愚かな女が愛おしい
転職して一ヶ月。
廣渡 千奈には毎日楽しみにしていることがある。
職場までは電車で約30分。そこから徒歩で5分程。
会社は駅から近く、屋根もあり雨の日でも濡れることがないのは良いところ。
契約上は営業職だが、現在は営業補佐として主にオフィスでの事務作業がメインだ。
仕事内容は普通で、面白くも退屈でもない。業務量は決して少なくはないが、業務時間内にさばける量でもある。
上司の評判や同僚との仲も好調ではあるが、それを良しとしない人間も存在する。
その筆頭が教育係を指名された先輩の豊本 真凡だ。
自称サバサバ。
イケメンには優しく、女や気に入らない男には当たりが強い。気の弱い上司は彼女に何も言えず、いつも言われるがままに流されている。
女の味方のフリをして、一番に女を叩く。セクハラは許さないと言うわりに自身は男をベタベタと触る。
そういった矛盾の塊なため、職場では嫌煙されているが本人は気づいていない。
真凡の周囲にいる人間は彼女に同調し、彼女を褒めるからだ。裏では悪口を言われているとは知らず。
そういった会社の先輩に馴染めずに辞めていった人間は多いと、入社してすぐ耳にした。
だから極力あのグループには近づかない方がいいよ、と同僚が教えてくれた。
「廣渡さん、遅いんだけど」
「すみません」
「これぐらいもできないわけ? エクセルに転記していくだけなのにどうしてこんなに遅いのよ」
真凡は大げさにため息を吐くと、苛立つ素振りを隠すことなく書類の束を机に叩くように置いた。
気の弱い人間ならそれだけで萎縮してしまうだろう。
「もういいわよ、あとで送っといて」
「はい。今日は何時に戻られますか?」
「は? 戻らないわよ、直帰よ直帰」
営業先に顔を出すというが、まだ午後2時を過ぎた辺りだ。
電車で3駅程なので行き来にそう時間はかからないはずだし、打ち合わせ自体も長くて一時間。戻る余裕はあるはずだが、真凡は上司に直帰します、と伝えて荷物をまとめて出ていった。
すぐに同僚が近寄ってくる。
「千奈、大丈夫だった?」
「え? うん」
「豊本さん本当にひどいよね。自分が忘れてた仕事千奈に押し付けて、そのまま帰るなんて」
「そうかな、でも私も後回しにしてたから」
「あんた優しすぎるのよ。千奈があんまり態度に出さないからって最近いびりがひどくなってるし」
適当に返事を返して会話を切り上げる。
千奈は確かに感情があまり表に出ない。ポーカーフェイスだとよく言われる。
口数もそう多くないため、なにか抱え込んでいるのでは、と心配されることもある。上司との面談時も、困っていることを執拗に聞かれたが特に思い当たることもないため、ないです、とそれだけを繰り返した。
同僚が離れた後、千奈は少し息を吐いた。
ーー今日も豊本さん可愛かった。
真凡が居なくなったデスクを見つめて愛おしさがぶり返す。
真凡は愚かだと千奈は思っている。
イケメンに愛想を振りまいているのに報われないとか、周囲に当たり散らした結果孤立しているのに気づいていない状況だとか、そのすべてが千奈には可愛くみえる。
千奈は気の強い女がとても好きだった。
前職では好みの女がおらず、仕事に対するモチベーションが日に日に下がっていくばかりだったが、今は違う。
転職してよかったと感じるのは毎朝真凡の顔を見る時だ。
飲みすぎてむくんでたり、見るからに着飾って出勤してたり、ストッキングが破れているのを誰にも指摘されていない真凡を見ると感情が肥大して今すぐ抱きしめたくなる。
真凡に当たられるのも好きなので、相手が嫌であろう行為も平気で行う。
二人きりではなく、皆がいるところでストッキングの破れを指摘したり、さっきの仕事だって本当はすぐに終わらせられることができるが、真凡に怒られたくて千奈はあえて後回しにしていた。
付き合いたいとか恋人にしたいという感情とも少し違うような気がするこの気持を千奈はよく考えていた。
デートをしたいわけでもないが、真凡に恋人ができるのは不愉快だ。彼氏はいた、モテるという話をよくしているが、現在進行系でお付き合いをしている特定の誰かがいる気配はないことは既にリサーチ済みだ。
そして考えついた先が、泣かせたい、だった。
普段厳しく高圧的な態度を取っている真凡を泣かせることができるとしたら。
