プロローグ1 悲しみのレッド
患者1号、姉。
【悲しみのレッド】
「・・・・ん〜〜〜・・・・」
琥珀に煌めく液体。
少し目を細めた後、一気に呷る。
「・・・・ん〜〜〜」
体温と同じ温かさの、豪奢なカットグラス。
僅かに残った、薄い夢の色。
香り。
黒真珠のリングをはめた指が、赤い唇に触れて。
ぴたり、と動きを止めた。
「・・・・ん〜〜〜」
胸の中には、何の悩みも無い。
無いから、酒が美味い────というか。
少なくとも、不味くはない筈なのだが。
────どうにも、面白くない。
────嫌な感じがする。
それは殆ど、直感の類。
理由云々ではなく。
幼稚なほどに単純な、本能の警告なのだ。
例えば、テーブルの上のランプ。
炎の揺れ方が気に食わないが、いつもと何が違うわけでなく。
例えば、花瓶に挿した一輪の花。
怯えたように縮こまっているが、もうその表情にも慣れていて。
例えば、窓の外に広がる深い闇。
思い出したくない記憶を蘇らせるが、現実ほど意味があるはずもなく。
例えば────
「・・・・ん〜〜〜」
まとまらぬ思考。
強さを増してゆく、不可思議な嫌悪感。
そして。
嫌がらせのように、延々と鳴り響くノックの音。
「・・・・あ〜〜〜も〜〜〜・・・・」
ガン、とグラスを叩き付けて。
ついに女は、叫び散らした。
「・・・・うるさいっての!!開いてるから、勝手に入ってきなっ!!」
「────お久しぶりです」
フードを外し、軽く礼をする男。
「随分と、御機嫌斜めの様子で」
苦笑したその顔を、女は怪訝そうに見つめて。
一瞬の後、再度大声を上げた。
「ああ!!お前か〜〜〜!?来い来い、こっち来いよ!」
ひらひらと手を振り、部屋の奥へと促す。
「・・・・はは」
きついアルコールの匂いに、男もまた苦笑を繰り返し。
灰色の外套を脱ぎつつ、テーブルに歩み寄る。
「・・・・師匠。相変わらず毎晩、飲んでいるんですか?」
「あったりまえだろ。他にやることもないしね〜〜」
向かい側の椅子を引く男。
座ったままで棚に手を延ばし、もう1つのグラスを放るように置いた女。
「ほら、飲みな!ええと・・・ギャ・・・ギュ・・・」
「ガルフォラです」
深い溜息と共に男は、薄く埃のついたそれに酒を注ぐ。
「名前くらい、覚えてください」
「うっ────違う!言い難いんだよ、お前のは!」
「忘れてたんでしょう?」
「ぐちゃぐちゃ喋ってないで、とにかく飲め」
自分の分にもウイスキーを満たし、睨み付ける女。
「ぐっ、と飲らないと、ぶん殴るからね」
そう宣言し、一息で喉に流し込む。
「・・・・・・」
呆れとも諦めともとれる表情を浮かべ、男もそれに続く。
空になったグラス。
また互いが、自らの手で己の分を注ぐ。
「・・・・ん〜〜〜。最高!」
満足そうに笑って、女は椅子を後ろへと傾かせた。
きし、と音を立てて受け止める、壁のへこみ。
長い年月、続けられてきた行為の証。
「やっぱ、お前みたいなのでもいれば、酒が美味いね〜」
「『みたいなの』というのが、いささか引っ掛かりますが」
憮然とした口調で返しつつ、けれども男の視線は横に外される。
「・・・・師匠」
「ん〜〜〜?」
「テーブルに脚を乗せるのは、お止めください」
────齢50少し前の、精悍な男。
────20(はたち)くらいであろう、赤髪の女。
誰の目からしても、父親と娘ほどに離れた組み合わせ。
だが。
男は女を、『師匠』と呼び。
女もそれを、平然と受け止めている。
「あたしがどうしようと、関係無いだろ」
「いえ。関係あります」
ぶっきらぼうな物言いと、即座にあがる否定の声。
「・・・その・・・・」
「ああ?」
「・・・特にそういう服装の時は・・・ご遠慮いただきたい」
「ちっ!う〜るせ〜なぁ〜」
ランプの炎を映したグラスを、しなやかな指が弄ぶ。
「いいからガキは、鼻の下伸ばして拝んでな!」
あらぬ方を向いた男の前で、にやり、と笑い。
女は、その長い脚を無造作に組み替えた────
「こんなとこで暮らしててもね。噂話くらいは知ってんだよ」
ゆらゆらと椅子を傾けながら。
髪と同じ色の瞳が、すう、と細められた。
「お前、ついに騎士団長になったってねぇ。────ええと」
