三日間の恋
瞼を開けると、まず視界に入ってきたのは格子柄の壁。
十畳ほどの部屋、その窓際のソファーで私は眠っていたようだ。
窓の外からは、目を開けていられない程の光が溢れてきている。
今は朝か。
そう思いながら、ソファーの横の机にスケッチブックが置いてあるのに気が付いた。
そっとそれを手に取り、開いてみる。
『私の記憶は72時間しかもたない』
あぁ、そうか。そういう事か。
なんとなくだが、記憶になくとも体が覚えているんだろう。
ここにスケッチブックが置いてあることも、私がここに居る事も、さほど違和感は覚えない。
子供の頃の記憶はある。
小学校も、中学校も、高校も。
学生時代の記憶は鮮明に思い出す事が出来る。
でもそこからは良く分からない。
スケッチブックをさらにめくる。
『私の名前は遡上 アルカ。生まれた年は1992年』
成程。
つまり私は……いや、今西暦何年だっけ。
私は目を泳がせ、部屋を観察する。
するとすぐそばの壁に、カレンダーがかけてあった。
そこには2012年と書いてある。
つまり今は2012年。そして私は今年で二十歳と言う事か。
さらにスケッチブックをめくる。
『私は前向性健忘。忘れたくない事はメモる事』
未来の自分へあてた注意書きという事だろうか。
しかし何故だろうか。自分でも不思議な程冷静だ。
このスケッチブックの確認も、まるでルーチンワークのように熟している。
記憶は全くないというのに、私は私の状況を把握しているようだ。
さて、過去の自分はどんな注意書きを残したのだろうか。
忘れたくない事なのだから、きっと沢山……
『私の好きな人は……』
……?
好きな人は……誰なんだ。
ここまで書いておいて、肝心の名前が書いてない。
おい、過去の私よ、ちゃんと書けよ。
私は過去の私へと文句を言う。
するとその時、部屋のドアが開き、一人の男性が入ってきた。
「おはようございます」
一人の青年だった。
黒いジーパンに黒い長袖のシャツ。ついでに髪も黒。男の子にしては髪は長めで、胸のあたりまで伸びている。いや、伸ばしているのか。
「自己紹介をしましょうか」
青年はそう言いながら、私へと近づきつつ窓をあける。
冷たい空気が部屋の中へと入ってきた。爽やかで目が覚める、いい風だ。
「僕の名前は 古藤 梓といいます。貴方の名前は?」
「私は……遡上 アルカ」
見知らぬ青年へと名前を告げる。
この青年の事は知らないはずなのに、少しだけ違和感を覚えた。
私は……彼を知っている? いや、矛盾してる。
「僕は貴方の世話係を命じられました。よろしくおねがいします」
「よろしく……。突然で申し訳ないんだけど、初対面……だよね?」
青年は表情を変えず、一言だけ「はい」と答えた。
そのまま棚からティーカップを出し、紅茶を淹れ始める青年、古藤君。
随分若く見える。高校生……か?
「古藤君……君、いくつ?」
「僕は今年で十九です。ちなみにアルカさんは二十七歳です」
えっ、私二十七?
でもそこのカレンダーは2012年。
私の計算が間違っていなければ二十歳のはずだ。
もしかしてそんな小学生並みの計算すら出来なかったのか?
いや、合ってる。何度も頭の中で暗算を試みるが、私の計算は合っている筈だ。
「古藤君……私、二十歳じゃないの?」
「あぁ、そこのカレンダーは……アルカさんが事故にあった年だと……聞きました」
事故……事故か。
そうか、私はこの年に事故にあって……こんな状態になったのか。
「どうぞ」
古藤君はスケッチブックが置いてあったテーブルへと、紅茶を置いてくれる。
「……ミルクは無い?」
「……ありますよ」
図々しい注文をしても、古藤君はミルクがたっぷり入った銀製の器もテーブルの上に。
「ありがとう」
お礼をいいつつ、私は銀製の器へと手を伸ばす。
何の変哲もない、小さなマグカップ程の器。取っ手がついていて、注ぎ口は鳥のくちばしのようにとんがっている。
紅茶へとたっぷりミルクを注ぎ、スプーンでかき混ぜた。
鼻になんとも言えない、甘い香りが。
「私、ミルクティーが大好きなんだ。古藤君はストレート派?」
「どっちだと思います?」
古藤君は変わらず、好青年っぽい笑顔で対応してくる。
先程から表情は変わらない。
「そういえば……私のお世話係なんだっけ。誰に言われたの?」
「アルカさんのお父様からです。ちなみに今はブラジルに居ます」
「ブラジル……。何してるの?」
「アマゾン川で少数部族の文化について研究しているとか。ロマンがありますね」
そう、なのか?
