365話 我は、ここにあり 01
【我は、ここにあり】
長大な影が、前方から近付いてきた。
丸みを帯びた大きな頭部と、それに見合わぬ意外と小さな眼球。
それは、こちらを認識しているのか、少しも気にしていないのか。
口を開けたまま、ゆっくりと胸鰭を泳がせ。
幾つもの気泡を纏いながら、悠然と。
目に見えぬ軌道を進む列車のように、巨体がゆっくりと真横を通り過ぎてゆく。
───まるで、夢か幻。
───透明な積層硬化樹脂の、その向こうの景色ではあるが。
廊下の左側は、壁ならぬ『一面の水槽』だ。
遥か古代に絶滅した筈の、リードシクティス。
史上最大の硬骨魚は、閉ざされた《疑似海洋》を泳ぎながら、何を想うのか。
最先端の無慈悲な技術によって『復元』された彼・・・もしくは彼女は。
他に仲間を知らず、死ぬ事さえ許されていない。
数百年後も此処で、巨大なフロアの外周をただ泳ぎ続けているのだろう。
───足音を殺し、黒曜石の廊下を進む私もまた、海の中だ。
光無き深海を、まともに呼吸すら行えず歩いている。
胸の動悸と、背を濡らす汗。
こんな場所、さっさと駆け抜けてしまいたいのに、それが出来ない。
恐ろしくて、歩みが進まない。
擦れ違う者が皆、私を見ている気がする。
振り返った瞬間、肩を掴まれそうな気がする。
───苦しい。
───苦しくて、早く《息継ぎ》がしたい。
もう少しだ。
もう少し。
静かに、真夜中の影の如く。
ただの風景のように、この区画を通り抜けて。
『昇降機』にさえ辿り着けば、息が出来る。
あと僅かだ。
ほんの少しだ。
よし、もう見える。
『昇降機』前の、ホールが。
そこまで行けばもう、私は。
───わた、し、は───
ああ。
あと10歩ほどで、終わりだったのに。
もう、呼吸を止める必要が無くなった。
ホール窓際の歓談席から立ち上がった、ただ一名によって。
私の退路は、完全に塞がれてしまった。
「───やあ、フォンダイト君」
「・・・ちょ、長官・・・」
「階下へ降りる前に、少し話をしようじゃないか」
何の感情も読み取らせぬ、無表情さで。
イスランデル長官は、取り出した煙草を咥え、火を点ける。
まるで、”死刑は確定だが、形だけでも裁判はしてやろう”。
そんな仕草に見えた。