「ベルウィッツ王国」
「そう、それ!ベルなんたらの」
2本目の瓶。
すでに残り少ない中身。
男の目はまだ、酔いに曇ってはいない。
その殆どを飲んだのは、師たる女のほうだからだ。
「伝わっていましたか」
グラスに口をつけ、微笑む男。
「まあ、年功序列の世界ですよ、騎士団というのも」
「ふうん」
「むしろ、若い連中を扱う分、気苦労が増えただけです」
「────そいうもんかねぇ」
気持ちよさそうに揺れる、女の体。
しばしの沈黙。
「────なんかさぁ。面白い話とか、無い?戦以外で」
「・・・・まるで、戦が面白いように聞こえましたが?」
「じゃあ、それでもいいけど」
あからさまに気乗りしない声。
吹き出した男。
「ははは。残念ですが、戦もしばらくやってませんね」
「なんで?」
「同盟やら、協定やらでね。一応は平和な世の中ですよ」
教え諭すように語り、また男は1口、ウイスキーを含む。
それを眺めながら。
女の顔が僅かに、悲しい影を帯びた。
「だったらさ。お前の腕も、錆び付いちまうじゃん」
「そりゃあ、そうかもしれませんが」
「勿体無いねぇ」
「そう仰っていただけるなら、弟子として本望ですね」
にこやかに頷く男。
酒瓶に伸びる、無骨な手。
幾十年に渡り剣を振るい続けた、強く太い指。
それが。
凍り付いたように固まった。
椅子と壁の軋みが、いつの間にか止まっていたと気付いて。
「────馬ぁ鹿。嫌みで言ってんだよ」
「・・・・・・・」
冷ややかに燃える、赤い瞳。
言葉を失った男の眼前、テーブルに乗っていた脚が酒瓶を払い落とす。
堅い床の上で、けたたましい音が散った。
「────表に出な」
「・・・・・・・」
軽やかに椅子から降り立ち、女は背を向けた。
「ちょいと、稽古つけてやるよ」
薄曇りの空に、細く尖った青白い月。
秋も終わろうとする季節の夜風が、さわさわと女の髪をなびかせる。
「────ねぇ。せっかくだしさ」
身の丈もある両手握りの長剣を、片手でぐい、と持ち上げつつ。
まるで歌うように、女が言った。
「どっちか死ぬまで、やってみようじゃん」
「・・・・それは、『稽古』の域を超えてますな」
腰に吊した剣の柄に、手を伸ばす素振りもない男。
幽鬼の如く乾いた、虚ろな響き。
「ふふん」
それを嘲笑ったのは、魔性の赤。
「分かんないやつだね────『ぶっ殺してやる』っつってんの!」
女が言い放つと同時。
男の姿は、残像を引いて地を駆けた。
刹那。
受け止め、斬り返す刃。
叩き付け、更に突き進む軌跡。
闇の中、弾け飛ぶ火花。
鋼の響き。
耳をつんざく凶音が上がる度、両者の位置が入れ替わり。
交わるほどに変化し加速してゆく、殺意を秘めた乱舞。
────男を『風』と例えるなら、女は『炎』。
唸りを呼んで攻め狂い、真偽を超越して繰り出す連撃の牙と。
僅かにでも触れれば、全身の急所を刻み尽くすだろう斬撃の円。
男が手にする細身の剣は、騎士のものとして、いささか短い。
にも関わらず、銀光は槍を思わせるほど、ひた疾り。
相手が懐へ入る一瞬の隙さえも与えない。
女が打ち振るう長剣は、叩き潰す為の重量を備えた両手剣。
されども、その細腕1つで幾重の螺旋を描いて、絡み合い。
対峙する者に攻守の境を読ませない。
────だが。
────心得のある観測者がいたなら、もはや勝敗を悟っただろう。
一見互角とも思える、激しい競り合いの中。
呼吸を乱したのは、男の方。
女は、汗の1滴も肌に浮かべぬどころか。
時折とはいえ、欠伸を噛み殺すような気怠い表情を見せ始めている。
────ただの『稽古』。
殺すつもりでありながら、手を抜く余裕があったのは。
明らかに、師たる赤眼の女。
「あ〜〜〜あ、臭い、臭い!外道の匂いが移っちまうよ」
襲い掛かる光の牙を全て弾き落とし、それを放った者を追い詰める円の残光。
風を押し包む、業火と見紛う髪の色。
「何が『平和な世の中』だ。相当殺しやがったくせに。ええ?」
「・・・・・・・・」
応えは無い。
答えられない。
ぶ厚い鋼の塊が、体勢を崩した男の剣にのし掛かり、自傷させていた。
「娼婦、酔っ払い、孤児、浮浪者」