私には良くわからないが、私の父はそういう仕事をしているのか。
もしかしたら歴史学者とか……そっち系の人だろうか。
「ごめんね、こんな私の世話なんてさせて。ちゃんとお給料とか……」
「…………」
その時、初めて青年の表情が変わった。
歯を食いしばり、体を震わせながら……泣きそうな顔をしている。
「ど、どうしたの?」
「……いえ。給料はちゃんと頂いています。ご心配なさらないで下さい。では朝食の用意をしてきます。何かあれば呼んでください」
そのまま古藤君は部屋を出て行った。
あの顔は……一体なんだったのだろうか。
私は知らず知らずの内に……不味い事でも行ってしまったのだろうか。
※
《二十四時間前》
どうしても……アルカさんが遊園地に行きたいと言い出した。
しかしこの辺りに遊園地など無く、一番近くのテーマパークでも電車で何時間かかることか。
そうなると、下手をすれば遊園地についた頃には閉演時間だ。
「……無理っす、アルカさん」
「えぇー、行きたかったなぁ……遊園地。じゃあ明日連れてってよ」
明日……明日は……また僕とアルカさんは初対面に戻る。
そこで僕は言い出せるのか? 突然遊園地に行こうと。
初対面の男がいきなりそんな事を言ってきたら……軽く恐怖なのでは。
「まあいいや。じゃあそれっぽい所で。連れてって」
「また適当な……。それっぽいってどれっぽい所ですか」
「遊園地っぽい所。雰囲気がイイ所がいい」
雰囲気がイイ所。
かなり個人的主幹が強い言い方だ。そもそも、僕は遊園地自体、そこまで好きじゃない。
だから雰囲気がイイとは思わない。まあ、アルカさんが言う「イイ」の意味も良く分からないが。
「まあ、わかりました」
僕は超適当に返事をし、とりあえず近くの公園へ連れて行こうとアルカさんへコートを手渡す。
今は秋とはいえ、そろそろ冬も近い。少し北の方に行けば雪も降りだすかもしれない。それくらい空気は冷たい。
「楽しみだなぁ。梓君はどこに連れってくれるのかなぁ」
「あまり期待しないで下さい。そこまで“イイ所”でも無いんで」
じゃあ行かない、とブーブー言い出すアルカさんへとコートを無理やり着せ、手を引いて部屋から引きずり出す。アルカさんが行きたいと言い出したのだから、もう文句は受け付けない。今は僕のターンだ。
「梓君ってば、強引なんだから」
アルカさんは大人っぽい女性の色気を醸し出すかのように、これみよがしに唇へと触れてみせる。
それを流し見しつつ、僕はアルカさんの手を取り……繋ぐ。
「……梓君の手、あったかい」
「えぇ、僕は心が冷たいんで」
「そんな事ないよ。こんな私のお世話をしてくれるんだから。梓君は優しい男の子だよ」
その言葉が、無性に頭に来た。
こんな、こんな私という言葉が。
「こんなって……なんですか」
「え? 何?」
「自分の事……そんな風に言わないでください。僕は……そんな言い方大嫌いです」
「え、ぁ、うん、ゴメン……」
少し、アルカさんは僕の手を強く握ってくれる。
嬉しい反面、僕は悔しかった。何も出来ない自分が。
※
公園へと到着し、まず向かったのはジャングルジム。
アルカさんは子供の頃それが大好きだったようで、得意げに上って見せた。
「ほらほら! 凄いでしょ! 高い!」
「そうですね……というかパンツ丸見えですよ」
顔を真っ赤にしながらスカートを抑えるアルカさん。
ロングスカートなのだからパンツなど見えなかったが、その反応を見たくて少しイタズラ心が芽生えてしまった。
「……ほら! 梓君も上ってきて!」
「はいはい」
いい歳した男女がジャングルジムに上り、公園を見渡す。
なかなかに広い公園だ。池やバスケットコートもあり、ジョギングも出来るよう整備されている。
