入ったなら”。
”これさえあれば、すぐに自由になれる”。
”長年夢見てきた事を、叶えることが出来る”。
至極稚拙ではありますが。
《出口のすぐ側》まで辿り着いた者にこそ、恐ろしき罠。
『それ』が貴女の机から視線を外すのは、容易な事ではないでしょうな」
「──────」
「そして。
後は適切な法をもって『それ』を処断することで、公的に殺すのです。
すぐに貴女の《不愉快な同僚達》が嗅ぎ付け、話し掛けてくるはずだ。
”この度は、大変だったな”。
”大切な手駒を失ったと聞いたが。深く同情するよ”、と」
硬直しているあたしの目の前。
男は静かにカップを持ち上げ、喉を潤す。
「───貴女はただ笑って、こう言うだけでいい。
”大した事ではありませんし、元々『あれ』は外部に情報を売っていたので”。
その『外部』とは何処だ、と問われても、”さあ?”と惚けてみせて。
悠然と立ち去るのです。
これは、いわゆる《万能の一手》と呼ばれるもの。
情報を売っていたなど、出鱈目な言い掛かりでも。
よもやそれが、事実であったとしても。
どちらにせよ捕食者達は、誰が情報を買っていたのかを調べる。
疑い合いを、更に深める。
そして、ここへ至ってようやく貴女を、《正式に》警戒し始めるのです。
大人しく喰われるのを待っている、無力な存在ではないと。
笑ってはいても、『武器』の何本かはその懐に抱えているはずだと」
「──────」
「ああ、心配には及びませぬ。
『それ』の抜けた穴などは、どうとでもなる。
優秀が過ぎれば過ぎるほどに、周囲もその者自身も誤解しがちですが。
《単に優秀であること》など、幾らでも替えがきくのですよ。
育てる事さえ可能な、ただの『一要素』でしかない」
「──────」
「『それ』の優秀さが、どんなに突き抜けていようと。
集団の中には必ず、二番手、三番手が存在します。
そして彼等は今、心のどこかで諦めてしまっている。
”どれだけ努力しても、勝てない”。
”一番になれないなら、これ以上頑張っても無意味じゃないか”、と。
その感情は確かに、彼等の自由意志に基づくものではありますが。
一番手である『それ』が、意図的にそう思わせて牽制しているとも言える。
しかし、『それ』さえ居なくなれば」
「『枷』が外れる、と」
「そう。
二番手だった者が、また努力し始める。
”前の一番手のほうが凄かった”などと言われぬよう、きりきりと。
『それ』がやったのと同じように、自分より下を諦めさせるほどに。
貴女は、特に何もしなくとも良い。
期待値を下回りそうな場合に、多少焚き付けるのみで構わないのです」