想像しただけで快感が体中を駆け巡る。
ーーだめだ、私ニヤけてる。
口元に手を当て、感情を落ち着かせる。
今日はもう戻ってこない真凡が恋しいが、おかげで集中できそうだった。
「あんたのせいで最悪よ」
「すみません」
「簡単な仕事も任せられないなんて」
「すみません」
週末の金曜日。
この日は前から部署の飲み会をすることが決まっていた。
場所は近くのイタリアン。予算オーバーしていたが、真凡が行きたいとゴリ押しして決まった店だ。差額はそれぞれが負担する、という話が出た時に上司が払えと圧をかけて、結局彼のポケットマネーから出してくれることになった。
部長には悪いけど、ラッキーだわ。と同僚が言っていた。真凡も時には皆に褒められることもあるようだが、部長が可哀想との声も上がっていたので好感度は相変わらず低いままらしい。
千奈はこの日のために、あえて仕事をミスした。
本当に簡単なミスではあるが、修正が面倒だ。一時間もあればすべて元通りにすることができるが、それを定時前に真凡に知らせることにした。
「本当にグズ!」
二人きりとなって遠慮のない罵声が飛ぶ。
隣でキーボードを打ちながら千奈はニヤける顔を抑えるのに必死だった。
部署の飲み会ではあったが、総務の棚田という真凡の同僚も顔を出すことになっていた。
棚田は高学歴の長身、スポーツマンらしい体格をしていて爽やか系イケメンだと会社でも人気がある。
真凡はあからさまに棚田を狙っている。傍から見てもわかる程でそれは面白い。きっと棚田は恋人がいるのだろうが、真凡は気にしていないようだ。棚田の恋人より、自分のほうがいい女だという自信があるのだろう。そこも可愛い。
本来ならば真凡は千奈だけを置いて、お店に行っていただろう。
けれど千奈はみんなの前でミスをしたことを言い、上司が真凡にもフォローを頼むよう言い出す空気を作った。
その結果、事はうまくいき、真凡は会社に残っている。
棚田に会うために着飾っているのか、今日の真凡は一段と可愛かった。
「今日はおしゃれですね」
「は? うるさい。仕事しなさいよ」
怒ってる。可愛い。
仕事しなさいと言うわりに真凡が仕事が遅い。客先対応は向いているようだが、事務作業は不向きのようである。画面とにらめっこしている様子は普段あまりみることがなく新鮮で、時々ちらりと盗み見するとしかめ面でモニターを見ている真凡がいて、千奈には至福の時だった。
けれど、千奈は仕事が早くほとんど終わってしまった。予定より20分も早く終わってしまったのだった。
「終わったので手伝いますよ」
「当たり前でしょう。あんたのミスじゃない」
遠慮がない様子も好きだ。
行きたいお店に狙っている男がいるあの場に早く行きたいのだろう。
真凡はデータを千奈に渡すとさっさと電源を落としてしまった。
「もう行くんですか?」
「あんたのこと待たないわよ」
「一緒にいった方が部長に何も言われないと思いますが」
「別にいいのよ、あんな男に何言われようとも」
言い返せる気の強さがあるのだろう。
それだけ言い残すと、真凡は振り返ることも千奈に何か言うこともなくさっさと部屋を出ていった。
真凡が残した仕事は半分も終わっていないが、千奈にとっては一瞬で終わる程の量だった。
けれどあえて会社に残り真凡と20分程の差をつけてお店に到着した。
「おつかれ千奈」
「あれ、どうしたの?」
視線の先に珍しく語気を荒げる部長と頭を下げている真凡が見えた。
同僚の隣に腰を下ろしたが、視線はずっと先のテーブルを見つめる。
「千奈だけ置いてきたじゃない? お酒も入っているし普段の鬱憤も溜まってるのか、部長がすっごい怒っちゃって」
「へえ。怒るんだ」
「そうなの! 珍しいよね、でも皆良い気味だって笑ってたけど」
真凡は後ろ姿だけでもわかるほど、小さく縮こまり部長の言うことに大人しくしている。
大好きな棚田が部長の隣に座っているので何も言えない状況なのかもしれない。
千奈はお酒を注文し、みんなと乾杯を交わしながらも肩を落とした真凡の様子が気になり、話は半分にしか耳に入っていなかった。
説教が終わったのか、真凡は席替えをし仲のいい女グループと一緒に座っていた。
千奈と視線が合う。睨むように見られていたので、こぼれた笑みをグラスの影に隠した。