僕も時々、ここに走りに来ている。最近は寒くてサボっているが。
「ねえ、今何時?」
アルカさんに時刻を尋ねられ、僕は腕時計を確認。
「今は……九時を回った所です」
「そっかぁ。まだ時間あるね。今日は遊びつくそう」
そういいながら、アルカさんはジャングルジムを降りて、次に向かったのは鉄棒。
まるで子供だ。今年で二十七になるのに。でも僕はそんなアルカさんが可愛くて仕方ない。
自分の腰ほどの高さの鉄棒へと食いつくアルカさん。
僕は少し離れた位置から、アルカさんが何をする気なのか観察。
「ねえ、逆上がり、出来る?」
「出来ますけど……アルカさんは?」
「私はねえ……実は……出来ないんだ」
何を思わせぶりなドヤ顔で宣言しとるんだ。
「人生で一回くらい……逆上がりしたいよね」
「言い方が重いですね。たかが逆上がりで……」
「いいから! 今から私練習するから! 逆上がり出来るまで帰らないから!」
はいはい、と適当な返事をしつつ、僕は静かに見守る事にする。
「ふんぬ!」
気合の入った声と共に、逆上がりの練習を始めるアルカさん。
すると今度は完全に見えてしまった。何がってパンツが。
「アルカさん……今日はピンクですか」
「……何? 良く聞こえない」
嘘だ、めちゃくちゃ聞こえたはずだ。
その僕を射殺す勢いで睨みつけてくるのがいい証拠だ。
「逆上がりは……また今度にしよう。ジャージ着てこよう」
「そうしましょう。次は何で遊びますか?」
んー……とアルカさんは悩みつつ、次は何を見つけたのか再び小走りしだした。
その先に居たのは……マルチーズ。
一人のおばあちゃんが、可愛らしい真っ白のマルチーズと散歩していた。
「す、すみません! 撫でていいですか?」
おばあちゃんに駆け寄るなり、そんな事を言い出す二十七歳。
マルチーズの飼い主、おばあちゃんは快く承諾し、アルカさんは満面の笑み。
しかし……
「ワン!」
「ひゃぁ!」
マルチーズに威嚇され、思い切り尻餅をついてしまった。
そしてそのまま、マルチーズはアルカさんに飛びつき、顔を舐めまくる。
「うぷ……ちょ、まって、まって、あはははは、わかった、わかったから!」
まあ、楽しそうで何よりだ。おばあちゃんも大変にいい笑顔で見守ってるし。
そのままマルチーズを抱っこしつつ、モフモフを堪能。
僕も少し撫でさせてもらい、おばあちゃんとマルチーズへと別れを告げる。
「いい……可愛いワンコは正義だね」
「そうですね。ところで服に毛が付きまくってますけど……」
「まあ、家に帰ったら取るよ。それで集めてコレクションするの」
「そんな事しなくても……犬くらい飼えばいいじゃないですか。世話は僕もしますし……」
「……ダメだよ。私……忘れちゃうもん。ワンコが可哀想だよ」
少し風が冷たく感じた。
僕はどうなのだろうか。ワンコと同じく、僕の事も可哀想だとか思っているのだろうか。
そんなのは嫌だ。
アルカさんだけには……そんな風に思ってほしくない。
「さぁてと。少し疲れたねぇ。喉も乾いたし。どっか座って休憩しよっか」
「そうですね。じゃあ僕ジュース買ってきますよ。そこのベンチで待ってて下さい」
アルカさんを一人ベンチへと残し、僕はジュースを買いに自販機へと。
硬貨を入れ、暖かい紅茶をチョイス。
アルカさんはミルクティーが好きだ。僕はストレート派だけど。
そのままジュースを買い、ベンチへと戻る。
その時、アルカさんが泣いているように見えた。涙は流していない。でも何故か、僕には泣いているように見えた。
「アルカさん……どうしたんですか?」
「ん? んー……なんかね、楽しすぎるのも考え物だなぁって」