ぎりぎりと自らの肩に食い込んでゆく、男の剣。
零れる血と、獣の喘ぎ。
「あとは────そうだな。野良犬とか、そんなとこだろう?」
「・・・・・・・・」
「退屈しのぎの『お遊び』か?よくも、あたしの名に泥塗ってくれたね」
「・・・・あ・・・・ああ・・・・」
修業を終え、剣を渡された18年前の朝。
一度だけ見た、聖母の眼差し。
その記憶を塗り潰すような、凍った炎の瞳に魅入られて。
男は、苦痛と涙を迸らせた。
「────祈れ────この、馬鹿弟子が!」
瞬きほど間を置いた後、女の剣が。
月さえ羨む、美しい孤を咲かせた。
「ったく。見たことない面だね」
引きずり出された異形が、震えながら許しを請う。
その矮小な仕草が尚更、怒りに火をくべる。
「どこのモンだ、ああ?ゾール(滅王)か?」
手首から肘ほどの長さもある、蛭に似た黒塊。
それを握り潰しながら、女は問い詰めた。
「ジアス(屍虐帝)か?────いや、エムレ(欲暴主)か?」
げうっ、と黒塊が啼く。
頭部らしき部分が裂け広がり、おぞましい文字を象った。
「こんな下っ端に魂、売り飛ばしやがって。胸クソ悪い!」
かっ、と開かれた口。
真っ赤な深淵と、鋭い牙。
異形は悲鳴を上げる暇も無く、噛み砕かれ。
喉の奥へと飲まれていった。
「────────」
ふん、と忌々しそうに唇を歪める女。
足元には、割れた頭蓋だけを残して灰になった、男の成れ果て。
「300年の間で、いっとうマシだったんだけどねぇ・・・・」
名前は忘れど、記憶の中に残っている絵。
この手で鍛えた剣と、それを託した同じ数の戦人。
10年ほど、誰にも教えなかったこともある。
5人を同時に競わせたこともある。
技量のみを問うなら、この男より上は幾らでもいた。
たった2年で、独り立ちを認めた者。
分裂した民族をまとめ上げ、王座に着いた者。
邪竜を屠り、英雄と呼ばれた者すらいる。
────だが。
人間として生き、人間のまま死ねた弟子はいない。
欲にまみれ、憎み、恨みを買い。
結局は、つまらない理由で命を落とす。
歴史の影に埋もれてゆく。
それこそが人間だ────とは思わない。
自分が信じている『人間』とは。
そんな愚かしい生き物ではない。
脆弱であっても、卑屈ではなく。
他者より秀でようとも、驕ることなく。
心の中に、一振りの剣を立て。
そこに大切なものを守る為の、城を造る。
完全には至らぬと知りながらも。
完成を目指し、近付いてゆく。
────それが、『人間』だ。
初めて見た、人間という種族。
単身、地獄の底へ辿り着き、自分と剣を交え。
2千を超える剣撃の果て、死すとも倒れなかった剣士。
彼は、『名前が欲しい』と言った。
剣奴隷とは、貴族に飼われた商品。
地獄の最下層にある宝玉を持ち帰れば、自由になれる。
解放され、望む名を付けることを許されるのだと。
“今、お前に鎖は無い。このまま遠くへ逃げろ”
《鎖はある。見えないそれを断ち切る為の、試練だ》
“宝玉など、くれてやる。さっさと帰れ”
《慈悲ではなく、証が必要だ。自らを誇り、明日を生きる為の》
彼は、胸を貫かれた後。
己のが剣を炎土に突き立てた。
右足の甲ごと。
そして、立ったまま息を引き取り。
────愛してしまった。
同じ目の色。
無情な運命を切り開く、強い力を宿した『心の剣』。
彼によく似た剣さばき。
それを殺したのは、やはり────
彼が。
男がまだ生きていて、そこに横たわっているだけのように。
愛しい我が子を、帰れぬ旅へと送り出す母のように。
女は、赤い瞳から、赤い涙を滴らせた。
「ガルフォラ────ガルフォラ、ね。覚えてやったよ」
小さな呟きと、亡骸の上に突き立てた両手剣。
いつの日か、誰かに受け継がせたかった誇り。
けれど、それはあまりに遠くて。
悲しくて。
「仕方ないか────悪魔にゃ人間は、育てられないってこった」
歩き出す女の背を、ぼんやりと見つめながら。
最後の弟子となった男の白骨が、風に崩れた────
元々は、1話完結の短編として書いたものでしたが。
書いた私自身が影響を受けて、シリーズ化してしまいました。
彼女のイメージは、元気、豪快。
身長は、低目かなぁ。
次回は、彼女の弟の話です。