「廣渡さんだよね?」
「はい、そうですが」
しばらく後、各々が自由気ままに移動し始めた頃、グラス片手に棚田が隣にやってきた。
周囲は良い男だと言うが、千奈にはその魅力が感じられない。
棚田と会話をしていると視線を感じる。あからさまに面白くないという態度を顕にした女が一人いる。
「豊本とはうまくやってる? あいつと一緒に仕事してるって聞いたよ」
「はい。豊本さんは色々教えてくれます」
「本当? イヤなこととか言われてない? 仕事押し付けられたりさ」
「いえ、そんなことありませんが」
「ちょっと、千奈。棚田さんに言えばいいじゃん」
同僚が入ってくる。千奈は一瞬不機嫌そうな顔を出したが、同僚の口は塞がず、彼女が棚田に訴える様子を静かに見守ることにした。
彼女は普段から抱え込んでいたであろう不満を棚田にぶつける。
棚田は腕を組んで、しっかりを話を聞いているようだった。
「棚田くーん、飲んでる?」
赤ワインが入ったグラスを持って真凡が向かいの席に腰をおろした。ほんのり顔が赤くなっている。アルコールにはさほど強くなさそうだ。
「豊本、今お前の話聞いたよ。本当にひどいやつだな」
「え〜? なんの話? この子たちから聞いたの?」
「そうだよ」
「やだ、棚田くん真に受けないでよ。この子たち話盛ってるのよ、私だって廣渡さんの尻拭いしてあげてるんだし」
「彼女たちがオレに嘘つく理由なんかないだろ。さっき部長も怒ってたけど、お前本当にひどいよ。先輩としてどうなんだ」
「で、でもさ……」
「でもじゃないだろ。なに言い訳してんだよ。入社研修の時からお前評判悪いよ?」
棚田はここぞとばかりに真凡を責め出し、千奈は酔いが一気に冷めていくのを感じた。
同僚や周囲の女は棚田さんが言ってる、とクスクス笑い真凡をバカにしていたが、千奈には棚田がこの場を借りて自分たちに恩を作ろうとしているようにしか思えず返って不快な気分だった。
入社研修時の不満など今更持ち出す話でもないだろうに。
真凡は怒りを顕にしていたが、怒鳴り返すことはなく、そのままトイレに駆け込んだ。
「棚田さん、ありがとうございました。なんだかスッキリしました」
「いいんだよ、あいつ調子に乗ってるしさ。廣渡さんも今度豊本が何かしてきたらオレに言ってよ。あ、そうだ連絡先交換しない?」
「いえ、結構です」
「ちょ、ちょっと千奈」
「何かあったら私が直接豊本さんにお話しますので。大丈夫です」
本当は適当にあしらいたかったが、一応先輩を立てるように断ると棚田は少しだけムッとした表情をしていたが、お酒も入っていたことなのでそのまま流すことにしたようだった。
千奈はお酒を飲みながら真凡が戻るのを待った。
しばらくして戻ってきたが、彼女は千奈たちのテーブルに戻ることはなく、隅の仲のいいグループへと戻っていった。
「廣渡さんお酒強いね」
「そうでしょうか」
「友達がバー経営しててさ。良かったら二人だけで行かない?」
棚田が誘ってきたが千奈の視線は角のテーブルに固定されたままだった。
「ああ、あいつはいいよ。見ろよ、ひでー姿」
酔い潰れた真凡を皆が見捨てて店を出ていく。
数人が声をかけていたが大声で断られ、それでもと手を引いて助ける人は皆無だった。
「豊本さんが心配なので私が連れて帰ります」
「いいって。あいつ助けても良いことないよ」
腕を掴まれた、その行為が不愉快だった。
千奈は遠慮なく腕を振り払うと、少し先にいた上司に聞こえるように声を張った。
「部長! 私が豊本さん連れて帰ります!」
「え? そうしてくれると助かるよ」
部下を残して去るのは心残りだが、彼女をどうしようか持て余していた部長には助け舟だったようであからさまに安心した表情になっていた。
千奈の声を聞いた周囲の人間は心配事が減ったようで、二次会どうしようか、誰がいけるのか、次のことを既に話し合っていた。
棚田は千奈に聞こえるように舌打ちをして、二次会に行くという群れへと向かった。
「豊本さん、帰りますよ」
「……っるさい! やめて!」
「お店の方迷惑してるんで」
顔を上げて千奈を睨む真凡の瞳はかすかに潤んでいた。
あ、泣いてたんだ。
真っ赤に蒸気した顔で潤んだ瞳。
千奈は緩みそうになる顔に力を入れて、店員にお願いしタクシーを止めてもらうことにした。