そっとアルカさんへと、栓を開けた暖かい紅茶を渡しつつ、隣へと座る。
アルカさんは一口、紅茶を飲みながら公園で遊ぶ子供達を眺めていた。
「ごめんね、しんみりしちゃうよね。私……忘れちゃうからさ。なんか……その……忘れたくないなぁって……」
「……大丈夫ですよ。僕が……憶えてますから。明日、またアルカさんをここに連れてきます」
「……うん。じゃあお願いしようかな……」
アルカさんは、僕の肩へと頭を乗せてきた。
アルカさんにとって、僕はほんの三日前に出会ったばかりの男だ。
でも僕は違う。僕はアルカさんと二年間、同じ家で過ごしている。
僕は当然のようにアルカさんに恋をした。でもアルカさんは……三日経てば僕と初対面に戻る。
「アルカさん……どうしたんですか? 出会ったばかりの男に……そんな風に甘えちゃダメですよ」
「……なんかね、記憶が無くてもさ、なんとなく……なんとなくだけど、わかるんだよ」
言いながら、アルカさんは僕の手を握ってくる。
「私さ、記憶って脳の他に……心にも宿るのかなぁって思ってるんだ」
「それは……ロマンがありますね」
僕はアルカさんの手を……握る。強く。
「三日前に梓君と出会ったとき、少し違和感っていうか……なんか感じたんだ。なんていうか……上手く言えないけど……」
「そう……ですか」
アルカさんは、僕の事を決して好きとは言わない。それは過去、どれだけ遡っても、どれだけ親しくなっても。アルカさんは僕の事を好きとは言わない。
それは……僕のためだろうか。
好きと言ってしまえば、初対面に戻った時、僕が辛すぎるから……。
実際、僕は泣いてしまうかもしれない。
だからアルカさんは、僕の事を好きとか、愛してるとか……そういう事は言わない。
僕も別にそんな言葉を望んでいるわけじゃない。
望むのは……ずっとこの時間が続く事。
このまま時間が止まって、このままのアルカさんのまま……
「……明日が怖いよ……記憶がなくなる事じゃなくて……もし梓君が居なかったら……」
「居ますよ。安心してください。安心して……いい加減ベッドで眠ってください。ソファーでいつも寝て……」
「寝たくないんだもん……寝たくないのに、いつも……いつの間にか眠ってて……気が付いたら……」
アルカさんの手が、いっそう僕の手を強く握る。
「ごめんね、こんなの、ただのワガママだよね。こんな私に梓君は拘束されて……」
「また言いましたね……こんな私って……」
アルカさんは一瞬震える。
僕に叱られると思ったのだろうか。
「僕は……ずっとアルカさんと一緒に居ます。約束です。決して嫌々アルカさんのお世話をしてるわけじゃありません。これが僕の……仕事ですから」
「え、仕事だから?」
「ええ、仕事だからです」
アルカさんは大きく頬を膨らませた。まるでリスみたいだ。
僕はそっと、その頬を潰すように指でつつく。
「梓君ったら……そんなクールな男きめちゃって」
「僕はクールですよ。だから安心してください。クールな僕は、いつまでもアルカさんと一緒にいます」
いっそのこと、気持ちを口にしたい。
好きだと、自分の気持ちを告白したい。
でもそれを言ってしまえば、僕は潰れてしまう。
その言葉は言ってはいけない。このままアルカさんと一緒に居るために。
そしてそれは……アルカさんも分かっている。
だから、あのスケッチブックには……
「そろそろ帰ろっか」
「ええ、寒くなってきましたしね……今夜はシチューにしましょう。アルカさんの好きなビーフシチューに」
そうして……再び僕達は初対面に戻る。
いつまでも一緒にいるために、気持ちを抑えながら。
互いに互いを想いながら。
アルカさんの記憶は……僕が全て、持っていく。
この先、いつまでも。
いつまでも