281話 知らないことは、知らないことに 07
───昨夜は、惜しかった。
───本当に、かなりギリギリの惜しいところまでいった。
コーヒーから立ち昇る湯気と、咥えタバコの煙。
それらが混じり合う様を見ながら、ゆっくりと息をつく。
『悔しい』、という感情は無い。
むしろ、満足感。
充実感。
いつもは寝ぼけ眼で啜るコーヒーも、今朝は違う。
味も香りも口内で豊かに広がり、まるで俺を祝福するかのようだ。
───仕事をした後は、気分爽快。
ソファの柔らかさに身を包まれながら、存分に紫煙を吐き出す。
こうして寛いでいても、許される。
誰が何と言おうが、今の俺にはそれだけの資格がある。
ある程度有名か、もしくは高位の悪魔にとって、『釣り』は嗜みだ。
古本屋で埃を被った、『いかにもなやつ』。
思春期の少年少女が思わず手に取るような、『ちょっとあやしいやつ』。
そういったオカルルト系書籍のページを、一部改竄する。
それっぽい図形をこっそり、自分に直接繋がる召喚陣と差し替える。
勿論『召喚陣』といっても、正式なものじゃあない。
俺の愉快な相棒が見たら”ふざけんな!”と叫ぶくらい、デタラメな陣。
呪文にしたって、雰囲気重視で効力無しの『マイ・ポエム』的なもの。
ただし、本当に召喚可能である。
要は、《ただのインチキ》を《使えるインチキ》に変更するわけだ。
それを『喚ぶ際のコスト全部こっち持ち』で、少しだけ人間社会に流す。
まさに『釣り餌』。
当たればラッキーな、ちょっとした『お遊び』だ。
───その俺が流している偽名の1つに反応があったのが、昨晩。
颯爽と登場してみれば、召喚者はかなり怯えた様子だった。
半信半疑で試したら悪魔が現れた、というのもあるだろうが。
それ以上に、現在流行っているドラマの影響が大きい。
『あれ』のせいで人間達は。
”悪魔が肉体の一部を食べる”と思い込んでしまったのだ。
当然、そんな馬鹿な事をするつもりは無い。
というか、やろうとする悪魔なんか居ない。
悪魔の職務上、必要無いどころか、厳罰ものの『大違反』である。
俺はそこのところを、優しく丁寧に説明した。
それから、人間関係に悩む彼女の話をじっくりと聴き。
年長者として、男性として、更には異種族としての観点も交えて助言した。
東の空が薄く白む頃、俺はミズキちゃんを紳士的に抱擁し。
彼女は俺に、悪魔を頼ることなく、自分の力で解決すると約束。
───つまり、契約点数としては、ゼロだ。
しかし。
このゼロは、限りなく1に近いゼロ。
実に大きな意味がある。
記録には残らないが、記憶に残る、というやつだ。
俺は仕事をしたぞ。
きっちりと、適切な仕事をしたのだ。
そりゃもう、コーヒーだって美味いに決まってるさ。
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「ヴァレストさん、少しよろしいでしょうか?」
「うん?どうした?」
応接室の入り口に立つランツェに、顔を向ける。
───待てよ?
このパターン、以前にもあったような。
まさか、またイスランデルか!?
───いや、違うな。
ランツェの表情は明るい。
大丈夫だ。
これは『厄ネタ』ではなさそうだ。
「あのう・・・わたくしのお友達が、ヴァレストさんと話したい、と」
「友達?」
「はい。学院の同期生で、一緒に合唱部に入っていた子で。
彼女、凄く唄が上手なんです!
誰がどんな曲を唄っていても、強制的にハモれる特技の持ち主で!」
「ほほう」
『彼女』───女性、か。
天界の歌姫であるランツェが褒めるくらいだ、相当に上手いんだろうな。
だが、その特技は若干、迷惑な気がする。
自然とKARAOKEに誘われなくなるタイプだぞ、多分。
───まあ、とにかく話してみよう。
「じゃあ、回線を貸してくれるか?」
「はい!」
今の俺は運気というか、女性運が高まっているのかもしれない。
ランツェの足音が遠ざかるのを聞きながら、新しいタバコに火を付けて。
よし。
一日の始まり。
平穏な朝。
軽妙なトークを楽しむとするかね。
「───もしもし、代わったが」
渋めの声でキメて、コーヒーを一口。
”やあ。ネイテンスキィだ”
ぶふうッ!
むせて、危うく吐き出しそうに!
いや、結構空中に散布したような気も!
「なッ、何でお前が!?───ヘロインはもう要らんぞ!?」
”前回の分で、借りは返したつもりだが。
そう何度も期待されると困るぞ”
「要らない、って言ってんだよ!まったく───俺に何の用だ!?」
”ああ、ちょっと頼みがあってだな。いや、そう難しい事ではない”
「───もはや嫌な予感しかしないが、一応聞くだけは聞いてやろう」
”ヴァレスト、お前はエルフ達に顔が広いか?”
「率直に言って、俺が知っているというより、知れ渡っている感じだが。
エルフの情報を天使に渡すつもりはないぞ」
”情報など必要ない。ただ、伝言を頼みたい”
「───誰にだ?」
”名前は知らない”
「じゃあ、諦めろ」
”待て待て、そう急ぐな。
特徴を言おう・・・体が細くて、耳が尖っていて”
「ナメてんのか、お前」
”男だが、髪が長くて”
「エルフは大体、そうだろうが」
”あとは、何だったか・・・ああ、あれだな。
妻が娘を連れて、実家に帰ってしまった”
「───はあ!?」
”どうだ、ヴァレスト。
そういう哀れなエルフに心当たりはないか?”
「───思い浮かぶ奴は、いるが。
お前、そいつの事をどうやって知った??」
”道端で奇声を上げていたのでな。
奢ってやって、遺伝性疾患の話をしたくらいだ”
「は??」
”とにかくだ。
今そいつは、どこの国をほっつき歩いてるか分からんが。
どうにかして緊急で、伝言を頼みたい”
「緊急って───内容は?」
”『海エルフ』を探すのは、やめろ。
死ぬぞ。
それだけでいい”
「何だ、『海エルフ』って??」
”じゃあな”
「いやいやいや!待てこら!
切るなッ!───おいッ!!」