ややあって、店員がタクシーを捕まえたことを報告しにきてくれる。
千奈は鞄を抱えて真凡を無理やり起こすと、嫌がる真凡を半ば強引に店の外に連れ出した。
「家どこですか?」
「なっんで、あんたが……」
「心配なので」
「おりなさいよ! バカ! クズ!」
「はあ。住所も言えないんですか?」
「言えるわよ、バカ」
後部座席で暴れる女に、少しだけ狼狽える運転手。千奈は真凡が言わないので、自宅の住所を伝えた。
「は? それどこよ」
「私の家ですけど」
「バカ! バーカ! 誰があんたの家になんか行くのよ。ちょっと、運転手さん!」
そこでようやっと真凡が自宅の住所を告げた。
後部座席に体を預けて、ふざけるなと文句を言う真凡に千奈は笑いが止まらなかった。
「罵声のレパートリー少なすぎません? バカしか言ってないですよ」
「いいのよ、あんたなんかバカなんだから」
「バカしか言わない豊本さんの方がバカにしか見えないですけど」
「……あんたそんなはっきり言うやつだっけ?」
「さあ?」
会話はそれで終わった。
車が夜の街をかけていく中、真凡は睡魔に耐えきれず瞳を落とし千奈はその横でただひたすら到着を待った。
駅から近いマンションでオートロックだった。
寝ていた真凡を起こし担ぐような形で車を降りた。
勝手に鍵を出し部屋番号をなんとか聞き出すと、エレベーターに乗り込んで部屋の前へと到着した。
真凡は静かだった。
首が痛くなるほど頭が下がってその表情は見られない。
千奈は解錠し、真凡の家へと上がりこんだ。
室内はキレイだった。
物が少なく、丁寧に生活している様子が伺えた。
ベッドルームに向かい、彼女をベッドに寝かせる。
1DKの部屋。寝室として使用しているこの部屋もとてもキレイで整理整頓が行き届いている。
家に誰かを連れ込むことを想定して片付けて今朝家を出たのだろうか。
千奈はクローゼットを開けて中を確認したが、見えないところもきちんと片してあり普段からこの生活であることが伺えた。
コートは色順に並べてハンガーにかけられ、シャツも取り出しやすいよう収納されている。
バッグや靴も使いやすいように並べられ、下着も色別でグラデーションになるようになっていた。
冷蔵庫には調理済みの食材がタッパーに保存され、彼女が普段から料理をしていることがわかる程調味料がキッチンには置いてある。
テレビのリモコンはテーブルの上で並べられ、白いソファにはシミもない。
「あーますます好きになっちゃうなー」
千奈はあらかた部屋を見回った後寝室に戻って真凡の寝顔を見た。
化粧も落とさず寝ているので、せっかくキレイに洗ってあるシーツが汚れるだろう。
腕時計だって普段は定位置があるだろうが、千奈にはそれがわからないのでなにもできない。
いや、できることが一つだけあった。
寝る時に真凡がどうする派かは知らないが、下着をつけたままだと苦しいだろう、そう思い千奈は外してあげることにした。
無遠慮にシャツをめくる。
キャミソールの下に紫色のレースのブラジャーが見えた。
「紫似合いますね」
お酒を飲んでいた時よりも体が熱く興奮しているのが自分でもよくわかった。
上を見ると下も気になってくる。
スカートをたくしあげ、ストッキングの下の色を確認した。
上下は同じものだった。
今夜同僚と一夜を過ごす妄想でもしていたのだろうか。これが勝負下着かどうかはわからなかったが、引き出しにある下着の中で一番派手なのは間違いなかった。
下着のホックを外そうかと考えたが、思い直してやめることにした。
体位を変え、布団をかぶせて寝室を出た。
何も告げずに帰ろうかと思ったが、このまま誰かが連れて帰ったのか覚えていないのも癪なので千奈はあえてメッセージを残すことにした。
引き出しからメモとペンを拝借し、自分がここに入ったこと、鍵は郵便受けにあることを告げる。
真凡は翌朝きっと驚くだろう。
恐らく嫌われている千奈が部屋に入って介抱した事実なんて真凡は知りたくないはずだ。
想像すると笑いが止まらない。
月曜日の朝が楽しみで、千奈はメッセージをテーブルの上に残して真凡の部屋を後にした。
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