275話 知らないことは、知らないことに 01
【知らないことは、知らないことに】
「憎悪と復讐を司る者よ。
バーキラの金十字を持ち、欠けたる月に潜みし悪魔、レンダリアよ。
疾く来たりて、我が願いを叶え給え。
我を苦しめる者すべてに、耐え難き苦痛を。
常闇の城に連れ帰り、その背に鞭を。
皮を剥がし、肉を穿ちて、愚かなる魂を猛炎に焚べよ。
エールケン・ベリ、エールケン・ベリ、エールケン・ベリ───」
蝋燭を立てた白い皿を、両手で胸の前に持ち。
酷く腫れた顔の唇から血を滴らせ、娘は呟いた。
掠れ震えて、消え入りそうな声。
だが、執拗に。
粘りつくような憎しみと執念を携え、邪なる文言は繰り返される。
「エールケン・ベリ、エールケン・ベリ、エールケン・ベリ───」
月が雲間に隠れ、闇の深まる部屋。
娘の顎先から滴が溢れ落ちた、その時。
───炎が消えた。
娘が手にしたもの。
床に描かれた図形を囲むもの───全ての蝋燭が、同時に息絶えた。
「・・・・・・」
はあっ、はあっ、はあっ。
呼吸を乱し、娘は一層大きく震え始める。
はあっ、はあっ、はあっ。
遠くで啼く、犬の声。
やがてそれは、聞こえなくなった。
線路を揺らす、貨物列車の通過音。
やがてそれも、聞こえなくなった。
重苦しい鼓動。
壁時計の秒針が切り刻む、焦燥感。
止まらない汗。
ひゅっ、と息を吸い込む音。
そして。
ダンッ!
怒りを露わにした表情で、彼女は脚を踏み鳴らした。
ダンッ!
その膝も笑い始めて、体がよろける。
それでも、皿は手放さない。
たん。
力無く床を踏む音。
微かな嗚咽。
それでも、皿だけは手放さない。
───窓からもう一度、月光が差し込んだ。
───その時にはもう、『女』が立っていた。
「御機嫌よう、アリサ。私を喚ぶのも、随分と慣れたわね」
「!!」
『女』の声に、娘はようやく安堵したか、弱々しい笑みを見せた。
「───あらあ?どうしたの、その怪我!
さぞかし痛いでしょうに!もしかして、口の中も切れているのかしら?」
「・・・平気です。そのうち治るし」
「そうねえ。肉体の傷って、基本的には治るわねえ。
治らないのは、心のほう。
それはずっと、ずうっと、痛くて苦しいわよねえ」
白いドレス。
貴婦人のような出で立ち。
召喚陣の中で『女』は、すい、と片手を上げて。
そこに引き寄せられるように、足元にあった紙片が浮かんだ。
「ふうん───今回は3人?
でも、最後に書いてある名前───確か、お友達じゃなかったかしら?」
「いいんです。
もう友達じゃないから。本当は友達じゃなかったから」
首を傾げる『女』に、娘は笑ってみせた。
まともに開けられぬほど腫れた右目から、涙を流し。
向日葵のような笑顔を咲かせた。
「いい子ね、アリサ!本当に、なんて可愛いんでしょう!
必ず私が、貴方の力になってあげるわ!
でもね。
4回目ともなると───」
言葉が、そこで途切れた。
『女』は口を閉ざし。
代わりに、《首の横にある口》が残りを続けた。
「───かなり貰うことに、なっちゃうわよお?」
「はい。構わないです」
「そ〜お〜?じゃあ、どうしようかしら?
何も見えないのは可哀想だから、片目は残してあげたいし。
手足はもっと後でもいいし。
───そうねえ。
今回からは、内側のほうを貰ってもいいかしらあ?」
「それなら、子宮と卵巣で」
「まあっ!!なんていじらしい子なの!!
本当に大丈夫?そんな大盤振る舞いで」
「月経なんて、つらいばかりだし。
こんなの無くなっても、全然平気です」
「「そ〜〜お〜〜? ほ ん と にぃ〜〜〜?」」
両方の《口》が、念を押す。
「・・・ほんと、です・・・」
『女』は、身を乗り出して───
すぐにそれは、中途半端な姿勢で止まった。
まるで、透明な板に阻まれた如く。
だが、両手の平と頬を『それ』にベタリと張り付かせ、目を剥いた。
殆どが白目の血走った眼球が、忙しなく動く。
触れられない娘の体の、奥深くを探すかのように。
「「ねぇ〜〜 他に理由がぁ〜〜〜 あるんじゃないのぉ〜〜〜?」」
「・・・な、い・・・です・・・」
「ん〜〜、ご免なさいね?ちょっと怖がらせちゃったかしら?」
「・・・いえ・・・」
「そお?それなら、丁度空腹だったところだし。
すぐに始めようかしらね?」
『女』は見えない何かから、ゆっくりと顔を引き剥がし。
とても優しい口調で。
猫撫で声で、硬直した娘に言う。
「───さあ、アリサ。こっちへいらっしゃいな」
手招きする『女』の、白いドレス。
赤黒い染みの飛び散る腹部が盛り上がり、ぞぞ、と蠢いた。
風が窓を揺らす音。
娘の呼吸音。
それよりも大きな、『女』の荒い息遣い。
皿の蝋燭が再び、ぼう、と灯り、娘の汗ばんだ顔を照らして。
「は や く 入っておいでええぇ。
お皿を落としちゃ駄目だからねぇええ。
痛いのは、どうせ治るからねええぇ」




